河合武雄(本名:内山武次郎)
歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京市京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。
河合武雄 – Wikipedia
歌舞伎俳優の父・三代目大谷馬十の反対を押し切って、山口定雄一座で初舞台を踏んだ。
下積み役者の苦労を知る三代目大谷馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台。
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
明治26年7月(17歳)、横浜鶯座の山口定雄一座で初舞台を踏んだ。
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四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。
容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
河合:かわいい
水野好美と奨励会をおこした。浅草・常盤座での奨励会演劇
西条昇の浅草エンタメ散歩@saijoasakusa
水野好美、河合武雄ら新派の役者たちが出演。
当時の常盤座の座主は根岸濱吉である。#新派 #浅草 #演劇 #明治時代 pic.twitter.com/qQKtidkjdb
松居松葉と公衆劇団を組織して新劇運動にも関心を示した。
桃園穂鳥@cawaU
「新派三頭目」河合武雄・伊井蓉峰・喜多村緑郎
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 – 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。
河合武雄 – Wikipedia
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酒乱の芸妓役では他に追随を許さない独自の妙味を開いた。
酒乱の芸妓役では他に追随を許さない独自の妙味を開いたと評され、大正期に入ると伊井蓉峰、喜多村緑郎と共に『新派三頭目』の1人と呼ばれる名優の地位を築きました。
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新派・・・
新派は、1888年(明治21年)に始まった日本の演劇の一派。 明治時代に始まった「壮士芝居」「書生芝居」などをもとに歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達し、「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と称された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/新派
新派は、歌舞伎に比べ、ほとんどが高等学校以上の知的レベルの高い観客に支えられていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/新派
「河合武雄一座」浅草・公園劇場
西条昇の浅草エンタメ散歩@saijoasakusa
河合の他に、山田五十鈴の父親の山田九州男、柳永二郎らが出演。
演目は「己が罪」「平手造酒」「夕顔の巻」の三本である。
#新派 #浅草 pic.twitter.com/iATgfXvYKJ
河合武雄は、立女形の名優として活躍。
河合武雄は天性の容貌と美声に恵まれ立女形の名優として活躍
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河合武雄は、当時の演劇界において最も舞台映えのする女形を創り上げた。
河合武雄は、当時の演劇界において最も舞台映えのする女形を創り上げたと言われ、絶大な人気を博しました。華やかな絢爛さに加え、匂うばかりの妖艶さを備えた女形は、あでやかな緋牡丹の花に例えられ、新派の歴史の中に現在もなお燦然とその名を残しています。
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河合武雄と鏑木清方「女歌舞伎」「女形」
かーりー@EverydayKarry
当時流行り(だったはず)のミントグリーンがポップで鮮やか。
この髪の結い方と帯は芸者さんかしら
歌舞伎だからこれは女形ね
振袖だから、お嬢さんと男の子は兄弟かしら
とにまにましながら見れて楽しかったです!
美人画の大家 鏑木清方は描く女の絵姿に「河合という女形から大きな影響を受けた」と言わしめさせる程、華のある俳優でした。
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甘酒@kanimamesan
女歌舞伎の舞台裏がすごくいきいきと描かれていて好き。屏風の焼失がほんとに残念! pic.twitter.com/TSzDtEkL9X
河合武雄の主な持ち役
河合武雄の主な持ち役
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
行末の括弧内は、初演の西暦年次。
菊池幽芳:『己が罪』の環(1900年)
菊池幽芳:『乳姉妹』の君江(1904年)
渡辺霞亭:『想夫憐』の雅子(1904年)
中村春雨:『無花果』の、エミヤ(1902年)
泉鏡花:『通夜物語』の丁山(1905年)
田口掬汀:『伯爵夫人』のルイズ(1906年)
ドーデ:『サッフォ』の佐保子(1906年)
ホフマンスタール:『エレクトラ』のエレクトラ(1913年)
柳川春葉:『生さぬ仲』の清岡球江(1917年)
伊原青々園:『仮名屋小梅』の小梅(1919年)
真山青果:『浅草寺境内』のお楽(1923年)
瀬戸英一:『二筋道』のおすが(1931年)
『かげろうや おもかげにたつ ひとひとり』 傘雨(久保田万太郎)河合武雄への追悼
