原爆誕生の経緯から投下までの道のり

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原子爆弾は従来の火薬による爆弾とは全く違い、桁違いの爆発力を持っている。ウランやプルトニウムの原子核の核分裂反応から生じる強大なエネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線を放出し、たった一発で都市を破壊する。その原子爆弾が広島、長崎に投下されるまでの短いようで長い道のりを、ウラン元素の発見から追う。

そもそも、何故原子爆弾が開発されるに至ったのか?

核兵器の開発は1930年代後半の政治潮流と科学の発展に端を発する。この時代にヨーロッパでファシスト政権が誕生したことと、原子の性質に関する新たな発見がなされたこととが一つの流れにまとまり、アメリカとイギリスにおいて原子核分裂反応をエネルギー源とする強力な兵器を開発する計画が生まれた。
トリニティ実験 – Wikipedia

1789年 ウラン元素の発見

ドイツの化学者クロプロートがウラン元素を発見 。同時期に発見された天王星(ウラヌス)にちなんでウランと名付けられる。原子番号は92。

1895年 X線の発見(初めて発見された放射線)

ヴィルヘルム・レントゲンが放射線の一種であるX線を発見。レントゲンによって、数字の未知数を示すXから「X線」と命名された。X線は初めて発見された放射線で、通常の光より物体を通り抜ける力が強く、レントゲン写真は、この性質を利用したものである。

1896年 ウランから放射線を発見

フランスの物理学者アンリ・ベクレルは、蛍光物質の研究をしていた。レントゲンがX線を発見したと聞き、蛍光物質もX線を放射するに違いないと考えた。ベクレルはある時偶然、ウラン化合物と一緒にしまっておいた写真乾板が感光していることを発見した。乾板を感光させたのは、X線のように特別な装置を使わなくてもウラン化合物から絶えず発せられる放射線であった。

1898年 ウラン以外の放射性元素と放射能の発見

放射線研究の先駆者であり、放射能時代の扉を大きく開けた人物。
キュリー夫妻はベクレルの放射能発見に興味を持ち、ウランの濃度に対する放射線の強度の分析を行った。その結果、ウラン以外の放射性元素を発見(ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウム、トリウム)を発見。また、ウラン化合物等からは絶えず自発的に放射線が出ていることを確認した。この様な放射線を出す性質を「放射能(RADIOACTIVITY)」と名付けた。ラテン語でRADIOは「光の放射」を、ACTIVITEは「能力」を意味する。

マリ・キュリーは、初期の原子核物理学[85]そして社会学・医学や生物学の面において21世紀の世界にまで影響を与える大きな貢献を残した
マリ・キュリー – Wikipedia

当時、放射性物質の危険性は認識されておらず、キュリー夫妻は放射性物質を素手で触っていた。
夫人は放射線障害による再生不良性貧血で死去。フランスではその功績を称えられ、遺体は現在パンテオンに眠っている。

1911年 原子核(放射線の出所)の発見

核物理学の父、ラザフォードの助手であったハンス・ガイガーと学生だったアーネスト・マースデンが行った実験により原子核を発見。

■この結果から、ラザフォードはプラスの電荷が集中した小さな中心核(原子核)のまわりを、多数の小さな電子が回っている原子模型を完成させた。
■放射性元素から発せられる放射線は、原子核から発せられることがわかった。
■ウランからアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種類の放射線が出ていることを発見した。

原子の構造
この時は、まだ図にある「中性子」は発見されていない。

1932年 原爆の主役をなす「中性子(原子核の構成する素粒子)」の発見

原子核は陽子と電子で構成されていると考えられていたが、ラザフォードの弟子であるチャドウィックは実験により中性子の存在を明らかにし、原子核のモデルを確立した 。
原子爆弾は、中性子をウラン235やプルトニウム239にぶつけることで核分裂連鎖反応を起こし、強大なエネルギーを放出させる。中性子の発見により、原子爆弾及び原子力エネルギーの開放へとつながった。

中性子は核力により陽子と結合している
原子核とは、核子(陽子と中性子)が核力によって結合してできた複合粒子で、正電荷をもつ。
陽子は正電荷の素粒子だが、中性子は無電荷。
だが、正電荷の陽子の反発より強い「核力」を持っており、この力で陽子と中性子は安定的に結合している。

1938年 中性子をウランに当てると核分裂反応が起こることを発見

ドイツの化学者・物理学者であるオットー・ハーンとユダヤ系の物理学者リーゼ・マイトナーは、天然の原子の中でも最も重いウラン原子の原子核に中性子をぶつけて、その反応を見る研究を手がけていた。当初はウランよりも重い超ウラン元素が誕生するかと思われたが、中性子をウラン235に当てると中性子が吸収され、バリウムが生成されることを発見した。

