3000年以上続くユダヤ人迫害の歴史

palezio
ユダヤ人迫害の歴史は、紀元前まで遡ることができる。ヒトラーだけが悪役であるかのように引用されることがあるが、同様の虐殺行為は歴史上繰り返されてきた。

古代にはじまるユダヤ人の歴史

聖書に登場する出エジプト記

『出エジプト記』は、旧約聖書の二番目の書です。『創世記』の後を受け、モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれています。

第19王朝(1320ー1200)の時代であろうと言われている。

出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、 これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。 人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。 この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、 全く新しい神認識に至ったと言うことである。
和田幹男/� 出エジプトの出来事−Exodus−

出エジプトの記録は、旧約聖書の記述である。これは、実際に出エジプトが史実であったとして数世紀後に書き留められたものであろうから、宗教的な観点などからの修正が行われている可能性は高い。だが、ユダヤ人の迫害され、脱出し、離散するという経験の一つとして宗教的記憶に留めたことは間違いない。

聖書に記録されるユダヤ人の歴史

バビロン捕囚

新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件

紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。

バビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなくこの世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになった。

ローマ時代

エルサレムを含むパレスチナ地域は、ローマの属州「ユダヤ属州」という地位で存在した。多神教のローマに対して不満を持ったユダヤ人は第一次ユダヤ戦争、第二次ユダヤ戦争という二つの大きな反乱を起こし、ついにローマに滅ぼされ、完全な離散民族となった。

アエリア・カピトリナ

ローマ皇帝ハドリアヌスの治世に発生したバル・コクバの乱の後、ユダヤの痕跡を一掃する目的でローマ様式に再建されたエルサレムの新名称。

宗教に寛容だった時代のローマ帝国だったが、ユダヤ人の反乱があいつぎ、ついに聖地エルサレムから追い出されることになる。

ローマ属州としての「ユダヤ」は「シリア・パレスチナ」と改名された。「パレスチナ」とは聖書に登場し、ユダヤ人のライバルであった「ペリシテ人の地」を意味した。現代でもユダヤ人はシリア・パレスチナに敵意を見せることが少なくない。

嘆きの壁
ユダヤ人は「かつてエルサレムと呼ばれた街」へ立ち入ることは許されず、それを破れば死刑となった。年に1度アブの月9日(8月9日)だけ、金を払うことでそれが許された。そして彼らは神殿の痕跡をわずかに伝える嘆きの壁を前にして泣いたのである。

レコンキスタ・十字軍時代

ヨーロッパ・キリスト教社会では「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。彼らは土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、ギルドから締め出されて職工の道を閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引の大幅制限などで商業の道を制限されていた。

1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動
ユダヤ人は、常に国家から追放されたり迫害される歴史を歩む。

第1回十字軍は、聖地エルサレムを占領して「ラテン王国」を建設した時(1098年)、同地に残っていたユダヤ人をことごとくシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に閉じ込め、それに火をかけて焼き殺した。
十字軍の暗黒史

十字軍はユダヤ人迫害を伴っていた。歴史の教科書はイスラムとキリスト教徒の戦いであるかのように記述するが、実際には全ての異教徒が迫害されていた。そして聖地エルサレムには当然ユダヤ人が多数居住していたのだ。

1200年頃にイギリスで描かれ14世紀にスペインで写された写本挿絵。上段はエルサレムのイエスと神殿の破壊、中段は主の敵によって斬首されるユダヤ人、下段はエルサレムを血の海にして復讐を遂げる十字軍。

ダマスカスの年代記作者イブン・アル=カラーニシ(Ibn al-Qalanisi、1070年-1160年)によれば、ユダヤ人の守備隊や市民はシナゴーグに逃げたが、フランク(西洋人)が建物ごと火を放ち、中の全員を焼き殺したという。ある目撃者は、十字軍は燃え上がるシナゴーグを取り囲みながら「キリストよそなたをたたえる、そなたは我が光、我が導き、我が愛」と歌を歌ったという。

スペインのユダヤ人迫害

1066年のグラナダ虐殺

イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺 (1066年)が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人が殺された。

ヨーロッパ史最初のユダヤ人虐殺であると言われる。スペインがイスラム支配だったころは比較的宗教に寛容だった。レコンキスタ完了後のユダヤ人居住地域は最初スペインに多く集まっていた。

イギリスのユダヤ人迫害

1089-1090 ロンドン、ヨークのポグロム
イギリスにおける顕著なユダヤ人迫害の例は1089年まで遡る
ヨーク城跡
ユダヤ人らは、市の防御施設の一つヨーク城のクリフォーズ・タワー内を聖地とみなした。城を急襲する準備をする間、群衆は罠にかけたユダヤ人たちを数日間包囲した。ユダヤ人自身か迫害者の方か定かでないが、火が放たれ、150人のユダヤ人が死んだ。