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『東京の おぼろかなしき こよいかな』傘雨(久保田万太郎)河合武雄への追悼
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「新演芸」大正13年12月号
木挽堂書店@kobikidoshoten
本文には河合武雄とのツーショットがあるなど、『演芸画報』にはない切り口が面白い雑誌です。
ちなみに、表紙は田中良・画「尾上梅幸の榊原高尾」です。
※敬称略 pic.twitter.com/PKYG35mMPg
1892年(明治25年)7月には山口定雄の一座が浅草に登場したが、ここで育成されたのが河合武雄や喜多村緑郎らの女形だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/新派
喜多村緑郎・河合武雄 歌舞伎座 昭和4年(1929年)1月
河合宥季(劇団新派女方)@Rin_Yuki_KAWAI
河合武雄の名演が知られる「仮名屋小梅」
ひびのけい@hbnk
喜多村緑郎・河合武雄 明治座 昭和15年(1940年)9月
おとなしがわ@_otng_
今見返すと新派の写真がおもしろい。特に着付けは女形のセンスや役作りの見せどころという感じ。
昭和15年 明治座9月狂言〈續々戀すてふ〉
喜多村緑郎のおたき 河合武雄のおかよ
『#演藝画報』昭和15年10月号 #演芸画報 pic.twitter.com/QpsPfu7wH7
花柳章太郎「新派女方の芸域は喜多村緑郎、河合武雄の試練と蓄積で演技が完成した」
河合宥季(劇団新派女方)@Rin_Yuki_KAWAI
“花柳章太郎談”「新派女方の芸域は喜多村緑郎、河合武雄の試練と蓄積で演技が完成した」…と…
女方芸を残して下さったことに、ただただ感謝致します…✨
Mrs. Robinson@MrsRobinson8358
「新派」河合武雄・喜多村緑郎・花柳章太郎・水谷八重子ら女を演じる名優が次々と誕生
山口 康文@Yasufumi10
東京常盤座から『しばゐ』といふ雑誌を発行して、新聞劇評家を罵つたのは河合武雄
本流新派・・・
1939年(昭和14年)、花柳章太郎・大矢市次郎・柳永二郎・伊志井寛に加え、川口松太郎・大江良太郎も同人に迎え、劇団新生新派が結成されると、喜多村・河合らの本流新派(ほんりゅう しんぱ)と井上の演劇道場が鼎立することになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/新派
やがて太平洋戦争が始まり、その最中の1942年(昭和17年)に河合が死去すると、『本流新派』と『井上演劇道場』は解散するに至った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/新派
新派俳優ハガキ
旧福嶋屋土蔵@boroborokura
ソフォクレスやシェイクスピアの翻案なども演じ、『エレクトラ』のブロマイドなども残している。
稲羽白菟 合邦の密室@masaya_kawakami
再び演目の豊穣を取り戻した時、新派は旧派を脱する事が出来る。
早稲田大学演劇博物館
wogakuzu@wogakuzu
市川春猿、改名発表「河合雪之丞」に・・・
川添史子@fumiko_kawazoe
歌舞伎の人気女形、市川春猿さん(45)が、2017年1月に劇団新派に入団し、河合雪之丞(ゆきのじょう)と改名することが27日、発表された。
白央篤司@hakuo416
花牟礼 紀仁@some_haru
歌舞伎:人気女形、市川春猿さんが劇団新派に入団へ – 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20161…
歌舞伎情報@kabukiinfo
#歌舞伎 #市川猿翁 [サンスポ]今年1月、歌舞伎の師匠、市川猿翁(76)に相談したところ「大賛成だ」と言われたことを涙目で明かし、「退路を断って骨を埋めるつもり」と宣言。新たな芸名は新派の名優、河合武雄さんとかつて猿翁が名…
河合武雄と「畑毛温泉」
大正期から昭和初期にかけて、作家 武者小路実篤の日向「新しき村」に代表される運動が全国各地で行われ、ここ畑毛に於いても、大正デモクラシーの先駆者吉野作造博士を中心に総面積約2万坪に及ぶ「理想郷構想」が実施されました。
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河合武雄が開業した「榮家旅館」・「大仙家」
「理想郷構想」実現の為、この理想郷に宿泊施設が必要となり、新派の名優「河合武雄」が吉野博士と同郷の劇作家 真山青果の紹介を受け、大正十年に開業した「榮家旅館」が当館「大仙家」の始まりです。
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畑毛「理想郷構想」の宿泊施設「榮家旅館」
大正デモクラシーの先駆者吉野作造博士を中心として、畑毛においても、総面積約2万坪に及ぶ「理想郷構想」が実施されました。この時宿泊施設が必要になった為、大正十年に開業した旅館「榮家旅館」が今の「大仙家」の前身なんです。
https://www.travel.co.jp/guide/article/19143/
河合武雄の像
「榮家旅館」を開業したのが歌舞伎俳優であった河合武雄で、日本庭園には河合武雄の像が残っています。
https://www.travel.co.jp/guide/article/19143/
河合武雄は、畑毛温泉の別宅で死去。
1940年、舞台で狭心症を起こし、肋膜炎の療養を命じられた。1942年、療養先の畑毛温泉の別宅で死去した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
河合武雄は、昭和17年3月21日、ここ畑毛の地でなくなりました。