ハーンは、実験の途中でナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、スウェーデンに亡命していたリーゼ・マイトナーにこの実験結果を手紙で知らせた。マイトナーは、後にアメリカで原爆の開発に関わる甥のオットー・フリッシュと共に、ウラン原子核がほぼ半分に割れたためであると考えた。

ウラン原子の原子核に中性子をぶつける
中性子をぶつけることにより起こるウランの核分裂反応で生成されるバリウム。

マイトナー、ウランの核分裂反応により中性子と熱エネルギーが放出されることを証明。

さらに計算の結果、ウラン235に中性子を当てると起こる核分裂反応により、中性子と共に大きな熱エネルギーを放出することがわかった。核分裂の際に放出される大きな熱エネルギーを瞬時に得るのが原子爆弾であり、原子爆弾構想の現実化への大きな一歩となった。

この時にマイトナーが使った公式が、アインシュタインが発表したE=mc2(エネルギー=質量 X 光速の2乗)。E=mc2は、物質が持つ質量はエネルギーに変換できることを示しているが、この公式を使って、ウランの質量欠損によるエネルギー放出と、バリウムの生成を説明した。

1939年 レオ・シラード、アインシュタインの署名入りの信書で米政府に原子爆弾の開発を進言。

手紙では、ウランによる連鎖反応が近々実現され、それが強力な爆弾となりうることを指摘した上で、政府の注意の喚起と研究の支援、そして政府と物理学者とを仲介する仕組み作りを訴え、最後にナチス・ドイツの核エネルギー開発を示唆する事実を指摘していた。
アインシュタイン=シラードの手紙 – Wikipedia

アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙。
1939年、これまでの核分裂研究成果や、それによって裏付けられた原子爆弾の可能性をアメリカ政府に訴えるため、同じユダヤ人で1905年に相対性理論を発表したアインシュタインの名声を利用し原子爆弾の開発を進言。

ユダヤ人物理学者レオ・シラード(後にマンハッタン計画に関わる)は、核分裂発見の5年も前から核分裂の連鎖反応から膨大なエネルギーが取り出せることを予測していた。彼はナチスドイツが原子爆弾の開発に成功することを懸念しており、原子爆弾の開発をドイツより先に成功させる必要があることをアメリカ政府に訴えるべきであると考えていた。

アインシュタインとレオ・シラード

アインシュタインは、原子爆弾の製造には関与していない。

アインシュタインは原子爆弾の製造に関わっていたとよく誤解されているが、アインシュタインはマンハッタン計画や原子爆弾製造には全く関与していなかった。後にアインシュタインは、手紙に署名したことを後悔している。

アインシュタインは1907年、あまりにも有名な公式E=mc2を発表し物質が持つ質量はエネルギーに変換できることを示したが、1938年に発見された核分裂に対して、アインシュタインが発表した公式を使って質量欠損によるエネルギー放出を説明したのはリーゼ・マイトナーである。アインシュタインの理論は核分裂という現象に物理学的理解を与えただけであった。

1941年 核兵器原料としての人工元素「プルトニウム239」の発見

プルトニウム239の生成過程

ウラン235以外に新しい原爆用燃料としてのプルトニウムが発見された。
原子爆弾に必要な「ウラン235」は、自然界にはごく微量しか存在しない。天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で残りは核分裂を起こしにくいウラン238である。天然ウランからウラン235を取り出すにはウラン濃縮という工程が必要だ。しかし、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量の電力を消費する。

一方、プルトニウムはウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウランのような大量の電力を消費する濃縮過程を必要としない(原子炉さえあれば生産できる)。

ここにウラン型原爆、プルトニウム型原爆の2種類の原子爆弾を生むことになるウラン235、プルトニウム239という2つの元素が揃った。

1942年6月 ルーズベルト大統領、原爆製造を国家プロジェクト(マンハッタン計画)として発足させる

マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、英: Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。
マンハッタン計画 – Wikipedia

1942年11月 ロスアラモスに研究所の設置が決定。初代所長は理論物理学者のロバート・オッペンハイマー。

マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設された、アメリカの国立研究機関。マンハッタン計画のリーダーに選ばれたユダヤ系物理学者、ロバート・オッペンハイマーの提案で、研究所はニューメキシコ州ロスアラモスに置かれることが決まる。原爆の製造が本格的に開始された。

