日本で起こった凶悪殺人事件まとめ

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日本で起こった凶悪事件をまとめました

日本で起こった凶悪殺人事件

秋葉原通り魔事件

2008年6月8日午後0時30頃、千代田区外神田のJR秋葉原駅近くで事件発生。2tトラックが歩行者天国となっていた横断歩道に突っ込み、通行人を5人を撥ねた。さらにその後、車から降りた容疑者が持っていたダガーナイフで次々と通行人を殺傷。この事件により7人が死亡、10人が重軽傷を負う大惨事となった。

犯人は駆けつけた警察官に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。加藤智大(ともひろ)容疑者(当時25歳)、静岡県裾野市の自動車工場職員であった。事件の直前に携帯サイトの掲示板などに書き込みがされており、事件に至った心境などがつづられている。事件直前に退職に関するトラブルもあったようだ(加藤の勘違い?)。

この戦後最大級の通り魔事件は、発生から逮捕による収束まで数分程度の短いものであったが、日本全国に大きな衝撃をもたらした。通行人による最新のカメラ付き携帯での写真や映像は、過去に類を見ない悲惨な映像を大量に残した。なお、奇しくも事件の起きた6月8日は、2001年の池田小学校児童殺傷事件と同じ日である。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E9%80%9A%E3%82%8A%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6

悪魔の詩訳者殺人事件

991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一が大学のエレベーターホールで刺殺され、翌日7月12日に発見された。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型とされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。
五十嵐助教授は1990年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳している。1989年2月にイランの最高指導者のアーヤトッラー・ホメイニーは反イスラーム的を理由に「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っていたため、事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されていた。

容疑者を外国人イスラーム教徒とする説には、次のようなものがある。
CIAの元職員ケネス・ポラックは、イラン軍部『イスラム革命防衛隊』による犯行を示唆している(『ザ・パージァン・パズル』小学館、2006年)。目撃されやすいエレベーターホールで襲撃した事実も見せしめ犯行のためと判断した。

また、『週刊文春』1998年4月30日号は「『悪魔の詩』五十嵐助教授殺人に『容疑者』浮上」との記事を掲載。同誌が入手した「治安当局が『容疑者』を特定していた極秘報告書」によると、事件当時、東京入国管理局は筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生を容疑者としてマークしていたという。この学生は五十嵐の遺体発見当日の昼過ぎに成田からバングラデシュに帰国しているが、イスラーム国家との関係悪化を恐れる日本政府の意向により捜査は打ち切られたと記事は述べている(麻生幾「「悪魔の詩」殺人 国家が封印した暗殺犯」『文藝春秋』2010年10月号)。
だが、日本警察は、なぜ目撃されやすいエレベーターホールで襲撃したのか、なぜ目撃されにくい研究室で襲撃しなかったのかなど疑問点が挙げられ、個人的な怨恨による大学関係者の犯行の線も否定できないので、犯人像をイスラーム教徒に絞り込むことはできないとしている。
捜査中、学内の五十嵐の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に五十嵐が書いたメモが発見された。これには壇ノ浦の戦いに関する四行詩が日本語およびフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の段落に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と表現されていた。このことから、このメモが書かれた時点で、五十嵐は既に何者かが自分を殺そうとしていることを察知していたと言われている。
15年後の2006年7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し未解決事件となった。外国人犯人説が存在するこの事件では、実行犯が国外に居続けたと仮定した場合は公訴時効は成立していないことになるが、警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を遺族に返還している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A9%A9%E8%A8%B3%E8%80%85%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

事件のあった筑波大学筑波キャンパス
991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一が大学のエレベーターホールで刺殺され、翌日7月12日に発見された。

池袋通り魔殺人事件

1999年9月8日、東京都豊島区池袋にある東急ハンズ前で、男(造田博:当時23歳)が突然「ウォーッ」という叫び声を上げて、もっていた包丁と金槌で次々と通行人を襲い、女性2人が死亡、男女6人が重軽傷を負うという通り魔事件が起った。

