ハプスブルク家とは?
「双頭の鷲」をシンボルとするハプスブルク家。
双頭の鷲というモチーフそのものは5,000年以上も前から存在しているといわれています。
権威の象徴として抜群の存在感を放つエンブレムを戴いた一族は、歴史を彩る人材の宝庫。
華麗すぎる家系図!これだけは押さえておいてほしいハプスブルク家の人々|TapTrip
全盛期にはハプスブルク家は権力と権威を奮い、結婚による領地拡大にも成功し繁栄しました。
オーストリアを中心にブルゴーニュ、ドイツ、ベルギー、イタリア、スペイン、ハンガリー、ボヘミア(チェコ)に至るまで偉大な勢力を保っていました。
15~16世紀の最盛期には、ヨーロッパの大部分と新大陸(南米)まで統治していたほどです。特に重要とされる人物は、ハプスブルク家が繁栄するきっかけとなった「ルドルフ1世」とマリー・アントワネットの母「マリア・テレジア」です。
マリア・テレジアは政略結婚で成り立っていた中で、愛する男性と結婚出来た幸せな女性で16人もの子供を残しています。
彼女の娘の中にもう一人歴史上有名な人物で悲劇のヒロインといわれるエリザベートは、ハプスブルク家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻となった人物です。
ハプスブルク家の歴史はこんなに偉大だった…オスマン帝国の脅威からヨーロッパを救う | きっかけは、絶景から。 wondertrip[ワンダートリップ]
もともとはスイスの貴族だった!
ハプスブルク家の発祥は、スイス北東部のライン川上流のアールガウ地方です。
ここの小領主であり、ハービヒツブルク城(鷹の城)の城主から始まりました。
パプスブルクという名はこの城の名前が訛ったもののようです。
10世紀ごろにライン川上流のドイツに領地を拡大し、ヨーロッパを象徴する家へと発展していきます。1273年にルドルフ1世がドイツ王に選出されました。
1278年にはボヘミア(チェコ)をマルヒフェルトの戦いで破り、1282年にはオーストリア公国を息子に委ね、更に勢力を広げます。
しかし、スイスでの勢力は衰退しました。
オーストリアを中心地として繁栄し、一時期皇帝の暗殺などで衰退するものの、ルドルフ4世のころに復活し「オーストリア大公」と自称するようになります。
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13世紀の終わりごろは初の神聖ローマ帝国に選ばれます。
14世紀の中ごろには、ボヘミア王となりました。
時代の流れと共に皇帝は「権力」のではなく「権威」の象徴へと変化し、ハプスブルク家にとっては好都合で、うまく権威を利用しドイツ以外の諸国で力を発揮するようになっていきます。15世紀前半のアルプレヒト2世の時代から世襲化となります。
1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに「皇帝」と名乗り始め、ハプスブルク家が大きく飛躍しました。
彼はフランス西部大諸侯のブルゴーニュ家のマリアと結婚。
マリアの父が亡くなった後、ブルゴーニュ家の広大な領地を領有しました。
息子のフィリップをスペイン王女フアナと結婚させスペインも支配下に置き、マクシミリアン1世は広大な土地を支配するハプスブルク帝国を建設しています。
その息子のカルロス1世は新大陸まで勢力を拡大しました。
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ハプスブルク家の人々:ルドルフ1世(1218年~1291年)
輝かしいハプスブルク家の基礎を作ったといわれているのが、ルドルフ1世です。現在のフランス領で生まれたとされるルドルフは、地方貴族の子でしかありませんでした。それが1273年にドイツ王に選出されたことから、歴史の表舞台に登場します。
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領土を拡大して勢力を伸ばし、1278年にはマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世を破ります。
また本拠地をウィーンに移したのもルドルフ1世です。
スイスからオーストリアへ。さらに世界を広げ、一族を導いた人物といえるでしょう。
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ハプスブルク家の人々:マクシミリアン1世(1459年~1519年)
マクシミリアン1世は、ハプスブルク家が勢力を伸ばしていった、その典型を具現化したような人物です。
父は神聖ローマ皇帝で母はポルトガル王女。
最初の妻はブルゴーニュ公国の後継者たるマリー。
ハプスブルク家は、マクシミリアン1世の孫カールの代になって最大版図を誇ることになるのです。
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マクシミリアン1世本人は、「中世最後の騎士」と称される人物。武勇に秀でており、たいへん勉強家でラテン語やドイツ語のほか、フランス語、スペイン語などを習得しています。
また絵画や音楽といった芸術を愛し、ウィーン少年合唱団の基礎を築いたともいわれているのです。
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ハプスブルク家の人々:マリア・テレジア(1717年~1780年)
ハプスブルグの全盛期を築いた女帝マリアテレジア
23歳で即位し16人の子供をもうけ、次々と政略結婚をさせた。
5分でわかるオーストリア、ハプスブルグ家の歴史 : naokoのグラーツ滞在日記
政略結婚のこの一族で、意外にも大好きな人と結婚し、おしどり夫婦として有名な彼女。
ベルサイユのバラでも有名な、マリーアントワネットのお母さんです。
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ハプスブルク家の人々:マリー・アントワネット(1755年~1793年)
断頭台の露に消えた、悲劇の王妃として知られた女性です。
マリア・テレジアの16人の子女のひとりで、14歳のときに故国オーストリアを離れフランスへと嫁ぎます。幼いモーツァルトがプロポーズをしたという逸話でも知られていますね。
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ベルサイユのバラの主人公だったり、映画にもなっている彼女。
覇権争いをしていた、フランス・ブルボン家との同盟関係を深めるべく、1770年フランスのルイ16世に嫁ぐ。
愛らしい容貌で当初は市民に愛された。しかし、まだ幼さから贅沢を好み財政を圧迫。
市民の苦しい生活を理解しない「おなかがすいたらお菓子を食べればいいのに」という言葉がある。
民衆の反感を買い、フランス革命で幽閉、断頭台で死刑となる。
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ハプスブルク家の人々:フランツ・ヨーゼフ1世(1830年~1916年)
事実上のハプスブルク帝国最後の皇帝といわれています。
18歳で伯父から帝位を受け継ぎ、1916年に亡くなるまでの68年間、数々の戦争を経験し、巨大な多民族国家を率いてきたその生涯は波乱万丈といえるでしょう。
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