クラーク記念国際高等学校出身著名人
校長
旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)に入学、その後青森県立弘前高等学校に転校し卒業、北海道大学獣医学部に進学。
母校の北大獣医学部に助手として勤務後、
1960年代始め頃からスキー学校を開設し[1]プロスキーヤーとして活躍、
1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセに日本人で初めて参加、
時速172.084キロの当時世界新記録を樹立(なお、この前後に3度転倒し、「世界で最も速い速度で転倒して無傷で生還する」という珍記録も樹立している)。
1966年4月富士山直滑降、1970年5月エベレストのサウスコル8000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)など世界七大陸最高峰からの滑降を成し遂げた。
1973年青森大学工学部生物工学科教授就任。
1971年スポーツ英雄大賞(スペイン)、1975年に米アカデミー賞(長編記録映画部門)=「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」。1992年4月からクラーク記念国際高等学校(北海道深川市納内)校長。2006年6月からNPOグローバル・スポーツ・アライアンス理事長を務める。
1995年4月、友人である平成維新の会代表・大前研一が月刊誌『文藝春秋』(3月号)上で発表した新・薩長連合結成宣言の知事連盟構想に呼応して、新人対決の1995年北海道知事選挙に出馬したが新進党推薦の前副知事堀達也と自民党推薦伊東秀子の争いに埋没し得票率7パーセント弱で供託金没収の大惨敗(大前は1995年東京都知事選挙に立候補)。同年7月の第17回参議院議員通常選挙には、同じく平成維新の会公認候補(比例代表制名簿2位)として出馬している(いずれも落選)。
2005年6月、全国森林レクリエーション協会会長に就任。
2006年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載する。
2008年5月26日、75歳(世界歴代2位)でエベレストに再登頂した。その前日に76歳で登頂を果たしたとされるネパール人男性ミン・バハドゥール・シェルチャンの記録については、年齢を実証する書類、また登頂成功を証明する書類が存在しないことから認定されず、ギネスブックには三浦が最高齢登頂者として認定された。これに対してシェルチャン側が書類を揃え、再度、申請を行い、2009年11月23日にシェルチャンに認定証が授与された。
2009年2月、札幌市内のスキー場でコース内に作成されたバンクから飛び出し骨盤を骨折。手術後リハビリに励み回復した。
2010年、オーストリア・アルベルト・シュバイツァー協会よりアルベルト・シュバイツァー章受章
2012年10月、2013年春に80歳で3度目のエベレストに再登頂することを会見で発表した。
2013年5月23日、3度目のエベレスト登頂に成功した。エベレスト登頂の歴史で最高齢登頂者となる。下山中に体調を崩し、標高5300mのベースキャンプまではヘリコプターを使って移動した。この登頂成功が三浦アワード創設のきっかけとなった。三浦の成功を知ったシェルチャンは、81歳で登頂を試みるが途中で胸痛が出現し、5月28日断念して下山した。
1975年 米アカデミー賞長編記録映画部門(エベレスト滑降)
【受賞歴】
プロスポーツ大賞殊勲賞、スペイン山岳会名誉会員、
世界山岳探検会議特別会員、
ワシントン州名誉市民、ニューヨーク映画祭ゴールデンイーグル大賞(南極滑降)、
国際探検映画祭・冒険探検特別賞、青森市民栄誉賞、北海道功労賞、
内閣総理大臣表彰、フランス政府スポーツ青少年功労賞金賞、他
1992年4月からクラーク記念国際高等学校(北海道深川市納内)校長。

