犯人の造田(ぞうた)は、岡山県出身。勉強熱心だったという彼は、岡山県内の進学校へ進むが、両親がギャンブルで多額の借金をつくり蒸発し、やむなく高校を中退した。

その後、弁当店、パチンコ店、新聞配達員などの職に就くが、どれも長続きせず、転職を繰り返していた。しかし、その仕事ぶりは真面目で、遅刻などもなかったという。

それを裏付けるように、造田は犯行動機について、『真面目に働いているのに評価されず腹がたった』など、『努力しない人間は生きていてもしかたないと思った』と供述。

また、造田は犯行におよぶ以前に、外務省や裁判所、警視庁などに、合計100通にものぼる意味不明な手紙を送りつけていた。

▼外務省や裁判所に造田が送ったとされる手紙の一部
日本人のほとんどは小汚いものです。この小汚い者達は歌舞伎町で、人間でなくなっても、動物でなくなっても、生物でなくなっても、存在しなくなっても、レイプし続け、暴行をし続けると言っています。存在、物質、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪する能力を個人がもつべきです。この小汚い者達には剥奪する必要があります。国連のプレジデントに届けて下さい。

2002年に東京地裁で下された自らの死刑を不服とした造田は、度々控訴するも、2007年4月、最高裁で死刑が確定した。

http://nihon-hanzai.seesaa.net/article/158652309.html

造田博
1999年9月8日、東京都豊島区池袋にある東急ハンズ前で、男(造田博:当時23歳)が突然「ウォーッ」という叫び声を上げて、もっていた包丁と金槌で次々と通行人を襲い、女性2人が死亡、男女6人が重軽傷を負うという通り魔事件が起った。

大久保清連続殺人事件

「教員だという男の人に、絵のモデルになってくれと頼まれたの。ちょっと行ってくる」
1971年5月9日、日曜日の夕方、群馬県藤岡市のOL・G子さん(21歳)は、こう言って家を出たきり自宅にもどらなかった。
彼女はそれまで無断外泊をしたことはなく、日付が変わっても戻らないのを心配した家族は警察に届け、徹夜で捜索を始めた。

10日早朝、近くの信用金庫前で、G子さんの兄が妹の自転車を発見。そばには中年の男がいて、軍手をはめた手で拭うようにしているので、兄が声をかけると、男はそばに停めてあった車で逃走した。兄は車種とナンバーを覚えており、ここで県内に住む大久保清(当時36歳)という男の名が浮上した。彼は強姦致傷、恐喝など前科4犯を重ね、この年の3月に府中刑務所を出所したばかりだった。

5月13日夕方、大久保は前橋市の路上で、家族の私設捜索隊によって取り押さえられた。
逮捕されてしばらく、大久保は「絵のモデルになってくれと言って誘い出したことは事実だが、モーテルに連れ込もうとしたら怒って逃げられた。その後のことは知らない」などと、G子さんの行方については何も話さなかった。

5月21日、榛名湖畔で若い女性の遺体が発見された。警察が最近2ヶ月のあいだに捜索願が出された女性のなかから、大久保が狙いそうな女性をピックアップした中の1人、行方不明となっていた女子高生(17歳)のものだった。

5月26日、大久保は厳しい取調べを受け、G子さんの殺害死体遺棄を全面自供。翌日には供述とおり、妙義山北面の桑畑に埋められた女性の遺体が発見された。取り調べでは、他の家出人女性についても聞きだそうとした。

このあと大久保はすんなり自供を始めた。以後、被害者の遺体は次々と掘り出された。遺体の捜索は自供のままだとしても、自動車を使った広範囲の事件であるから、なかなか見つからない。ちなみに群馬県警は、この翌年も山中の死体を掘り出すはめになる。こうしたことから「死体発掘が上手な県警」という評判をたてられることもあった。

大久保事件の被害者は8人にも及ぶ。16歳から21歳までの若い女性が狙われており、ナンパして関係を迫り、抵抗されたりすると殺害した。

http://yabusaka.moo.jp/okubokiyosi.htm

大久保清
大久保事件の被害者は8人にも及ぶ。

おせんころがし殺人事件

この事件の犯人・栗田源蔵(くりた げんぞう、1926年11月3日 – 1959年10月14日)は、秋田県の極貧家庭に生まれた。川漁師だった父親は病弱だったため母親が家計を支えていたが、典型的な「貧乏人の子沢山」で、源蔵は両親から放置されながら成長した。さらに源蔵は夜尿症が小学校就学期になっても直らず、学校では尿臭が原因でいじめに遭っていた。小学校卒業後は農家に下男として奉公するものの、やはり夜尿症が原因で嫌われて追い出され、1年間に10回以上も奉公先を代わらざるを得なくなる。この夜尿症は後の死刑執行直前ごろまで彼を悩ませ、心身を蝕んでいった。

