黒田官兵衛とは?
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。キリシタン大名でもあった。
黒田孝高 – Wikipedia
・黒田孝高(よしたか)が正式の名前で、官兵衛は字(あざな)。出家後は如水の号を名乗った。
・築城の盟主としてしられる。
・キリシタン大名と知られる。洗礼名は「ドン・シメオン」
・倹約家。
・当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。
・辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」
1546年(天文15年) 黒田官兵衛0歳

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1559年(永禄2年) 黒田官兵衛12歳
母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。
※貝原益軒『黒田家譜』より
1561年(永禄4年) 黒田官兵衛16歳
御着城主、小寺政職の近習と成る
1562年(永禄5年) 黒田官兵衛17歳
この年に父と共に土豪(土地の小豪族)を征伐し、初陣を飾る。
このときに、名を万吉から孝高(小寺孝高)と改める
1564年(永禄7年) 黒田官兵衛19歳
室津の浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀(播磨国龍野城城主)に攻められ夫らとともに討たれる。
これにより、政秀は政宗の領していた室津近辺を奪取し領土を拡大している。
1567年(永禄10年) 黒田官兵衛22歳
父・職隆から家督と家老職を継ぐ。
また、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。
※てるは、黒田官兵衛のただ一人の妻であり、才徳兼備であったとされる。(志方城主・櫛橋氏の出身)
1568年(永禄11年) 黒田官兵衛23歳
12月:
長男松寿丸(後の長政)誕生
1569年(永禄12年) 黒田官兵衛24歳
黒田官兵衛が初めて、戦国武将としての名を近隣に、知らしめた年と成る。
赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくる。
対する黒田官兵衛の兵力300の兵足らず、それにも関わらず、籠城することなく、2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。
政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。
これ以後、黒田官兵衛は小寺氏の家老として頭角を表わす様に成る
1573年(天正元年) 黒田官兵衛28歳
小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち将軍義昭を追放し畿内で勢力を拡大する織田信長と、山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の、2つの大勢力に再び挟まれることになった。
1575年(天正3年) 黒田官兵衛30歳
織田氏とと毛利氏の、二大勢力の狭間に有る小寺氏決断の年。
主君・小寺政職に黒田官兵衛をはじめ重臣達が招集され、織田氏に味方すべきか、毛利氏に従うべきか議論していた際に、信長の才能を高く評価していた孝高(黒田官兵衛)は、他の重臣たちと違い、毛利氏の保守性に比べ信長の雄大な気性を、幾つか例を上げて褒めちぎった、そんな官兵衛に、他の重臣達は反論出来なかったと言う。
※この時、信長は長篠の戦い(1575年7月9日)で武田勝頼を破っていた。
7月:
羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。
さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる。
一方で9月には、宗景が毛利氏と結んだ直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。
1577年(天正5年) 黒田官兵衛32歳
亡命した将軍・足利義昭を迎えた毛利氏は、5月に小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する三木通秋の所領である英賀に上陸させ5,000の兵で播磨に攻め込ませるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍を退ける(英賀合戦)。
この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。
10月:
信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。
孝高(黒田官兵衛)は一族を父の隠居城である飾東郡の妻鹿・国府山城に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。
11月:
秀吉の弟の羽柴秀長に従い、生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻め(11月4日落城)に、蜂須賀正勝らと共に加わる。
次いで秀吉本隊の上月城の戦いにも竹中重治(竹中半兵衛)らと共に加わり、佐用城(福原城)攻め(12月1日落城)では先陣を務めている。
1578年(天正6年) 黒田官兵衛33歳
この年は、黒田官兵衛にとって苦々しい年となる。
3月:
東播磨の大勢力である三木城主・別所長治が、殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。
4月:
海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。
7月:
秀吉本隊は信長の指示に従い、山中幸盛らを残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。
9月:
孝高(黒田官兵衛)や小西行長らは直家を調略することに成功する。
しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。
さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高(黒田官兵衛)は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉される。
1589年(天正7年) 黒田官兵衛34歳
10月:
有岡城陥落、幽閉されていた如水(官兵衛)は栗山善助に救い出されるも陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした如水(官兵衛)は両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言う。
これ以後、歩行困難となった如水(官兵衛)は秀吉の授けた、陣輿に乗っての行動と成る。
※最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』であるので信ぴょう性が疑われる。
また、孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
1580年(天正8年) 黒田官兵衛35歳
1月:
秀吉は2年間の難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高(黒田官兵衛)に還そうとするが、孝高(黒田官兵衛)は「姫路城は播州統治の適地である」と進言し、姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城に移った。
村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。
名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている。
10月:
孝高(黒田官兵衛)は信長から播磨国宍粟郡山崎に篠の丸城と1万石を与えられ、織田家臣として秀吉の与力となる。
1581年(天正9年) 黒田官兵衛36歳
6月:
前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高(黒田官兵衛)も加わる。
策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。
城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高(黒田官兵衛)だったと言われる。
11月:
毛利氏と結んだとされる淡路島の由良城主、安宅清康攻めに加わる。
1582年(天正10年) 黒田官兵衛37歳
毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。
これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。
本能寺の変 (1582年6月21日)
高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が信長自刃した。
変を知った孝高(黒田官兵衛)は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。
黒田官兵衛は、この時の中国大返しの時の殿軍(シンガリ)を努める。
この時の秀吉との逸話がある。
本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高(黒田官兵衛)は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。
これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。
1583年(天正11年) 黒田官兵衛38歳
4月下旬:
信長亡き後我こそ後継者と、自負する柴田勝家は清洲会議以後羽柴秀吉との対立を深め、ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。
佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。
そして、秀吉は、柴田勝家を、越前北ノ庄に追い詰め自決させる
このとき黒田官兵衛は、小寺政職から許されていた小寺の姓を捨て黒田姓に復す、ときに39歳
1584年(天正12年) 黒田官兵衛39歳
小牧・長久手の戦いの当初においては、賤ヶ岳の戦い以前より毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線の交渉に当っていたが確定し、実質的に秀吉配下に加える。
留守居役を務めていた黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。
黒田官兵衛のこれまでの働きは
当然一国の恩賞に値するものであったが、与えられたものは、一万石の加増(三万石の大名に成る)にすぎなかった。
秀吉は、あまりに頭の切れすぎる如水(官兵衛)に恐れをいだき手強い敵とすら思っていた。
その事を知っていた如水(官兵衛)は冷遇に甘んじていたと言われる。
1585年(天正13年) 黒田官兵衛40歳
四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。
植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。
阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。
この戦での恩賞も、他の重臣には充分与えながら如水(官兵衛)には、なんらの恩賞もなかった。
そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる。
この頃に、孝高(黒田官兵衛)は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。
この夏、如水(官兵衛)の父職隆が世を去った。62歳
1586年(天正14年) 黒田官兵衛41歳
従五位下・勘解由次官に叙任された。
10月:
大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。
1587年(天正15年) 黒田官兵衛42歳
~九州平定~
3月:
豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。
6月:
本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。
7月:
佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。
長政らが一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを徐々に鎮圧し、和議・婚姻を結ぶ。
秀吉は如水(官兵衛)に対して、九州平定後
一国を与える事を約束していながら、如水(官兵衛)に与えたのは、豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった。
佐々成政の50万石、小早川隆景の70万石に比べ、
勲功一番とみなされる如水(官兵衛)の論功行賞は、あまりににも少なすぎた。
また、この年、秀吉がバテレン追放令を出し、右近らがこれに反抗して改易される中、孝高(黒田官兵衛)は率先して令に従った。
秀吉の側近である孝高の行ないは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。
1589年(天正17年) 黒田官兵衛44歳
『秀吉が伽衆(オトギシュウ)に問い掛けたと伝わる話』
「わしが死んだ後、天下を取る者は誰か」の問いに
徳川、前田、上杉、毛利といった名が、それぞれの口から出たが
秀吉は笑って別の名を上げたと言う「みんな違う、おそらく黒田官兵衛孝高であろう」
5月:
黒田官兵衛は、この話を、親しい僧侶から聞かされ
いよいよ隠居を決意したと言う。
家督を嫡男・長政(21歳)に譲って隠居の身となり、黒田官兵衛孝高を黒田如水軒と改める。
しかし秀吉は、如水(官兵衛)の隠居を許さなかった、家督を譲った後も、如水(黒田官兵衛)は秀吉の側近として仕えた。
1590年(天正18年) 黒田官兵衛45歳
小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。
1592年(文禄元年) 黒田官兵衛47歳
4月:(文禄の役)始まる
秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。
1593年(文禄2年) 黒田官兵衛48歳
7月:
如水(官兵衛)は、剃髪し如水円清と号する
日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、 第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。
秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。
1596年(文禄6年) 黒田官兵衛51歳
慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水(黒田官兵衛)に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
1597年(慶長2年) 黒田官兵衛52歳
慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。
両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。
しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。
1598年(慶長3年) 黒田官兵衛53歳
8月:
豊臣秀吉が伏見城にて死去。
12月:
上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。
1600年(慶長5年) 黒田官兵衛55歳
徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。
黒田氏は当主・長政が家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。
中津に帰国していた如水(黒田官兵衛)も、家康方に対し、前以って味方として中津留守居を務める密約を結んだとされ、家康方(東軍)として行動した。
石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。
1601年(慶長6年) 黒田官兵衛56歳
この年、博多の西方の福崎の地を黒田氏発展の地・備前福岡(現・岡山県邑久郡長船町福岡)に因んで福岡と改称。
1603年(慶長8年) 黒田官兵衛58歳
11月:
如水は、湯治のため有馬温泉へ赴き、越年する
1604年(慶長9年) 黒田官兵衛59歳
京都伏見藩邸にて死去。
1627年(寛永4年)
黒田官兵衛の正室てるが、筑前国福岡において没、墓は報土寺(京都)、円応寺、崇福寺(福岡)にある。











※寛永諸家系図伝による姫路城で生まれる説もある。
幼名は万吉。