【日本の歴史】肖像画で知ろう!戦国・安土桃山時代の偉人たち「写真、画像」

風のワルツ
戦国時代とは、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末 にかけて戦乱が頻発した時代区分であるです。そんな時代に活躍した偉人達(猛者、英雄、軍師等)をまとめました。肖像画が自分の想像とはまったく違い驚くこともあるかもしれませんね♪是非ご覧ください。
【真田昌幸】
真田幸隆の三男として生まれる。
後に真田氏を相続し、徳川家康を相手に2度も勝利した名将。
【佐々成政】
佐々成政(さっさなりまさ)は、越中国(現富山県)の戦国大名。15歳で家督を継ぎ、織田信長に仕え、馬廻から、32歳のときに織田軍精鋭部隊の黒母衣衆の一員に選れ、その後も武功を重ねて行く。
【千利休】
千利休は茶道を確立した功労者で、その作法は、現在にも伝えられている。
【織田信長】~三英傑の1人
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の1人。天下統一の寸前までを実質的に成し遂げた男。しかし、中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた時に部下の明智光秀の謀反により死を遂げる。

大雲院にある肖像画。不詳(狩野派絵師)

【長宗我部元親】
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族を討滅・臣従化して勢力を広げ戦国大名に成長し、土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一する。
【毛利元就】
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。
【浅井長政】
浅井 長政(あざい ながまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北近江の戦国大名で、浅井家の3代目にして最後の当主。信長の妹の市を妻にした事でも有名。
【最上義光】
最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。
【豊臣秀吉】~三英傑の一人
豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。
彼は、百姓から天下人へと登りつめた「戦国一の出世頭」と評されています。彼を題材にした書物は沢山ありますので、読んでみるとまた違った角度から歴史を知る事になるかと思います。
【徳川家康】~三英傑の一人
徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代を画した。
【上杉謙信】
上杉謙信(うえすぎ けんしん)と言えば、武田信玄と互いに戦国時代を代表する名将であり、川中島で五度も 激突したほど敵対した関係にあった。しかし、信玄が今川氏真と対立して塩を止められた ときには、謙信は越後から甲斐、信濃の武田領に塩を送りそれを援けたと言う話も残っている。
【片倉小十郎】
片倉小十郎(かたくら こじゅうろう)またの名を、景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏家臣で、伊達政宗の近習となり、のち軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。伊達政宗の剣術の師匠とも伝えられている。
【前田利家】
前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。
【朝倉義景】
朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第 11代(最後)の当主。
【丹羽長秀】
丹羽 長秀(にわ ながひで)は、元々織田信長のペットの鶏であり ながら、「米五郎左」の異名をとるほどの卓越した経済手腕で戦国時代に活躍した人物です。
【本願寺顕如】~浄土真宗の僧
顕如(けんにょ)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。諱は光佐。院号は信樂院。本願寺第十一世。妻(裏方)は三条公頼の三女の如春尼。
【石田三成】~豊臣政権の五奉行の一人
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。豊臣秀吉直属の吏僚として秀吉から非常に信頼を受けた。秀吉の死後も豊臣家の為に最終的に天下統一を成し遂げる徳川家康と戦い抜き命を落とした。
【黒田長政】~名軍師・官兵衛の長男
豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。関ヶ原の戦いで大きな武功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になった。父孝高と同じくキリシタン大名であった。
【加藤清正】~秀吉の子飼いで「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名 。肥後国熊本藩初代藩主。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人 。朝鮮出兵中での虎退治の逸話を知っている方もいらっしゃるかと思います。
【明智光秀】~本能寺の変を起こした事 で有名。
明智 光秀(あけち みつひで)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国 大名・織田信長の重臣の一人で、 日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事 で有名。
【細川忠興】~茶道の流派三斎流の開祖。
戦国時代の武将。熊本細川家初代 。隠居後は三斎と号す。 妻は明智光秀の娘、たま(ガラシャ)。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖。
【武田信玄(晴信)】
武田信玄(晴信)は、戦国時代の武将、甲斐 の守護大名・戦国大名。越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
【竹中半兵衛】~秀吉の軍師として活躍♪
竹中 重治(たけなか しげはる)。通称半兵衛(はんべえ)。もとは、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城城主・竹中重元の子として同地に生まれる。国主が斎藤義龍から龍興に変わると、龍興は毎晩酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけてしまう。龍興に近隣諸国の脅威を促す為に居城を1日で奪取してみせ、その後再び返還する。やはり、無能な国主だと悟り下野する。
将来的には、斎藤氏滅亡後は豊臣秀吉の軍師として活躍することになる。
【真田幸村】
真田幸村として一般的に知られているが、実在の人物の名としては信繁が正しい。永禄10年(1567)、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれる。彼は大坂の陣でその名が全国に知られる事となった。豊臣方が大坂城に籠城する策と決定した後、弱点の補強を進言し、着工。徳川勢を苦しめたが、結局冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。その後の結果は皆さんご存知かと思います。
【斉藤道三】~美濃の蝮
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三。
【森可成】
森可成(もり よしなり)は、戦国時代の武将。土岐氏、後に織田氏の家臣。槍の名手で、関兼定(大政所の父と言われる鍛冶屋)銘の十文字槍の使い手であった。武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
【九鬼嘉隆】
九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国(現三重県志摩半島)の戦国武将で水軍大将。28歳のとき、伊勢に侵攻した信長軍の一員として、水軍を率いて活躍し、正式に織田氏の家臣団として認められた。
【北条早雲】
北条早雲(ほうじょうそううん)は、戦国時代初期の武将で、本名は伊勢盛時(いせもりとき)。戦国大名となった後北条氏の祖。
【織田信長】
大雲院にある肖像画。不詳(狩野派絵師)
【北条氏政】
北条氏政(ほうじょううじまさ)は、相模(現神奈川県)を支配した戦国大名。
【織田信長】
大雲院にある肖像画。不詳(狩野派絵師)
【織田信長】
三宝寺にある肖像画。
【織田信長】
【織田信長】
早稲田大学図書館蔵にあった肖像画。
【上杉景虎】
上杉謙信は北条氏から人質として迎えた景虎を景勝の姉と婚姻させ、養子とした。しかし、後継者を明言せずに急死したため、もう一人の後継者候補であった景勝と家督争いをすることになる(御館の乱)。
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2016年03月14日