1948年、ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた源蔵は、三角関係のもつれから静岡県において交際女性を2人とも殺害した。さらに1951年8月8日、栃木県で子供を寝かしつけようとしていた主婦を強姦しながら絞殺した揚句、死姦した。10月10日には千葉県勝浦駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。被害者達は崖の途中に止まっていたが、犯人はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びる事ができた。1952年1月13日、千葉県検見川町(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺され、主婦は死姦された。この際指紋が検出され、これにより犯人が割り出され逮捕された。

まず、1952年1月13日の事件で千葉地裁で1952年8月13日に死刑判決。1953年12月21日に宇都宮地裁で他の件に関して死刑判決。控訴は取り下げたものの、判決後は衰弱がひどく、再審を繰り返す。1959年10月14日に死刑は執行された。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に警察庁広域重要指定事件113号が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった。また、1956年に死刑を廃止か存続かの問題で国会で論争になった際には、死刑存置論者に「凶悪無比な特殊な極悪人」として矛先に挙げられた。

本人は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。本人はこの書物を売ろうとしたが断られてしまった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%8C%E3%81%97%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

栗田源蔵
1926年11月3日 – 1959年10月14日

北九州監禁殺人事件

2002年(平成14年)3月、北九州市小倉北区で、1人の少女(当時:17歳)が祖父の家に助けを求めたことをきっかけに、前代未聞の監禁・殺人事件が発覚した。

事件発覚当初は、容疑者である松永太と緒方純子の2人が完全黙秘を続けていたが、その後の少女の証言により、合計7人の監禁・殺人事件が明らかになった。

松永太と緒方純子は、少女の父親Aの知り合いで、5~6年前から4人で暮らしていたが、Aの些細な軽犯罪の過去を知った松永は、その弱みにつけこんでAに電気ショックを与えるなどの拷問を繰り返した後、食事を満足に与えないなどしてAを衰弱死させた。
Aの遺体は、松永の指示によって、緒方とAの娘である少女が解体し、海に捨てられた。

その後、松永は、緒方をホステスとして働かせ、さらに、Aを殺害したことにつけこんで、緒方の父母および妹一家に、消費者金融などから金を借りさせるなどして金品を巻き上げた。

これ以上金を取れないと知った松永は、緒方に父親の殺害するよう命じ、緒方は自らの父親に電気ショックを与えて死亡させた。

その後も松永は、緒方の母親や妹、その夫や子供たちまで、自ら電気ショックを与えて殺害したり、あるいは殺害に関わったことにつけこんで、家族に殺害させるなどをし、結果、緒方をのぞく一家6人を殺害。
その際、一緒に住んでいた緒方の姪(当時:10歳)にも、殺害や遺体の解体を手伝わせていたという。

遺体は主に、のこぎりとミキサーで分解した上で、鍋で煮込み、海や公衆便所などに捨てられた。
そのため、物的証拠がほとんどなく、警察は助けを求めてきた少女の証言に頼らざるを得なかった。

世界的にも類のないこの残虐な事件に、公判で裁判長は、「甚だしい人命無視の態度には戦慄を覚える」「残酷、非道で血も涙も感じられない」「悪質さが突出し、犯罪史上まれに見る凶悪事件」と厳しく非難し、松永と緒方に死刑を言い渡した。

事実、事件のあまりの残虐さから、報道機関が自ら自主規制し、全国での集中報道には至らなかったとも言われている。

死刑判決後、両者は即日控訴し、松永は死刑が維持されたが、緒方については、松永に暴力的支配を受けていたことを配慮し、無期懲役に減刑された。

http://nihon-hanzai.seesaa.net/article/161304054.html

北九州監禁殺人事件
2002年(平成14年)3月、北九州市小倉北区で、1人の少女(当時:17歳)が祖父の家に助けを求めたことをきっかけに、前代未聞の監禁・殺人事件

金閣寺放火事件

1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失した。

鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名林養賢・京都府舞鶴市出身・当時21歳)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

焼失直後の金閣
金閣寺放火事件

神戸連続児童殺傷事件

数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。
兵庫県警察は聞き込み捜査の結果、少年が動物虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。
一方で、中学生には到底不可能な犯行とされること、警察が少年に虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性を指摘する者もある[誰?]が犯人が否定している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

