第二次世界大戦と太平洋戦争の歴史を写真で振り返る

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第二次世界大戦と太平洋戦争を写真を使ってまとめました。少しずつ内容を追加していく予定です。悲しい戦争の歴史を振り返る事によって、二度とこのような悲惨な戦争を引き起こさないようにする為の教訓にする事ができます。

太平洋戦争に向かう日本

真珠湾攻撃(1941年12月)

トルーマン大統領(33代)の指示で46年に訪日した際、マッカーサーに対し「日本との戦争は、対独戦に参戦する口実を欲しがっていた“狂気の男”の願望だった」

「41年7月の在米日本資産の凍結は、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。
太平洋戦争はアメリカの陰謀か? – 理想国家日本の条件 自立国家日本

真珠湾攻撃では、三千人近い人が亡くなったが、ハワイでは攻撃のあった12月7日は日曜日の休日であって、本来なら軍人は退艦しており、乗船しているはずがなかった。また、その場にいるはずの空母はおらずに、被害を受けなかった。
太平洋戦争はアメリカの陰謀か? – 理想国家日本の条件 自立国家日本

大恐慌時代の日本の経済状況

日本は、1920年代から30年代にかけて厳しい国内経済
第二次世界大戦の背景 – Wikipedia

工業の後進性から欧米とは対等な市場競争が難しい日本は、自由貿易だけでは利益を確保できなかった。また、昭和恐慌下で地方・農村部の疲弊が進んだ。しかし、「憲政の常道」の原則の下で政党間の対立に明け暮れ、政治腐敗のはびこる国内の政党政治はこれら内外の諸問題へ十分な対処を行うことができず、国民の信用を失いつつあった。

世界恐慌の影響は、イギリスとフランスにも及んでいた。
第二次世界大戦の背景 – Wikipedia

チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』のなかで、「第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」と述べている。

一方でイギリスやフランスは世界恐慌の影響で戦争を行うだけの経済力がなかったのも事実である。またの宥和政策はドイツに対抗して軍備を増強するための時間稼ぎであったとする見方もある。

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻

ポーランド侵攻
西からドイツ軍が圧倒的な機動部隊を持ってポーランドに侵攻して、ポーランド軍は広く守りを固めた為に簡単に守りを破られる事になります。

ドイツ軍は、1ヶ月ほどでポーランドを占領
ポーランド侵攻 – Wikipedia

ポーランドへの侵攻作戦はソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフとドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの独ソ不可侵条約調印の9日後、すなわち1939年9月1日に開始され、同年10月6日にドイツとソ連は実質的にポーランド全域の占領を完了することとなった。

1939年9月17日には、ソ連軍もポーランドへ侵攻
ポーランド侵攻 – Wikipedia

1939年9月17日、ドイツ軍の侵攻に呼応し、ソ連赤軍がポーランド東部へ侵攻を開始した。東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する独ソ不可侵条約の「秘密議定書」を、ソ連が忠実に実行した訳である。

1940年06月、パリ無血開城

パリにおけるドイツ軍パレード
ドイツ軍は、パリに無血で入場しました。これ以降は、パリ解放にわたるまで、パリがドイツ占領下となりました。

フランス敗北で、結果的に日本が太平洋戦争へ自信を深める
日独伊三国同盟 – Wikipedia

1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、オランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする「南進論」の動きが高まった。

米軍による日本に対する制裁から戦争の挑発へ
太平洋戦争 – Wikipedia

在米日本資産を凍結(ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている)、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。

日本は、米国との戦争を躊躇しながらも、制裁などで戦争気運が高まりを見せて、大した分析もなしに米国と戦争しようという強硬論が多くなる。

1940年日独伊の三国軍事同盟が結ばれる

ドイツがフランスを破ったのを見て、日本はドイツと同盟を組んで大丈夫だと判断していたようです。日本国内に国際感覚を持った人材が欠如していました。

第一次世界大戦の結果に不満を持つ3国が軍事同盟を結ぶ
日独伊三国同盟 とは – コトバンク

1940年,第2次近衛文麿内閣がドイツ,イタリアと結んだ軍事同盟。ベルサイユ体制に対して最大の不満を抱いたのは第1次世界大戦の戦敗国ドイツであったが,戦勝国であるイタリアもかなりの不満をもっていた。同じく戦勝国側にあった日本も,ベルサイユ体制の太平洋版であるワシントン体制への不満から,ベルサイユ体制の柱となっていた国際連盟に挑戦するにいたった。日本,ドイツ,イタリアが相ついで国際連盟を脱退する前後から,これら3国の接近が予想されていたが,軍事同盟への歩みは錯綜(さくそう)したものであった。

