エベレストの日本人初登頂以外には未踏峰や未踏ルートでの目立った成果はなく、小西政継に言わせると「水平の冒険では素晴らしいものがあるが垂直の冒険ではセンスがない」と辛らつなものだった。
実際に北極点・グリーンランド犬橇縦断など「水平の冒険家」としての評価の方が高い。
厳冬期マッキンリーで単独登頂に成功したが、下山時に行方不明となり、現在も遺体は発見されていない。
アメリカ合衆国 アラスカ ディナリ・ワイルダーネス・ウィジン・ディナリ国立公園 ディナリ国立公園保護区 マッキンリー
徒歩による北極点到達、エベレストも登頂し、植村直己もなし得なかった日本人初の地球三極到達も目前とされていたが、南極遠征の直前に参加が決まったナムチャバルワ遠征で雪崩に遭い死亡。 本人はこの遠征に乗り気でなかったと言われ、その死を悔やむ人も多い。
中華人民共和国 ニンティ メンリン 南迦巴瓦峰
8000m峰の登頂は7座8回を数えたが、2011年にテレビ番組の撮影のためエベレストの登攀中に頂上直下で体調が急変。下山中に急性高度障害で突然死してしまった。
Everest Base Camp Trekking Route, Sagarmatha National Park, Khumjung 56000 ネパール
社会人としての制約から帰宅の電車に間に合わせるために食事はほぼすべて行動食で賄い、不眠不休で行動することで一日当たりの距離を伸ばすという現在では考えられないほど苛烈な登山スタイルだった。
厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死。
日本, 〒506-1421 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷神坂 県道475号線
ヒマラヤ8000m峰では8座に9回登頂。エベレストも往路無酸素登頂し、若手最大のホープだったが、クーラカンリ遠征で比較的安全な下部キャンプ間の移動中に大雪崩を受け死亡。
Kula Kangri, ロダク 山南地区 中華人民共和国
K2無酸素登頂の際に重度の凍傷を負い足指の殆どを切断するが、その後も高所登山は続行。
イエティ同人隊として日本人初のエベレスト無酸素登頂を遂げたが、登頂に時間がかかり日没までに下山できずデスゾーンでビバークしたために消耗。下山中に滑落しザイルパートナーの吉野寛と共に死亡。 遺体は四散し靴の片方が発見されただけだった。
Hornbein Couloir, シガツェ地区 ネパール
あくまで自力でのルート工作、無酸素登頂に拘り続け、ジャヌー、カンチェンジュンガ、K2などの未踏ルート無酸素登頂を成功に導いた。
体力の衰えを自覚してからは酸素ボンベ、ガイドを使った現在主流の登山に転向したが、マナスル登頂後高度障害によりキャンプ地に帰還できず遭難。
体調不良を自覚していたにもかかわらず登山を強行、あまりに遅すぎる出発、酸素ボンベの残量から考えて時間切れが明白なアタックなどベテラン登山家とは思えない遭難直前の行動に首を傾げる人は少なくない。
ネパール Dharapani, Manaslu Conservation Area, マナスル
スポンサーに頼る登山家ではなく助産師、看護師として勤務した給料で海外遠征費用を賄うアマチュアリズムに徹した登山家で、勤労者山岳連盟の理事も務めていた。
最後の8000m峰遠征として向かったダウラギリの頂上手前で急性高山病となり行動不能となったところで折悪しく襲ってきた雪崩に巻かれ遭難死した。
ネパール 〒33200 Mudi, ダウラギリ山
Unnamed Road, 棚澤 奥多摩町 西多摩郡 東京都 198-0106 日本
アウトドア用品会社・エバニューの社員として数多くの用具の開発にもかかわるなど、まさに山に生きた人生だったが、2008年の夏に南アルプスを登山中に事故死。
ガッシャーブルムⅡ峰はシェルパ無しの個人隊で登頂に成功、勢いに乗りK2の無酸素登頂も目指したが、2008年の暮れにトレーニングのために向かった南アルプス、鋸岳で帰らぬ人となった。
拠点にしていた小淵沢では10数キロのランニング中に目についたゴミを片っ端から回収するなど環境保全にも熱心だった。
http://blog-imgs-31.fc2.com/t/s/c/tsc8/screen-capture_20090128102707.jpg
日本, 〒399-0211 長野県諏訪郡富士見町富士見8007
2009年には癌を克服しセブンサミットを達成。 その後も診療所の医院長(産科医)の多忙の合間を縫って山スキーに傾倒。HPやブログの報告も緻密かつ頻繁でファンも多かったが、2013年に奥穂高岳で山スキー中に落石の直撃を受け帰らぬ人となった。
その軌跡は今でもHPで閲覧することができる。
http://homepage2.nifty.com/gynealp/
日本, 〒390-1520 長野県松本市安曇 奥穂高岳
厳冬期の伯耆大山で雪崩により墓場尾根から地獄沢に流された後、4日間飲まず食わずで人里まで自力下降した奇跡の生還劇は衝撃と共に「あの人ならやりかねん」と受け止められたという逸話がある。