酒鬼薔薇聖斗
神戸連続児童殺傷事件

下関通り魔事件

1999年9月29日、午後4時25分頃、レンタカーに乗った男(上部康明:当時35歳)が、山口県下関市のJR下関駅構内へ突っ込み、そのまま駅構内を60メートル暴走しながら7人を跳ね飛ばした。
その後、車から降りた男は、包丁を振り回しながら改札をぬけ、階段で1人、さらにプラットホームで7人を無差別に殺傷。結果、5人が死亡し、10人が重軽傷を負う大惨事となった。

犯行の動機について男は、『何をやってもうまくいかず、誰でも良いから殺そうと思った』と供述。
また、この事件の3週間前に起きた『池袋通り魔事件』を意識しての犯行だったと告白し、『池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った』などとも供述している。

犯人の上部は、九州大学工学部建築学科を卒業後、一級建築士の資格を取得し、福岡市内で設計事務所を経営していたが、経営に行き詰まり廃業。
その後、実家へ戻り、運送業をはじめるが、台風18号の影響でトラックが冠水し、使用できなくなった。このことをきっかけに、上部は犯行を決意したという。
一流大学を卒業したにも関わらず、中卒でもできる運送業すらマトモにできない自らへの怒りと悔しさは、そのまま社会へ向けられる格好となった。

2008年7月、「残虐非道で動機に酌量の余地はない」とされ、上部の死刑が確定。日本国憲法下で、旧帝国大学出身者の死刑が確定したのはこの事件がはじめてと言われている。

http://nihon-hanzai.seesaa.net/article/158941642.html

上部(うわべ)康明
下関通り魔事件

少年ライフル魔事件

1965年(昭和40年)7月29日、18歳の片桐操は神奈川県高座郡座間町(現在の座間市)の山林で空気銃でスズメを撃っていた。そこへ通りかかった警察官が片桐を訊問したところ、片桐はこの警察官をライフル銃で銃撃し殺害した。さらに、応援に来たもう1人の警察官にも怪我を負わせた。
その後片桐は通りかかった車に乗り込み、運転手をだます、奪ったピストルを使って脅すなどしつつ乗用車4台を乗り継いで逃走し、午後6時過ぎに東京都渋谷区の銃砲店に到着した。この銃砲店から武器弾薬を強奪し、従業員3人を人質にとって立てこもり、警察隊との間で西部劇さながらの銃撃戦になった。付近を通る日本国有鉄道山手線は運休し、3,000人もの野次馬が集まり、付近は騒然とした。
片桐は警察隊および通行人に向けて合計110発のライフル弾を発射。警察官、通行人、報道記者等16人を負傷させた。これに対し、警察隊は催涙弾で応戦した。午後7時20分、片桐が催涙弾に耐えかねて、2人の女性を盾に路上に出たところを、警察官が片桐の隙を見て体当たり、片桐がライフルを取り落とした所を取り押さえて逮捕し、事件は解決した。
なお、のちに「連続ピストル射殺事件」(永山則夫連続射殺事件)を引き起こす永山則夫死刑囚が現場至近で働いており、「この事件を目撃し、これに刺激され犯行に及んだのではないか」という見方がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%AB%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6

少年ライフル魔事件
警察官、通行人、報道記者等16人を負傷させた

女子高生コンクリート詰め殺人事件

1988年(昭和63年)、アルバイト先から帰宅途中だった女子高生(当時17歳)が、数人の不良少年らによって拉致され、監禁された。

41日にも及び監禁された女子高生は、その間、集団レイプや、性器に異物を挿入されるなどの性的暴行をはじめ、酒やシンナーを無理やり吸わせる、自分の尿を飲ませる、足にライターのオイルをかけて火であぶる、真冬にベランダに裸で放置する、顔にロウソクをたらす、などといった虐待を繰り返し受けた後に、殴り殺され、コンクリート詰めにされ、東京都内の埋め立て地に捨てられた。

少年犯罪至上類を見ないこの事件は、同じ年頃の子供をもつ親たちを戦慄させ、連日メディアで大々的に報道された。

少年法では事件の犯人が少年の場合、その実名を公開することを禁じているが、当時の週刊文春は「事件があまりに凶悪である」という理由から、少年らの実名を報道した。

事実、そのあまりの凶悪ぶりに、裁判では以下のように表現された。

当時高校三年生として、就職も決まり、将来への夢をふくらませていた被害者は、それまでの生活とは打って変わった屈辱的な扱いを受け、40日間にもわたる期間、孤立無援の状態のまま、繰り返し陰湿・過激ないじめを受け、監禁の後半には、精神的にも、肉体的にも衰弱の度合いを深め、最後には常識では考えられないような仕打ちまで受け入れざるをえず、助けを求めるすべもないまま、あえなく絶命し、挙句はコンクリート詰めにされて捨てられるなど、その身体的及び精神的苦痛・苦悶、並びに被告人らへの恨みの深さはいかばかりのものであったか。誠に、これを表現する言葉さえないくらいである。

