忽那諸島‥‥「命の電話」あった島 由利島(ゆりじま)

Doragonfly
『ザ!鉄腕!DASH!!』の舞台のDASH島が由利島ではないかと話題になった

松山港から西へ約15km、忽那諸島の有人島・二神島から南へ約8km。西の小由利、東の大由利と二つの島が砂州で繋がったように見えます。

もともとはもう少し大きな島で、13世紀の終わりに地震で真ん中の部分が海に沈み現在の形になったと言われています。

ゆうぐも@KI_SHI_NA_MI

なお、生存者は「由利島」が救助…そう、あの由利島です、DASH島

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橋はたぶん明石海峡大橋、島の方はみんな大好きDASH島こと由利島だぞ!

小由利からは弥生式土器、大由利からは平安・鎌倉期の土器や貝塚が出土し、古代人の生活の場であったことを示しています。

また、南側の海底からは井戸と思われる石積みも見つかっており、かつては「由利千軒」と呼ばれるような賑わう集落があり、地震で海底に沈んだ痕跡だとする話もあります。

周囲の海は古くから好漁場として知られ、江戸時代になると遠く紀州の漁師がイワシ漁で島を訪れるほどで、激しい魚場争いが起こったこともあります。

その後も漁業の島としての歴史を歩み、イワシ漁が最も盛んになる昭和の初期頃は、夏の漁期に二神島から数百人の移住者が渡ってきたこともあるといいます。

賑やかだった島に翳りが見え始めるのは昭和30年代に入ってからです。漁の不振というより都会の労働需要の高まりと便利な生活を求めての離島でした。

昭和30年の人口は75人。同35年は21人。そして同40年には残っていた6人全てが離島し、由利島は無人の島となっています。

無人島になってからも漁や農耕で訪れる人がいたことから緊急連絡用として海辺の公衆電話ボックスが残されました。

無人島の「命の電話」として話題になったこともありますが、携帯電話の普及等で利用者が減ったことから平成5年に電話機が撤去されています。今でも電話ボックスは残されていますが、表面の板は剥がれ、倒れそうに傾いた姿は見放された時間の長さを物語っています。

現在は生活の糧として島を利用する人は居なくなりましたが、釣りやキャンプ、企業の研修の場として利用された。

テレビの人気番組『進ぬ!電波少年』(平成10年1月~14年9月放送、日本TV)の企画物のロケ地になり話題を呼んだこともあります。
また、同じく日テレの人気番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の新企画(2012年9月16日スタート)の舞台は由利島ではないかとの憶測が飛び交い再び注目を浴びています。

「困窮島」とは、本島で貧しくなった者が属島に開拓に行き財産を築くとまた戻ってくる貧民救済という風習・制度に対し民俗学者達が名付けた総称である。

「困窮島」という神話‥‥愛媛県二神島/由利島

愛媛県温泉郡二神島(現・松山市二神)は瀬戸内海の中にある小さな島だが、この島の人々は昔からよくたすけあって生きてきた。

それでも貧乏して落後するものを島民の力で支えきる力はなかった。この島にはさらに由利島という属島がある。

二神島で食うに困るようになるとそこへやって土地をひらかせ、自力で立ち直らせたのである。年寄りや小学校へ行く子どもは親島へ残し、働き盛りの者が島へわたって納屋同様の家で生活する。

そこには店も何もないから金をつかうところもない。また村寄合いや付き合いの酒盛りもなく、むら仕事で出ていかねばならぬこともない。

ただ自分のために働くだけである。

島は土質がよいので作物はよくできる。まじめに働き病気さえしなければ、五年もいればかなりの金もたまるので、あとから来るものに土地をやすくゆずって親島へかえる。

まったく禁欲勤倹によって立ち直っていくのであるが、こうした在島者がいつも二〇戸近くあるということは親島の生活に落後するものが、いつもそれほどはあるということになる

こうした救貧の島を古くは困窮島といって、もとは内海にはいくつも見られたが、いつかそこに人が定住して困窮島ではなくなった。

由利島がいつまでも困窮島の姿をとどめているのは親島から比較的はなれており、また水の乏しいことが大きい原因であった。

それでも、ミカンなど植えるものもあり、それが成長すれば手ばなすのがおしくて定住するものもできるのではないかと思っていたが、最近動力船の発達から、親島にかえっても由利島の土地は手ばなさないで、通いづくりするものもあるようになった。

いずれはみなそうなっていくのではないかと思われるが、現状はまだ古い姿を多分に残している。

そして一方、貧乏なものも、もう新しく由利島にわたろうとする気構えはきえて、逆にはなやかな都会へ働き口を見つけて島を去るようになってきたのである。

こうして古くからのしきたりがきえていく。さて都会生活によって、村の落後者たちの貧乏が解消するものならば、これほどありがたいことはないのだが、必ずしもそうなっていない。

新しい社会が、われわれの生活をゆたかにしてくれるかどうか危惧の念のあるところに、古い民俗がのこっている。

貧しい人を救う島民の知恵としての「困窮島」

こんな風習が瀬戸内海に存在したというのだ。それは本当なのか。

宮本常一の話を簡潔にまとめると、次の 3 点に整理できる。

・愛媛県松山市二神島には由利島という属島があること。
・貧しくなると子供を残して由利島に移住するならわしがあること。
・作物がよく育ち、貧しい人が自力で更生できることから、「困窮島」と呼ばれていること。

離島の文化は、周囲が海に囲まれているという点もあって本土の文化と異なることも多くある。

一つの島に定住するだけでなく、いくつもの島と連携しながら人々は生きていたのか。もし「困窮島」という救済システムが離島間で存在していたとしたら、世の中で生きていくための人々の知恵として現在の社会問題解決に役立てることができるかもしれない。

https://matome.naver.jp/odai/2154398155179901101
2018年12月05日