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「榮家旅館〜大仙家」は、平成4年に建て替えられた。
昭和45年に「大仙家」と改称して営業していましたが、平成4年に建て替えのために閉館、平成5年に新規営業を始めたという歴史があります。
https://www.travel.co.jp/guide/article/19143/
工事を行なった際に「立達磨」が出土した。
達磨は、商売繁盛,開運出世の縁起物
正式には「七転八起 起きた時の立達磨(たちだるま)」といって、かなり昔、宿の工事を行なった際に出土。
珍しい「立達磨」
「だるま」は禅宗の「初祖」として崇敬されている菩提達磨が壁に向かって九年の座禅を行ったことによって手足が腐ってしまったという伝説がある。ここから、手足のない形状で置物が作られるようになり、丸みを帯びた「だるま」が一般的となった。「立ち達磨」は菩提達磨が立位した像
立達磨 – Wikipedia
大仙家にある河合武雄の資料
「名優 河合武雄 没後70年 記念祭」2012年
河合武雄と吉野作造の交遊を中心として、坪内逍遥、松井松葉などが登場し偉人とも言うべき先人の存在に思いを馳せた。
畑毛温泉(はたけおんせん)
200年以上も前から湯治場として利用され、静岡県で初めて環境省指定の国民保養温泉に指定された畑毛温泉(はたけおんせん)。静岡県伊豆の国市および田方郡函南町にまたがる静かな温泉地
http://onsen.surugabank.co.jp/nakaizu/11401.html
河合武雄の墓
よもやも@yomoyamoyomo
賢明院英誉水仙武雄居士。墓は青山霊園にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
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大正期から昭和初期にかけて、作家 武者小路実篤の日向「新しき村」に代表される運動が全国各地で行われ、ここ畑毛に於いても、大正デモクラシーの先駆者吉野作造博士を中心に総面積約2万坪に及ぶ「理想郷構想」が実施されました。
構想実現の為、この理想郷に宿泊施設が必要となり、新派の名優「河合武雄」が吉野博士と同郷の劇作家 真山青果の紹介を受け、大正十年に開業した「榮家旅館」が当館「大仙家」の始まりです。
河合武雄(本名 内山武次郎)は明治10年3月、歌舞伎俳優 5代目大谷馬十の次男として東京築地に生まれました。
明治26年7月(17歳)、横浜鶯座の山口定雄一座で初舞台を踏んだ武雄は天性の容貌と美声に恵まれ立女形の名優として活躍し、昭和17年3月21日、ここ畑毛の地でなくなりました。享年66歳。
武雄は、当時の演劇界において最も舞台映えのする女形を創り上げたと言われ、絶大な人気を博しました。華やかな絢爛さに加え、匂うばかりの妖艶さを備えた女形は、あでやかな緋牡丹の花に例えられ、新派の歴史の中に現在もなお燦然とその名を残しています。
また、美人画の大家 鏑木清方は描く女の絵姿に「河合という女形から大きな影響を受けた」と言わしめさせる程、華のある俳優でした。酒乱の芸妓役では他に追随を許さない独自の妙味を開いたと評され、大正期に入ると伊井蓉峰、喜多村緑郎と共に『新派三頭目』の1人と呼ばれる名優の地位を築きました。
河合武雄の生涯
https://ja.wikipedia.org/wiki/河合武雄
本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京市京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。
下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。
山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。派手で陽気な芸風だった。市川九女八、千歳米坡、川上貞奴らの女優がまだ珍しい時代で、河合は、喜多村緑郎を追い、児島文衛と競う女形だった。
1898年に水野好美らの浅草常盤座の『奨励会』へ、1900年に高田実・喜多村緑郎らの大阪朝日座の『第二次成美団』へ、1902年に真砂座の『伊井蓉峰一座』へと移り、その後も座を変えたが、伊井や高田実を多く立役にした。
歌舞伎への執着から、1902年(明治35年)には、『心中天網島』『冥土の飛脚』『阿波の鳴戸』など『近松研究劇』を伊井と続演した。また、ドーデの『サッフォ』(1904年)、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(1904年)など、翻訳劇にも積極的に取り組み、1913年 – 1918年には、松居松葉と組織した『公衆劇団』で、ホーフマンスタールの『エレクトラ』、ハウプトマンの『沈鐘』などを演じた。
先輩たちがおいおい去り、マンネリ気味にもなった1917年、河合は伊井・喜多村と一座を組んで新派の人気を取り戻し、三人でその後の数年間の体制を支えた。『三頭目』と呼ばれた。
井上正夫が独り立ちした。花柳章太郎、柳永二郎、伊志井寛らの若手が育って、1939年に新生新派を分家した。そういう時代の流れの中で、河合は新派の本流に留まり、手馴れた持ち役を演じ続けた。
1937年(昭和12年)(60歳)から、ときどき休演することがあった。1939年、支那事変下の中国へ日本軍慰問の巡業に出掛けた。1940年、舞台で狭心症を起こし、肋膜炎の療養を命じられた。1942年、療養先の畑毛温泉の別宅で死去した。
賢明院英誉水仙武雄居士。墓は青山霊園にある。
著書に、「『随筆 女形』、双雅房(1937)」がある。
息子の河合明石と河合栄二郎とは、1940年頃まで新派の舞台に立ったが、大成はしなかった。
生年月日 1877年3月13日
没年月日 1942年3月21日(65歳没)
出生地 東京市
死没地 静岡県
配偶者 栄
息子 明石、栄二郎