判決は、主犯格の少年が懲役20年、他の少年たちはそれぞれ10年以下の懲役というものだった。
2004年(平成16年)5月、仮出所した少年の一人が、ふたたび同様の監禁事件を起こして逮捕された。

http://nihon-hanzai.seesaa.net/article/157320970.html

主犯格の少年が懲役20年、他の少年たちはそれぞれ10年以下の懲役
女子高生コンクリート詰め殺人事件

世田谷一家殺人事件

21世紀を目前に控えた2000年12月30日午後11時ごろから翌31日の未明にかけて、東京都世田谷区上祖師谷3丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が惨殺された。隣に住む母親の実母が31日の午前10時55分ごろ発見、事件が発覚した。
この事件は、20世紀最後の日に発覚した、大晦日に差し掛かろうとする年の瀬の犯行だったことや、犯人の指紋や血痕など個人を特定可能なもの、靴の跡(足跡)の他、数多くの遺留品を残している点、子どももめった刺しにする残忍な犯行、殺害後に翌朝まで10時間以上に渡って現場に留まり、パソコンを触ったりアイスクリームを食べたりするなどの犯人の異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。また、年の瀬に発生した殺人事件という時期柄もあって、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると、警視庁による情報公開が行われ、マスコミが話題に取り上げることが多い事件である。
捜査特別報奨金制度対象の事件に指定されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E4%B8%80%E5%AE%B6%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

宮澤みきおさん、妻・泰子さん、長女・にいなちゃん、長男・礼くんの一家4人全員が犠牲となった残忍な事件
世田谷一家殺人事件

武富士放火殺人事件

5月7日、勤務先の休日を利用して弘前支店を訪れ、カウンターの位置や従業員数を確認。浪岡町周辺のガソリンスタンドで約4リットル入りの金属缶でガソリンを購入した。ちなみに犯行当日も休日だった。

5月8日午前10時45分頃、小林が弘前市田町5丁目のビル3階の武富士弘前支店に押し入る。支店には出入り口から奥が見えないように、カウンター部分と店舗奥にある管理室との間を仕切る壁があり、男は出入り口近くからカウンターの内側に向かって、金属製の缶に入ったガソリンを主成分とした混合油をまいた。撒き終えると、小林は「金を出せ出さねば火をつけるぞ」と津軽弁で脅迫、支店長が断ると火を付けた。同48分には支店長が「今、男が来て火を付けるところだ」と通報。凶行はわずか2~3分の間に行われた。
当時、支店内の金庫には1000万円が入っていたが、小林は予想以上に火の勢いが強かったためか、何もとらずに外に停めておいた緑色の軽ワゴン車「スバル・サンバー」で青森市方向に逃走。

この火災により、同支店勤務の田沢伸治さん(36歳)、太田はるかさん(20歳)、葛西志保里さん(22歳)、笹森容子さん(46歳)、福井貴子さん(30歳)の5人が焼死、他に店長ら4人も火傷を負った。亡くなった5人は店舗奥に追い詰められたような状態で発見された。出入り口は1カ所しかなく、このため、従業員らは出入り口から反対方向の管理室の方に逃げたが火の回りが早く、避難口に設置したロープ式の避難器具も使えなかった。駆け付けたファストフード店の店長らがかけたはしごで、火傷を負いながらも4人が脱出できただけだった。
同支店では防犯ベルが5箇所に設置されており、ベルが鳴れば数分で警備員が駆けつける体制になっており、2台の防犯カメラも24時間稼動していた。しかし、店内の焼失とともにカメラも燃えてしまい、科学捜査研究所にまわせないものが多かった。

