生い立ち
1915年、パリ20区のベルヴィルに生まれる。
母親は歌手、父親は大道芸人。経済的に困窮した両親により、フランス北部ノルマンディーで父方の祖母が営んでいた売春宿に預けられ、そこで幼少期を過ごす。
3歳から7歳までは目が見えなかったが、祖母の元で働く売春婦がリジューのテレーズのもとへ巡礼に行ったことで視力が回復したとされる
大道芸人の父親と共に路上で歌う生活をしていたが、父と決別して自らの道を歩むようになる
16歳で女児マルセルを出産。だがマルセルは髄膜炎のため2歳でこの世を去る
才能を見出される
1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレー(Louis Leplée)によって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルプレーは彼女が極端な神経質だったにもかかわらず、店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルプレーは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの年に録音された。
エディット・ピアフ – Wikipedia
ルプレーが殺害されているのが発見され、ピアフも犯人の一人と疑われて告発されるが、後に無罪とされた。
人気と名声
「バラ色の人生」(La Vie en Rose)が大ヒット、ピアフの人気は最高潮に達する。
ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンス運動への貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。
エディット・ピアフ – Wikipedia
彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出された歌手は多い。
エディット・ピアフ – Wikipedia
マルセル・セルダンとの大恋愛
フランス領アルジェリア出身のプロボクサー。パリの酒場で歌っていたエディット・ピアフと知り合う。
「どうして悲しい歌ばかり歌うの?」と聞いたセルダンに
「どうして人を殴るの?」
と応戦したピアフ。すぐに恋に落ち、フランスのメディアを騒がせる大恋愛に発展した。
1949年10月28日、ジェイク・ラモッタとの試合に臨むため、パリからニューヨーク行きのエールフランス機に搭乗。
この飛行機が太平洋上のアゾレス諸島付近に墜落、帰らぬ人となった。
ピアフはセルダンのために『愛の讃歌』(Hymne à l’amour)を書いた。この歌はセルダンの死を哀しんで書かれた物と言われてきたが、セルダンの生前に書かれた物だと判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つ為に書いた物だと考えられている。『ばら色の人生」』(La Vie en rose)と並び彼女の代表曲であり、多くの歌手がカバーをしている。
マルセル・セルダン – Wikipedia
そしてやがて時が訪れて 死があたしから
あんたを引き裂いたとしても それも平気よ
だってあたしも必ず死ぬんですもの
そして死んだ後でも二人は手に手を取って
あのどこまでもどこまでも広がる 真っ青な空の
青の中に座って永遠の愛を誓い合うのよ
なんの問題もない あの広々とした空の中で
そして神様もそういうあたし達を
永遠に祝福して下さるでしょう。
美輪明宏 愛の讃歌 歌詞
訳詞 美輪明宏
1951年、ピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に陥った
最後の恋人テオ・サラポ
ギリシャ出身の元美容師。ピアフの熱烈なファンで、療養中のピアフの元を訪れ交際がスタートする。
本名テオファニス・ランボウカス。「サラポ」はギリシャ語の「愛してる」をフランス語風の読み方にした言葉で、ピアフのつけた芸名。
才能を見込んだピアフは、徹底したボイストレーニングや歌唱指導を施し、テオ・サラポを一人前の歌手へと成長させる。
À quoi ça sert l’amourなど、ピアフとのデュエットも発表した。
ピアフの死後は、700万フランあったと言われるピアフの借金を肩代わりし、返済に奔走した。
ピアフの借金は無事返済したが、1970年、34歳の時、自動車事故で急逝。
死
1963年10月10日、南仏グラース近郊で息を引き取る。
病とモルヒネに蝕まれ、40代にして老婆のような姿になっていた。
ピアフの死の翌日、訃報を聞いたジャン・コクトーは、心臓発作を起こしそのまま死去した。