経緯
インド北部ダラムサラのチベット亡命政府で開かれていたチベット人特別総会で28日、ロブサン・センゲ首相は国際社会に対し、チベットでの中国政府による圧力に抵抗し、人権擁護のため立ち上がるよう呼びかけた。
チベットで焼身自殺続発41人、中国への国際圧力訴え 亡命政府首相 – MSN産経ニュース
中国政府は漢民族をチベットに大量移住させる政策を続け、チベット人の政治的自由や言語、宗教、文化を抑圧してきた。これまで51人が抗議の焼身自殺を図り、41人が死亡したという。
チベットで焼身自殺続発41人、中国への国際圧力訴え 亡命政府首相 – MSN産経ニュース
専門家は、中国政府への不満に加え、ダライ・ラマ14世が政治権限をセンゲ首相に譲ったことで、ダライ・ラマが政治最高指導者としてチベットに帰ってこないという失望感が僧侶らに広がったことがチベット人を自殺に駆り立てていると分析
チベットで焼身自殺続発41人、中国への国際圧力訴え 亡命政府首相 – MSN産経ニュース
中国のチベット弾圧
毛沢東が北京で「チベットを解放するぞ!」と宣言したのが、チベットの終わりの始まりです。圧倒的な武力でチベットはすぐに陥落し、1959年、指導者のダライ・ラマ14世がインドに亡命。北インドのダラムサラにチベット亡命政府を樹立しました。
【超入門 チベット問題】
チベットは、チベット自治区と四川省・青海省・甘粛省・雲南省の一部として組み入れられ、現在では中国の一部になっています。
一方、15万人余りのチベット人が亡命し、今もインドやネパールの難民居留地で暮らしています。
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チベット人大虐殺問題
1950~1976年の間の犠牲者数は、次のように推定されている。
173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
156,758人が処刑死。
342,970人が餓死。
432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
92,731人が拷問死。
9,002人が自殺。
チベット問題 – Wikipedia
これは2012年4月のニュースです。未だにこのような蛮行が行われているということに憤りを感じずにはいられません。
ゴロクの虐殺
1954年、人民解放軍はゴロク族の居留地を襲って老若男女を問わず数千人を殺戮した。
1956年にゴロク地区で130,000人あった人口が1963年までに約60,000人にまで半減したと指摘している
チベット問題 – Wikipedia
ゴロク(中国の区分で青海省果洛州。中心都市・マチェン)に中国から数千人の中国農民が入植してきて彼らの牧草地を農地に変えてしまったため、ゴロク族は僧俗問わず武器を取って隙あらば中国農民に襲い掛かった。1954年、人民解放軍はこれを力で押さえ込もうとして、兵3千を投入して僧院を焼き払ったため、たちまち戦乱に発展した。
中央チベットの虐殺
1959年3月から62年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した。チベット亡命政府は、中央チベットだけで87,000人のチベット人が殺害されたとしている。
チベット問題 – Wikipedia
20年戦争といわれたチベット、カム地方の武装蜂起(1954〜1974)
中国は1955年11月から翌1956年春にかけて、アバ・チベット族自治州、涼山チベット族、イ族自治州で土地改革を開始する。しかし、この改革に反発した地域の住民らが武装蜂起をした
チベット問題 – Wikipedia
中国共産党政府がチベットの宗教を「有害」と見なして一切の寺院と僧侶を除去すること、そしてあらゆる神が搾取の道具だということを宣言したことで、チベット人の怒りは噴出し、大規模な反乱が発生した。
1959年、ダライ・ラマ14世が中国に拉致されるという噂が流れ、ダライ・ラマ14世が中国人民解放軍の目を逃れてインド国境に向けてラサを脱出
カム反乱 – Wikipedia
1959年から1960年代半ばまでに亡命したチベット人は8万人である。
カム反乱 – Wikipedia