5月9日、小林は事件翌日にはなにくわぬ顔で出勤している。この日、ガソリンを入れていた4リットルの金属缶を自宅近くの雪捨て場のようなところで捨てた。

5月下旬、小林、裁判所で自己破産の申請。

12月25日、事件が起こった弘前市のビルが取り壊される。

武富士では犯人の似顔絵入りのポケットティッシュ2億5000万個を配り、犯人逮捕に協力した。ニュース番組などでも似顔絵がたびたび紹介されるなど、小林を追いつめていった。

http://yabusaka.moo.jp/takehuji.htm

元タクシー運 転手、小林光弘死刑囚
武富士放火殺人事件

土浦通り魔殺人事件

犯人である土浦市内に住んでいた当時24歳の無職の男性は、2008年1月と2月に渡って凶器となる包丁とサバイバルナイフを購入した。
3月19日、土浦市内の住宅の玄関前で、72歳の男性が背後から刃物で刺され、死亡しているのが見つかる。犯行時間は同日午前9時20分頃とされ、現場に放置された自転車から容疑者として男が浮上した。老夫が殺害された二日後の3月21日、茨城県警は男を指名手配とした。当時男は最寄りの荒川沖駅から常磐線に乗り、東京の秋葉原に向かった。男は都内のホテルに宿泊し、髪を切るなどの変装を行った。
3月22日に男は携帯電話で茨城県警に電話し、「早く捕まえてごらん」などと挑発した。その後男は土地勘のある常磐線ひたち野うしく駅から荒川沖駅に向かって歩いたが、殺害できそうな通行人がいないため断念、秋葉原に戻った。
3月23日午前11時ごろ、男は黒い上着に黒いニット帽を被り、荒川沖駅付近のさんぱる(長崎屋)前、西口から東口にかけて、通行人と警察官の8人を刃物で刺した。5人は駅改札近く、2人はさんぱる前、1人は通路を降りた所で刺され、通路を降りた27歳の男性が死亡した。男は血の付いた包丁を持ったまま、駅からおよそ200m離れた荒川沖地区交番に行き、交番に備え付けてある呼び出し電話機から「私が犯人です」と自ら通報した。そして、駆けつけた警察官に逮捕された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%B5%A6%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

金川真大
茨城県土浦市/JR荒川沖駅通り魔事件/8人殺傷

津山三十人殺し

昭和13年5月21日午前2時頃、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾部落(現在津山市加茂町行重)で肺患を苦に極度な神経衰弱に陥った同部落の都井睦雄(当時22歳)が、猟銃や日本刀で祖母を皮切りに部落民を次々に襲撃。結果、30人を殺害、3人に重軽傷を負わせて近くの山に逃走した。

同日午前11時30分頃、警察や消防、地元の青年団約1500人余りが大規模な山狩りを行っていたところ、同村青山の荒坂峠付近で猟銃で自殺している都井を発見。自宅から2通、自殺現場から1通の合計3通の遺書が発見された。

同村の全戸数は約380戸、人口約2000人で貝尾部落は全戸数22戸、人口111人。山奥の平和な農山の部落に突如惨劇が降ってきた。30人殺害は戦前、戦後を通じて他に類を見ない大量殺人事件として語り継がれている。

http://jikenshi.web.fc2.com/newpage393.htm


https://matome.naver.jp/odai/2136876875790057201/2136878575695774003
都井睦雄
30人を殺害、3人に重軽傷を負わせて近くの山に逃走した。

永山則夫連続射殺魔事件

昭和44年4月7日午前1時過ぎ、渋谷区にある専門学校で、何者かが侵入し警報が鳴った。早速、付近をパトロール中の警備会社の警備員が専門学校に駆けつけると、事務室の机やロッカーが荒らされて、不審な男がうずくまっているのを発見した。この侵入者は、警備員にピストルを発砲し逃走したが、現場に駆けつけて来た代々木署の警察官3人に取り押さえられ現行犯逮捕された。
この男が、前年の連続射殺事件の犯人永山則夫(当時19歳)だった。

永山は、昭和43年10月11日午前1時前、東京・芝公園の東京プリンスホテル本館脇にあるプールサイドで同ホテルのガードマン、中村公紀さん(当時27歳)を、1メートル前後の至近距離からピストルで射殺した。このピストルは、米軍基地から盗んだもので、いつも持ち歩いていた。

永山は、前日の10日に池袋でボーリングしたり渋谷で映画を見たりしていたが、急に「以前、東京タワーからみた東京プリンスホテルのプールサイドに行って見たくなった」という軽い気持ちで、ホテルの塀を乗り越えてプールサイドに踏み入れたのだった。

一方、同ホテルのガードマンは、パトロール中に永山をプールサイドで発見、不審に思ったガードマンは事務所に連れて行こうとして揉み合いになった。この時、永山は捕まったらピストルを盗んだことがバレるため(以前にも犯行歴がある)、ガードマンに向かって発砲した。