1942年12月2日 人類史上初の原子炉で核分裂連鎖反応を人工的に起こすことに成功。

世界で初めて自己持続する核分裂連鎖反応を人工的に起こすことに成功したのは、マンハッタン計画の最中の1942年12月2日、シカゴ大学のスタッグ・フィールドと呼ばれるフットボール場の観客席の地下にあったラケッツのコートを利用して設けられた実験炉シカゴ・パイル1号においてであった。
連鎖反応 (核分裂) – Wikipedia

オットー・ハーンらによって核分裂反応が発見されると、その後研究の重点は連鎖反応とその制御に移った。エンリコ・フェルミが世界で初めて自己持続する核分裂連鎖反応を人工的に起こすことに成功した。
原子爆弾は、大量のエネルギーを一気に放出させるために核分裂連鎖反応を瞬時に引き起こすが、
核分裂連鎖反応を制御しながら起こさせるのが原子炉である。

「ウランの連鎖反応が実現され、強力な爆弾となりうる」というレオ・シラードによる予測が現実のものとなった。

[図解]核分裂連鎖反応
原子力発電も原子爆弾も、ウランに中性子をぶつけることによって生じる核分裂の際発生するエネルギーを利用するという原理は同じ。
両者の違いは、核分裂の速度。
原爆の場合、一瞬で大量のエネルギーを放出するが、原子力発電所の場合、中性子の量をコントロールすることで一定の速度で分裂させ、少しずつエネルギーを放出する。

CP-1(シカゴ・パイル1号)は歴史上初めて臨界に達した最初の原子炉の名称である。原子爆弾の原料、プルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として開発された。長崎に投下された原子爆弾は、CP-1から抽出されたプルトニウム239で作られた。

1943年〜1944年 原爆の原料となる高濃縮ウランやプルトニウムの工場を建設、生産開始

巨大なウラン濃縮工場がテネシー州オークリッジに、またプルトニウム生産用の原子炉と化学分離工場がワシントン州ハンフォードに建設された。これらの巨大施設は1944年秋から翌年春にかけて次々と完成し、原爆の原料となる高濃縮ウランやプルトニウムの生産を開始した。
マンハッタン計画 (16-03-01-09) – ATOMICA –

オークリッジのウラン濃縮工場内部
電磁分離法による濃縮。(Y12プラント)
ハンフォードのプルトニウム生産炉

原子爆弾の開発、製造〜2種類の起爆方法の考案

1943年頃から44年にかけて、原子爆弾の2つの起爆方法が考案された。
原子爆弾を爆発させるためには、核分裂性物質の塊を瞬間的に集め、そこに中性子を照射して連鎖反応から、莫大なエネルギーを放出するための超臨界状態を作り出さなければならない。
超臨界を起こすための起爆方法として「ガンバレル型」と「インプロージョン型」が考案され、この2つの仕組みを用いて原子爆弾が製造された。

広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」はこのタイプ。

=インプロージョン方式
長崎に投下された「ファットマン」はこのタイプ。ガンバレル型に比べると構造が複雑。

1945年4月 マンハッタン計画を承認したルーズベルト大統領急死

当時副大統領だったトルーマンが新大統領に就任。

1945年7月16日 人類最初の核実験「トリニティ」

1945年7月16日にアメリカで行なわれた人類最初の核実験「トリニティ」。
現地時間5時29分45秒アメリカ・ニューメキシコ州で行なわれた。

この実験が何故トリニティと名付けられたかは諸説があるが、わかっていない。
(トリニティ:キリスト教では三位一体説を指す)

この実験は、爆縮レンズを用いた「インプロージョン方式」という新しい起爆方法で核爆発を起こすことができるか確かめるために行われた。インプロージョン方式の起爆方法は、広島に投下されたガンバレル型のリトルボーイより構造が複雑であったため、実験が必要だった。長崎に投下された「ファットマン」はインプロージョン方式。

トリニティ実験での核爆発を捉えた数少ないカラー写真
実験に使用された原爆には「ガジェット」というニックネームがつけられていた。
1945年7月16日にアメリカで行なわれた人類最初の核実験、トリニティの映像。
トリニティ実験に立ち会う関係者

ロスアラモス研究所長のロバート・オッペンハイマーはこの爆発を目の当たりにして、ヒンドゥー教の詩篇バガヴァッド・ギーターの次の一節が心に浮かんだと後に述べている。
我は死なり、世界の破壊者なり[9]。
実験責任者のケネス・ベインブリッジはオッペンハイマーに対して、”Now we are all sons of bitches.”(これで俺達は皆糞ったれだ)と言った。オッペンハイマーの弟のフランク・オッペンハイマーによれば、ロバート・オッペンハイマーは爆発の瞬間、ただ “It worked.”(うまくいったな)と言ったという。
トリニティ実験 – Wikipedia