1942年6月のミッドウェー海戦

回避行動中の空母「飛龍」

戦力の分散が敗因に繋がったという考え方
ミッドウェー海戦 – Wikipedia

戦力の分散が最大の敗因につながった。米軍は空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは、戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。

敗戦後の分析もそれほどなされる事はなかった。
ミッドウェー海戦 – Wikipedia

国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全てにおいての拙劣さにより、当時米軍の約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で主力空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。にも関わらず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者である南雲忠一などの高官が処罰されることもなかった。

1942年8月以降の「ガダルカナルの戦い」

1942年8月21日海岸部で包囲殲滅された一木支隊
一木支隊の2300名ほどが、正確な情報を持たないままに米軍と交戦して、ほぼ全滅させられました。

ガダルカナルで2万名以上が成果なく死亡
ガダルカナル島の戦い – Wikipedia

ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった。

壊滅した陽動部隊の住吉支隊
日本軍は、ガダルカナル島に正確な情報がないままに何度も日本兵を送り込んでは全滅させてしまいました。
壊滅した旧日本軍第二師団
ほとんど全員が機関銃の標的になるような状況でした。第2師団麾下の歩兵第29連隊では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。
レイテ島に上陸するマッカーサー
マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸

1943年5月29日、アッツ島の玉砕

アッツ島
アッツ島は、守備隊2400名ほどで守備を固めましたが、米軍の攻撃を受けて全滅します。キスカ島については、1943年7月28日樋口大佐率いる5千名の将兵が濃霧に紛れて撤退を完了しています。

1943年5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、第7師団1万1千人がアッツ島に上陸開始、米軍による「ランドグラフ作戦」と呼ばれるアッツ島攻略作戦が開始された。

アッツ島にて大規模米軍を堂々と迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下わずか2400名
アッツ島玉砕 第一話  ~全三話~ | 慶次2000の2005年10月26日の2番目の記事 – 楽天ブログ(Blog)

アッツ島で玉砕した40人の日本兵
万歳攻撃で、生存の見込みがない突撃を行って自殺しました。

日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕
アッツ島の戦い – Wikipedia

自殺する為の万歳攻撃
バンザイ突撃のような無謀な攻撃をする軍隊は日本以外に存在しましたか? – Yahoo!知恵袋

日本兵が行う通常の攻撃は、白兵突撃あるいは肉弾突撃です。万歳突撃はこのバンザイという名前でもわかるように、「天皇陛下万歳」を叫んで突撃するわけですが、叫んだら敵兵に場所がわかるので撃たれ、死にます。この突撃は成功の望みを最初から捨てたものです。

1944年3月インパール作戦を発動

無能の代名詞とも言われる牟田口廉也中将が発案した作戦で、山岳地帯を越えて、インドのインパールを攻めようという無謀な作戦でした。大失敗に終わり、将兵の数多くが死にました。

史上最低の作戦と言われるインパール作戦で2万6千人以上が死亡
インパール作戦 – Wikipedia

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

朝日新聞の報道
攻略してもいないのに嘘の報道を行って国民を騙してました。

1944年6月15日サイパン島の戦い(7月9日まで)

浜辺で玉砕した日本兵3000名
サイパン島では、多くの日本兵が1944年7月7日頃から9日頃にかけて玉砕する事になりました。

3000名もの日本兵が「バンザイ攻撃」という自殺を目的にした攻撃をして、事前に情報を得ていたアメリカ軍に撃たれて死にました。

サイパン島は、本土爆撃の重要拠点となり得る場所
サイパンの戦い – Wikipedia

日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年秋に大本営は絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍が絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になってあわてて防備強化が図られた。松輸送の名の下に本土からの輸送によって第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパン島に派遣された。