奇跡の生還劇の五年後、同じく大山の天狗沢で氷壁登攀中に墜落死した。
著書に「雪の谷(たん) 山の声」 追悼遺稿集に「山毛欅林(ぶなばやし)より」
日本, 鳥取県西伯郡大山町大山1
マカルー東稜初登攀は世界の山岳界からも賞賛された。
厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。
全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。
ネパール 〒33200 ダウラギリ
日本, 〒078-1701 北海道上川郡上川町層雲峡 黒岳
会社員の傍ら低予算・アルパインスタイルでビッグウォール(未踏の大岩壁)を狙う「西日本の山野井」ともいえる存在だったが、2013年暮れに単独で入山した槍ヶ岳の正月山行で消息を絶った。
http://www2.ocn.ne.jp/~climb/sub3.html
http://halpine.sakura.ne.jp/expedition.html
長野県松本市
ペルーアンデスの未踏壁登攀では山野井泰史氏とともにピオレドール・アジアを受賞、遭対協の隊員としてレスキューにも多数出動し警察の山岳救助隊からも頼りになる戦力と信頼が厚かったが、遠征に向けたトレーニングのために鹿島槍北壁を登攀後下山中に滑落死してしまった。
日本, 富山県中新川郡立山町芦峅寺 鹿島槍ケ岳
ヒマラヤ8000m峰では運がなく全て敗退。
最後に挑んだ未踏峰、ウルタール・サールⅡでは頂上直下7000mまで到達するものの悪天候に阻まれ敗退。 二度目に挑んだ際に5300mのキャンプ地を出てすぐに雪崩の直撃を受け、標高差1300m以上流されて死亡してしまった。
なお、エベレストの大量遭難で死亡した難波康子が登頂した他の六大陸の幾つかは長谷川の引率によるガイド登山だった事を知る人は少ない。
Ultar Sar
「蒼天の白き神の座」と言えば二ヤリとする人もいるだろう。教職員の傍ら数多くの高峰登山を成功させた教員クライマー。
退職を余儀なくされたK2遠征の記録は大ベストセラーとなり映画化もされるなどの評判を呼んだため、県議会で教育長がつるし上げられ退職が撤回される大騒動に発展した。
K2登頂二十周年記念として行われたスキルブルム峰遠征で登頂成功、無事に下山したが撤収を翌日に控えた最後の夜に大雪崩が発生、BCごと飲み込まれ非業の死を遂げた。
「神奈川県の山」「山が楽しくなる地形と地学」等著書も多数。
Skilbrum, Central Karakoram National Park
食料は大量の棒ラーメンとチョコレートだけという凄まじいシンプルさで「棒ラーメンの人」と呼ばれた。
2011年には静岡の大浜海岸から南アルプス、八ヶ岳、北アルプスと縦走して新潟の糸魚川海岸まで丸二か月かけて無補給で踏破するというハチャメチャぶりだった。
「他人には理解されにくいと思うが、自分でも何故こんな事をしているのかよくわからない」
2013年も槍ヶ岳から有明山までの長期縦走の為に入山したが、予定日を過ぎても下山せず消息を絶った。 遺体は発見されていない。
日本, 〒399-8301 長野県安曇野市穂高有明 有明山
無謀な挑戦と言われた冬季谷川岳第3スラブの初登攀に成功。 その後もエベレスト南壁で到達高度記録を更新する南壁隊に参加し勇名を馳せた。
グランドジョラスでの遭難死後に回収されたピッケルはエベレスト北壁遠征隊により山頂に置かれる予定だったが、登頂した隊員がギアを使い果たしたためそのまま下降時に持ち帰られ、進退窮まった大ピンチを救い最後の役割を果たすことになった。
フランス 〒74400 シャモニー グランド・ジョラス
各国の精鋭登山家が次々に敗退、最後の未踏峰となった難攻不落のウルタール・サールⅡにたった2人のアルパインスタイルで挑み、試登なしの一撃で登頂するという空前絶後の快挙を成し遂げた。下山時に嵐に閉じ込められ、飲まず食わずの極限状態を耐え抜き下山するものの、ABC内で体調が急変し死亡。
長谷川恒男と共に遭難した星野清隆氏の夫人が富士山で滑落した際に救援にあたり収容したのは彼だったという信じがたい因縁も。
Ultar Sar
と言われた登山家。
9座11回にのぼる8000m峰の登頂のほとんどが無酸素、冬季やバリエーションルートという怪物。エベレスト交差縦走、ダウラギリⅠ~Ⅴ峰全制覇は世界初。
同じく無酸素登頂を目指した小西浩文がアドバイスを求めた際には「適性を見てやろう、ついてこい」と重い梯子を抱えたままアイスフォール帯を縦横無尽に疾走したという信じがたいエピソードも。
14座制覇に一番近い日本人と目されていたが、厳冬期マッキンリーで盟友・三枝照雄と共に遭難。
生家であるりんご園の奥に遺品を納めた山田昇ヒマラヤ記念館がある。
アメリカ合衆国 アラスカ ディナリ・ワイルダーネス・ウィジン・ディナリ国立公園 ディナリ国立公園保護区 マッキンリー



























2008年4月に五竜岳からの滑降中の事故で死亡。 32歳の若すぎる死だった。
http://www.laboratorism.com/contents/?p=340