この第一の犯行で、永山の逃走劇がはじまる。
この事件から3日後の10月14日午前1時30分頃、永山は京都東山区の八坂神社境内で警備員の勝見留次郎さん(当時69歳)を射殺。10月26日午後11時過ぎ、北海道・函館市郊外でタクシー運転手の斉藤哲彦さん(当時31歳)を射殺。売上金9千円を強奪。11月5日午前1時過ぎ、愛知県・名古屋市港区で同じくタクシー運転手の伊藤正昭さん(当時22歳)を射殺。腕時計と現金7420円を強奪した。

僅か1ヶ月で4人を射殺するという衝撃的な事件で、日本中を恐怖に陥れた。中でも、タクシー運転手が、午後11時過ぎになると乗車拒否をするなど社会現象をもたらした。

http://jikenshi.web.fc2.com/newpage86.htm

永山則夫
警備員にピストルを発砲し逃走したが、現場に駆けつけて来た代々木署の警察官3人に取り押さえられ現行犯逮捕された。

西口彰連続殺人事件

昭和38年10月18日、福岡県京都郡苅田町(かんだまち)で元運転手の西口彰(当時38歳)は、専売公社から委託された運送会社のトラックに同乗していた職員で集金係りの村田幾男さん(58歳)を言葉巧みに誘い出して殺害。タバコの集金代約26万9000円強を強奪した。更に、トラック運転手の森五郎さん(当時38歳)も同様に殺害して、苅田駅裏の山道と香春町の峠にそれぞれ遺体を遺棄した。

福岡県警行橋署は、直ちに捜査を開始したところ、以前に専売公社の委託運送会社に勤務していた前科4犯の西口が捜査線上に浮上。目撃情報も西口の特徴に一致したことから、犯人は西口と断定し行方を追った。

10月24日、西口は宇高連絡線のフェリーに乗船。甲板に靴を置くなどして自殺を装ったが、警察が瀬戸内海を捜索した結果、死体は発見されず自殺は偽装であると断定。警察は、西口の行方を懸命に追ったが杳として手掛かりは掴めなかった。

同月28日、西口は京都大学教授と称して静岡県浜名市の貸席に宿泊。そこから広島にある養護施設に出向き、自分は京都のケースワーカーだと称して施設にテレビを寄贈すると持ちかけて電気店から4台を騙し取った。直ちに、質屋に入質して現金8万円を入手した。再び、浜名市の貸席に戻った西口は、11月18日に経営者の母娘を殺害して衣類や電話加入権などを入質して14万8000円を入手した。

同月21日、警察は西口を「重要指名手配」に指定して、全国の警察、鉄道公安などに指名手配書を配布。刑事はもとより警邏係りの警察官、鉄道公安員、鉄道職員等にポケットサイズの西口の写真などを持たせて一斉に捜査を開始した。

しかし、その警察の動きをあざ笑うように西口は、福島県平市の弁護士宅から弁護士バッチや弁護士名簿などを窃取して弁護士になりすまし千葉地方裁判所や東京地方裁判所に現れては保釈手続きなどで出向いた主婦等から金員を騙し取った。

12月29日、西口は弁護士名簿から東京都豊島区池袋の弁護士宅で神吉梅吉さん(当時81歳)を殺害。遺体はタンスの中に押し込んで4日間、弁護士に成りすまして詐欺を働いた。

http://jikenshi.web.fc2.com/newpage100.htm

西口彰
逮捕直後の西口

光市母子殺害事件

山口県光市 母子殺人屍姦事件事件とは、1999年4月14日の午後2時半頃、当時18歳の福田孝行が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入り、

排水検査を装って居間に侵入した福田孝行は、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしましたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意し、頸部を圧迫して窒息死させます。

さらに、少年は女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘(11ケ月)を床にたたきつけ、首にひもを巻きつけて窒息死させました。 そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走。

少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり、友達の家に寄るなどしていましたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された事件です。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1588.html

本村弥生さん(当時23歳)を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、激しい抵抗を受けたため、殺害した上で強姦の目的を遂げようと頸部を圧迫して窒息死させた
光市母子殺害事件

