日本と唐新羅連合軍の戦争「白村江の戦い」とは

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白村江の戦い

天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」とも読まれる。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[4]。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す[4]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。
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朝鮮半島と中国大陸の情勢

6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。
一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。
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白村江の戦いが記録された「日本書記」

新羅

古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした[1]。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。
新羅 – Wikipedia

百済

百済(くだら/ひゃくさい[1]、旧字体:百濟、4世紀前半 – 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。
百済 – Wikipedia

唐による新羅冊封

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[6]。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。
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善徳女王

善徳女王(ぜんとくじょおう、? – 647年2月17日(旧暦1月8日))は、新羅の第27代の王(在位:632年 – 647年)。新羅初の女王。

姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は水月葛文王朴欽飯。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B

唐(とう、拼音: Táng、618年 – 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。
唐 – Wikipedia

百済の情勢

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[7]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

倭国の情勢

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

百済滅亡

660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[11][12]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[12]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった.
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[15]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。
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倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
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鬼室福信

鬼室 福信(きしつ ふくしん、生年不詳 – 663年)は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の甥。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。鬼室氏の祖となる。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。扶余福信。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E7%A6%8F%E4%BF%A1

斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、594年(推古天皇2年) – 661年8月24日(斉明天皇7年7月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

唐・新羅連合軍

水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。

陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

倭国軍

第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。
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海上戦

倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。

この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)。
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陸上戦

同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。

白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
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阿曇比羅夫

阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、飛鳥時代の人物。名は比良夫とも書く。氏は阿曇氏(安曇氏)だが阿曇山背(安曇山背)と表記されるもの[1]もある。姓は連。冠位は大錦中。
(663年)8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命[3]として祀られる。同神社の御船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは阿曇比羅夫の命日であるとされる。
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廬原臣

「廬原氏」は駿河国の廬原国造の系統の一族で、『新撰姓氏録』右京皇別に「(吉備氏の分家である)笠朝臣同祖。(孝霊天皇の皇子である)稚武彦命之後也」とあって、その孫の吉備武彦が景行天皇の命で東方に派遣され、廬原国を与えられた、とある。駿河国庵原郡、現在の静岡市清水区には三池平古墳、その西の葵区には谷津山古墳などの前方後円墳があり、廬原氏の有力な首長の墓と考えられている。
廬原臣 – Wikipedia

https://matome.naver.jp/odai/2154347178506636701
2018年12月20日