ロスアラモス国立研究所の所長として、マンハッタン計画を主導したユダヤ系アメリカ人の物理学者ロバート・オッペンハイマーが晩年、­人類初の核実験「トリニティ」成功の直後を振り返り語る。ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーター(神の歌)[「マハーバーラタ」第六巻に収められている]の一節を引用。

1945年7月16日 リトルボーイ、重巡洋艦インディアナポリスでマリアナ諸島テニアンに向けて出発

ガンバレル型の原子爆弾「リトルボーイ」は、テストなしで投下されることになっていた。
まだ組み立てが終わっていない状態でサンフランシスコから重巡洋艦インディアナポリスによって、かつて日本軍が占領していたマリアナ諸島テニアンに向かい、7月26日に到着、陸揚げされた。

インディアナポリス (重巡洋艦)
広島、長崎に投下予定の原子爆弾用の部品と核材料運搬という重要任務にあたった。

1943年5月5日〜1945年7月24日 原子爆弾投下都市の選定経緯

1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された[18]。
京都市:AA級目標
広島市:AA級目標
横浜市:A級目標
小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された[18]。
直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[18]。
投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
日本への原子爆弾投下 – Wikipedia

京都は歴史的に由緒ある日本文化の中心であり、国宝級の建造物が多々あるため京都を原爆で一掃してしまうのはあまりにも無分別であるとして、スチムソン陸軍大臣の進言により京都はターゲットから外された。

1945年7月25日 トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認

トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認し、ハンディ陸軍参謀総長代行からスパーツ陸軍戦略航空隊総指揮官あてに原子爆弾投下が指令された。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた
日本への原子爆弾投下 – Wikipedia

1945年8月6日 広島に原子爆弾投下

トリニティ実験から僅か約3週間後の1945年8月6日、
重量約4トンのリトルボーイを搭載しテニアン基地を飛び立ったB29エノラ・ゲイは、
日本時間の午前8時15分、太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋を目標に高度9,600mからリトルボーイを投下。上空約600m(500mとも言われる)で爆発した。エノラ・ゲイは爆発の衝撃波に2度ほど襲われたが、テニアン島に帰還した。

ウラン型原子爆弾「リトルボーイ(ガンバレル型)」の威力

リトルボーイには約50キログラムのウラン235を搭載していたが、このうち核分裂を起こしたのは約1kg。僅か1kgが核分裂反応から超臨界に達し、爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線となって放出された。

原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
広島市/原爆被害の概要

ちなみに、太陽の表面温度は約6000度。

1945年8月9日 長崎市に原子爆弾投下

広島への原子爆弾投下の2日後、約4.5トンのファットマンを搭載したB29(ボックスカー)がテニアンを飛び立った。この日、第一目標は福岡県小倉市(現:北九州市)であったが、悪天候により急遽第二目標である長崎市に変更。日本時間午前11時02分、高度9,000mからファットマンを投下。高度503mで炸裂した。長崎は起伏の激しい地形であったため、ボックスカーは5度ほどの衝撃波を受けたが、沖縄で燃料補給しテニアンに帰還。

爆発の瞬間
原爆投下直後の長崎の珍しい写真。
衝撃波により、同心円状に広がる雲が見える。
中央より少し右よりに3人の人が写っている。

プルトニウム型原子爆弾「ファットマン(インプロージョン型)」の威力

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。 このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。 長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。
長崎市への原子爆弾投下 – Wikipedia

原子爆弾投下による死者数(広島)

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。
広島市/死者数について

原子爆弾投下による死者数(長崎)

死者73,884人
この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものだが、これが今日の通説となっている。
長崎市|平和・原爆|原爆の記録|原爆の威力

戦後の核拡散・開発競争

「20世紀を通じて人類による核実験、核攻撃は7カ国により2377回行われています。」
動画は14:25と少々長いですが、是非最後まで見てください。

プロメテウスの火〜人類は核をコントロールできるのか

プロメーテウスはゼウスの命令に背きながらも、人類が幸せになると信じて火を与えた。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。現在に至るまで、火は人類の進化や文明の発達に大きな役割を果たしているが、ひとつ間違えれば、すべてを焼き尽くす恐ろしい火になってしまう。
このことからプロメテウスの火とは、原子力など、人間の力では制御できないほど強大でリスクの大きい科学技術の暗喩としてしばしば用いられる。
プロメーテウス – Wikipedia

縛られるプロメテウス(ギュスターヴ・モロー作)
人間に火を与えた結果ゼウスの怒りを買ったプロメテウスはコーカサスの山の岩に鎖でつながれ、はげ鷹により永久に肝臓をついばまれるという罰を下されることになった。
https://matome.naver.jp/odai/2137440576760633701
2014年08月02日