函館・五稜郭って何のための場所?

19973
函館にある「五稜郭」はどんな役割でできた場所なんだろう?これがわかれば観光ももっと面白くなる!

現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった
五稜郭の歴史 | 五稜郭タワー – Goryokaku Tower

築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた
五稜郭 – Wikipedia

五稜星の直径は約500m
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

5つの稜堡(りょうほ・突起)に設置する大砲から敵に十字砲火を浴びせる事が可能で、死角がない。

十字砲火=左右から十字に交差するようにはげしく飛びかう砲火。

大砲や小銃による戦闘を前提とするヨーロッパで考案された築城法
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

日本初の西洋式城郭。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

五稜郭できるまで

徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。
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翌安政元年(1854)、(略)「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館を「開港場」とし(以下略)
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松前藩領だった箱館は幕府の直轄とされた。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置した
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奉行所は当初、函館山麓に置かれる。だが、函館山から見下ろされる上、海からの砲撃を受けやすかったことから、内陸に移転し、周囲を城郭で守る方針が決まる。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より


https://matome.naver.jp/odai/2153112427598852901/2153112858901177503
函館山と五稜郭の位置関係

箱館に入港したフランス軍艦コンスタンティーヌ号の副艦長から西洋式築城法を学んだ奉行所の御用取扱・武田斐三郎(あやさぶろう)は、それに独自の工夫を加えて設計図を作成。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎
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ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計
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安政4年(1857)の春から築城工事が始まった。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)
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城郭の中心には箱館奉行所が置かれ、蝦夷地の行政の中心が、函館山麓から移された。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

当初の設計では、5つの陵堡それぞれの間に半月堡と呼ばれる突起を設け、上から見ると”十稜星”の形になるはずだった。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

だが、予算削減や工期短縮のために計画は縮小。五稜郭の築城には足かけ8年の歳月を要したが、五稜星の形の基礎を造る土木工事はわずか1年半で完了している。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より


Tripadvisor 五稜郭タワー

五稜郭ができてから

明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。
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戊辰戦争最後の戦いの舞台となった
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

戊辰戦争=1868,9年に勃発した新政府軍と旧幕府軍の戦い。

箱館戦争では旧幕府脱走軍の本拠地となる。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。
五稜郭の歴史 | 五稜郭タワー – Goryokaku Tower

明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。
五稜郭の歴史 | 五稜郭タワー – Goryokaku Tower

五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。
五稜郭の歴史 | 五稜郭タワー – Goryokaku Tower

五稜郭公園へ

函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放
五稜郭の歴史 | 五稜郭タワー – Goryokaku Tower

5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており


Tripadvisor 五稜郭タワー

幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。
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五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。
五稜郭 – Wikipedia

新政府の手に渡り、完成から7年で解体された奉行所は、平成22年(2010)に可能な限り当時の工法で一部が復元された。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より


Tripadvisor 箱館奉行所

昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ
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古写真や絵図面、発掘調査の成果を基に往時の建物を4年がかりで忠実に再現
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

欅(けやき)の梁などの現在の建築物では見られない贅沢な資材も使われている。
フリーペーパー『旅人類 vol.3ダイジェスト版』より

参考URL

https://matome.naver.jp/odai/2153112427598852901
2018年07月09日