人違いバラバラ殺人事件

1954年9月5日、埼玉県入間郡高階村(現在の川越市の一部)で、19歳の女性が殺害された。彼女は手拭いで絞殺された後、身体をバラバラにされたうえに肉片や手足を逃げながら畑や肥溜めなど、あちらこちらに一晩中ばら撒いて廻ったという常軌を逸した行為を受けた。同年の11月18日に埼玉県警察は被疑者としてF(当時29歳)を殺人及び死体損壊と遺棄で逮捕した。Fの供述によれば被害者とは面識は無く、自分が探していた女性と誤認して殺害したというものであった。そのうえ供述によればバラバラにしたのは平素のうっ憤が爆発したためであると主張しており、まず女としての価値を無くす為に、持っていたボンナイフで下腹部と乳房を切り取ったうえ、歩けないようにする為に足を切断したという。そして逃げながら肉片をばら撒いたというものであった。

http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%BA%BA%E9%81%95%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%A9%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

附属池田小児童殺害事件

大阪教育大学教育学部附属池田小学校に出刃包丁を持った男1名(宅間 守被告人)が、平成13年6月8日(金)の2時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎころ、自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等において、児童や教員23名を殺傷した。
平成13年9月14日大阪地方検察庁は、被告人を殺人、殺人未遂、建造物侵入及び銃刀法違反で、大阪地方裁判所に起訴した。

【犠牲者】8名[1年男子児童1名 2年女子児童7名]
負傷者 15名[児童13名(男子5名 女子8名) 教員2名]

http://www.bur.osaka-kyoiku.ac.jp/fuzoku/goui/jikengaiyo.html

附属池田小児童殺害事件
校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等において、児童や教員23名を殺傷した

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

オタクという言葉を世間に広める結果になった事件。犯人とされる宮崎勤(1962年生まれ、2006年1月に最高裁で死刑が確定)が連続的に計4人の幼女を誘拐し殺害した。M君事件とも呼ばれる。
事件の大まかな概要はページ末尾の資料を参照のこと。

事件は1988年8月22日今野真理ちゃんの行方不明事件から始まる。その後短期間に連続して幼女が誘拐された。宮崎勤は遺族へ遺骨・手紙等を届けることによって事件の表へ姿を現し、今田勇子という名で犯行声明を出した。
裁判では「遺体を食べた」などと残虐かつ非道な行為を自供するなど、正常な心理状態とは思えない供述をしたが、複数回にわたる精神鑑定では異常を認められなかった。

犯人・宮崎勤は死刑判決を受けている。

http://www.moedic.net/wiki/%B5%DC%BA%EA%B6%D0%CF%A2%C2%B3%CD%C4%BD%F7%CD%B6%B2%FD%BB%A6%BF%CD%BB%F6%B7%EF.html

宮崎勤死刑囚
「遺体を食べた」などと残虐かつ非道な行為を自供

和歌山一家8人殺害事件

犯人のA(犯行時26歳)は、戦時中志願して通信兵となり、中国戦線や北海道を転戦していたが、その間に和歌山県和歌山市で暮らしていた実母が1940年に死去した。実母はAより15歳年長の兄一家と暮らしていたが、実母が兄嫁から虐待される「姑いじめ」を受けていた。Aはその家庭環境から逃げ出す為に兵役についていたが、その直後に実母は虐待死したと疑っていた。すぐに兄嫁に対し復讐しようとしたが、証拠もないうえに叔父になだめられたため、実行しなかった。

1945年10月に復員し空襲で焼け出され焼跡でバラック住まいをしていた兄一家宅に身を寄せた。だが1946年1月27日の夕食時に義姉がした、実母が心臓麻痺で苦しんだ最期の形相をまねた心ない仕草がAの復讐心に火をつけた。そのため1月29日深夜に手斧にノミを用意して、兄(当時42歳)と兄嫁(当時41歳)の夫婦だけでなく、兄夫婦の子供も「両親がいなくなって不憫」という勝手な行く末を考えて、16歳と13歳と7歳と3歳の男児と、14歳と10歳の女児と6人の子供まで虐殺する行為を犯した。

Aは「これは母の敵討ちだ、1ヶ月後に自首する」などと自己正当化する書置きをして逃亡したが、1ヶ月しても出頭することは無かった。Aは長崎県内の炭鉱に偽名で働いていたが、「良心の呵責」に耐えられなくなったとして、1948年3月19日に大阪市にある朝日新聞社大阪本社に現れたところを逮捕された。

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E4%B8%80%E5%AE%B68%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&aq=f&oq=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E4%B8%80%E5%AE%B68%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&aqs=chrome.0.57j62l3.189j0&sourceid=chrome&ie=UTF-8

https://matome.naver.jp/odai/2136876875790057201
2014年07月30日