ドイツ・フランスのユダヤ人迫害

1096年のポグロム
第一回十字軍が誕生すると、ライン川流域地域(ラインラント)でユダヤ人迫害が発生する。ドイツの十字軍参加者は装備・資金ともに不十分だった。そこで、当方へ赴く前に逆方向のライン川沿いに向かい、豊かなユダヤ人コミュニティを次々と襲い略奪と殺戮を重ね、異教徒征伐の名目で物資調達を行った。
襲撃されたライン中流域の町
シュパイエル(1096年5月3日)
ヴォルムス(1096年5月18日と25日)
マインツ(1096年5月28日)
ケルン(1096年7月8日)
ノイス(1096年7月14日、ジュッセルドルフに隣接した町)

即刻洗礼を受けてキリスト教へ改宗しないユダヤ人は、女、子供の見さかいなく虐殺されたり、焼かれたりした。ユダヤ人たちはドイツ皇帝や司教の保護の名のもとに抵抗を試みたが、多勢に無勢でなすすべもなく、多くのユダヤ人は自分の家に火を放ち、財産もろとも焼身自殺をしたのだ。
十字軍の暗黒史

ユダヤ人を虐殺し、彼らのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)やゲットーを破壊することは、キリスト教徒の正義の証しとみなされ日常茶飯事となった。
十字軍の暗黒史

ポルトガルのユダヤ人大量虐殺

1506年のリスボンポグロムの様子

ペストの流行とユダヤ人迫害

ドイツ史上最大のユダヤ人迫害が行なわれたのは、中世最大のペストが流行した時期(1348年前後)である。このとき、ペストが流行していない地域のユダヤ人も迫害された。

マルティン・ルターによる弾圧の提唱

1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルチン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。
『ユダヤ人と彼らの嘘について』

クリスチャンに対し、以下の7項目を実践するよう説いている。

– シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
– 更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
– 宗教書を取り上げるべし
– ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし
– ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし
– 高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし
– ユダヤ人を農奴として働かせるべし

本論文が宗教改革からホロコーストまでの数世紀において、ユダヤ人に対するドイツ人の態度に少なからぬ影響を与えた。プロテスタント運動の祖ともいえるルターが反ユダヤ主義者だった事実と合わせて、重要な歴史的事実だが、我が国の教科書には掲載されない。

17世紀のポグロム

Pogrom in the Frankfurt Judengasse – 1614
ヨーロッパ史におけるユダヤ人の虐殺行為は、ヒトラーが最初ではない。それどころか1000年以上に渡って繰り返し行われてきた行為だ。

19世紀のポグロム

へプへプ・ポグロムでドイツ農婦たちに農具で虐殺されるユダヤ人たち(ドイツ・フランクフルト、1819年)
1881南ロシアのポグロム
南ロシアで起こったポグロム

1905 帝政ロシアにおけるポグロム

Opfer des Pogroms in Ekaterinoslaw 1905, heute Dnipropetrowsk/ Ukraine
殺害されたユダヤ人の子供達

イェドヴァブネ事件

第二次世界大戦中の1941年7月に、ポーランドの町イェドヴァブネ近郊で起こったユダヤ人の虐殺事件(ポグロム)のことである。この虐殺事件は、長い間ドイツ軍部隊の仕業であると考えられてきたが、現在はほぼ全て、非ユダヤ系のポーランド人一般住人の手によるものであることがわかっている。
イェドヴァブネ事件
ユダヤ人は中心部の広場に集められて暴行を受けた後、赤破線のルートで連行されて焼き殺された。

1941 ハンガリーのポグロム

1941 ハンガリーのポグロム

1941年 ルーマニアにおけるポグロム

ヤシ・ポグロムの犠牲者

1941年7月に10,000人以上のユダヤ人が犠牲となったヤシ・ポグロム。

1941年7月から8月には、ヤシ、バカウ、チェルナウツィといった都市で地元民が率先して黄色のバッジ(ユダヤ人であることを示すダヴィデの星の形をしていた)をユダヤ人に強制した。

ナチスによるホロコースト

ナチスドイツはユダヤ人を迫害したとされる
教科書の記述などでは600万人が虐殺されたとされている。

イスラエルによるユダヤ人迫害

イスラエルが敵視するパレスチナ人は古代のユダヤ人の子孫だ

パレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。

ユダヤ人に追い出されたパレスチナ人

以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した。ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。

第一次大戦後のシオニズム運動によってイスラエルが建国されもともと定住していたパレスチナ人が国を追われることになった。

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https://matome.naver.jp/odai/2137976383570783201
2017年11月30日