占領後のサイパン島に並ぶ航空機
サイパン島を占領後は、B29の本土爆撃用の基地として活用されました。ずらりと並ぶB29は、既に戦争で余裕が出てきたアメリカの姿を映し出します。

しかし、戦争経済を支える為に、適度な爆弾の消費などが必要で、戦略的にほとんど意味ない爆撃が繰り返されました。

1944年6月20日、マリアナ沖海戦(作戦名:「あ」号作戦)

日本海軍空母瑞鶴(中央)
日本海軍空母瑞鶴(中央)とそれを護衛する二隻の駆逐艦が航空機より攻撃を受けています。

アメリカ軍は、既にレーダーを保有
マリアナ沖海戦(作戦名:「あ」号作戦)(1944年6月19日−20日)

アメリカ軍はすでに、レーダーを実用化させていたため、日本軍機の接近を事前に早い段階で正確に把握できたので、待ち伏せ攻撃が可能となったこと。

1945年2月19日- 硫黄島の戦い

丸裸になった丘
艦砲射撃によって、見えるもの全てが打ちつくされて、丸裸になっています。

無差別爆撃は、戦争経済で利益を生む為の殺人行為

東京大空襲
東京が一晩で焼け野原になり、一晩で10万人ほどの人が死亡しました。

1945年2月頃からドイツ、日本に対して無差別爆撃が行われます。その時になると、既に米英の優勢は確定しており、爆弾を使う機会も減っていました。

無差別爆撃の本当の目的は、「軍需産業が爆薬消費によって利益を出す為」だったとされています。爆弾の消費量が多ければ多いほど、米軍の軍需産業は莫大な利益を生む事ができました。

この軍事産業が必要とする「適度な消費」の構造は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争から現在までずっと続けられています。

1945年2月13日から15日 ドイツのドレスデン爆撃(無差別爆撃)

意味のない空襲だったとされる
戦略的にほとんど意味のない空襲であり、ソ連に対して空軍力を見せ付けようとした単なる無差別爆撃の戦争犯罪と言われています。

米、英からすると、東京大空襲も「単なる練習」だったと思われます。

4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。
ドレスデン爆撃 – Wikipedia

爆撃の目的は「いかに多くの人を虐殺できるか」だった?
ドレスデン爆撃 – Wikipedia

最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が収まることなく燃え続けた。市街広域で発火するとその周囲の空気は非常に高温となり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。

1945年3月10日 東京大空襲(無差別爆撃:後半グロあり)

東京の歴史は全て燃えた。
東京にあった江戸の歴史などは、東京大空襲によって文化遺産などを含めて、ほぼ全てが消失しました。
全てが1夜にして焼き尽くされ
東京大空襲によって、原爆を投下したかのような景色となってしまいました。
東京大空襲で焼けた東京
一面が全て焼けて、焼け野原になっています。
東京大空襲
見る場所全てが死体ばかりだったと言われています。
東京大空襲で死んだ人
東京だけで1夜にして10万人が死亡しました。
服が焼けて死んだ人々
遺体の多くが服が焼けて悲惨な状況で死んでいました。
3月10日は東京大空襲の日

1945年3月26日から沖縄戦(6月20日まで)

沖縄戦の米軍ライン
沖縄の那覇近くに上陸した米軍は、南下して旧日本軍を追い詰めていきました。
米軍の火炎放射器
米軍の火力は、旧日本軍の何十倍にも及んでおり、旧日本軍は組織だった戦闘は最初だけで、あとは逃げるのが精一杯でした。
保護された沖縄の人々
沖縄の人々の苦しみは、現在の米軍基地の負担まで続いています。

1945年4月29日、ムッソリーニ処刑

処刑されたムッソリーニ
「第四十代イタリア国王首相」であるパルチザンに処刑されました。

1945年8月15日、日本敗戦

天皇からの玉音放送を聞く日本人

1945年8月30日、厚木基地にマッカーサーが降り立つ

マッカーサー連合国軍総司令官

ルーズベルトは、マッカーサーを嫌うも、アジア情勢に精通していた。
ダグラス・マッカーサー – Wikipedia

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は大将に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官で、知り合いでもあったトーマス・C・ハートが大将なのも気に入らなかった。中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた。

https://matome.naver.jp/odai/2136905541057161601
2015年07月25日