この記事のまとめ
“グランジという文化は音楽が先行してNIRVANAのカート・コバーンによってブームを起こす”
“カート・コバーンはお金がなかった時期に元カノから古着を貰い着ていた”
“その着飾らないファッションに刺激を受けたマーク・ジェイコブスがファッションに取り入れる”
“当時マークがデザイナーを務めていたペリーエリスのコレクションでグランジファッションを発信”
“そのランウェイで歩いたケイト・モスが注目されグランジファッションの人気に火がつく”
“当時ケイトモスと交際していた人気スターのジョニーデップが一枚噛むことで爆発的人気に”
今回はグランジの音楽とファッションの歴史をご紹介
グランジと聞くとNIRVANAやSoundgardenの音楽を想起したり、ネルシャツにライトブルーのダメージジーンズとジャックパーセルみたいなファッションをイメージする方も多いのではないでしょうか?
グランジ (Grunge) とは、ロック音楽のジャンルのひとつ。「汚れた」、「薄汚い」という意味の形容詞 “grungy” が名詞化した “grunge” が語源。
グランジ – Wikipedia
1990年代にアメリカ・シアトルを中心に興った潮流であり、オルタナティヴ・ロックの一つである。
グランジ – Wikipedia
グランジ系のバンドがアルバム・チャートで成功を収めたことで、80年代までヘヴィメタルが多かった当時のアメリカのロック・シーンを革新し、グランジ・ブームを起こした。だがカート・コバーンは後に自殺してしまい、グランジ・ブームは終息した。
グランジ – Wikipedia
当時音楽チャートはグランジやヒップホップが主流だった為、ファッションもビッグサイズのジーンズやadidasジャージなどのヒップホップ系と古着コーデのグランジファッションが人気だった
まずは”グランジ”というジャンルのルーツを振り返ります
米国の80年代後期の時代背景
アンディ・ウォーホルがポップアートを定義してから30年が経ち、大量消費とダンス、ファッション、パーティーに夢中となり、モータウンミュージックが盛んだった「栄光の80年代」は、イラク戦争、ソ連の崩壊など、激変する世界情勢の渦にもまれながら、急激に風化して行きます。
時代背景と共に音楽チャートにも変化が
80年代初めのモータウンなどのブラックミュージック黄金期から、バブルの終焉が見えはじめると、否が応でも社会情勢に目を向けざるを得なくなった大衆は、ガンズやメタリカなどの切羽詰まったような、まっ裸で社会に体当たりするような強固な姿勢は、社会意識が高くなり無邪気なパーティーにも飽きた若者たちの絶大な支持を得た。
そしてそんな「何かが起こりそうな」得体の知れない危機感が漂う時代の雰囲気も見事に表していた。時代は変わろうとしていたし、大衆も又「新しい何か」を望んでいた。
80年代の終わりにシアトルでニューウエーブが生まれる
88年、ロサンゼルスを中心とする西海岸から遠く離れた西北部の中心都市シアトルで、「Soundgarden」というヘヴィー・メタルとパンクとR&Bを混ぜたようなジャンル不明のロックをやっていたバンドがインディー・レーベルからデビューする。
彼等は89年にはメジャー・デビューし、どのジャンルとも違ったカオス的音楽性をロックの新しいジャンルとして打ち出し、一部のアングラ音楽ファンに圧倒的に支持された。(後のグランジに多大な影響を与える)
同時に、サウンド・ガーデンを発掘したインディレーベル”サブ・ポップ”も、国内外の音楽業界から注目され始める。80年代末期、「ロックの聖地」西海岸から遠く離れたシアトルで、ニューウェーブの波が動き始める。
90年代初頭にシアトルから全米、そして世界へ”グランジ”が発信される
遂に90年になるとSoundgardenから影響を受けたバンドが登場し、グランジというジャンルが確立される。
<90・91年デビューのシアトル活動の人気バンド>
・Sonic Youth「グー」でメジャー・デビュー
・NIRVANA「ネヴァー・マインド」でメジャー・デビュー
・Alice in Chains「フェイス・リフト」でデビュー
・Pearl Jam「TEN」でデビュー
これらはいずれもシアトルを活動拠点にしているバンド達だが、彼等に共通しているのが、破れたジーンズに汚いTシャツという、ひたすら重苦しく、荒々しく、絶望感が漂っている詞とエッジの効いた衝撃的なサウンド。
しかしそんな厭世的(えんせいてき・孤独で世間と馴染めないこと)で、当時の人気バンドGuns
N’ RosesやBon Joviなどの<ロック・スター>とは、かけ離れた様相の彼等が商業的にも成功し始めた事により、無視できない一つのムーブ・メントとして、彼等は「オルタナティブ」だとか「グランジ」と呼ばれ始める。
特にニルヴァーナの「ネヴァー・マインド」は、空前の大ヒットとなり、「グランジ」というジャンルを完全に確立した。
特にアクセルローズは喧嘩早くジョンボンジョヴィやカートコバーン等を敵対するコメントを多く残している(本当はカートコバーンの才能を妬んでいたとの記事も)
NIRVANA メジャーデビューアルバム「NEVERMIND」から音楽と共に言動にも注目が集まる
1991年に発表された2ndアルバム『NEVERMIND』でメジャーデビュー。この作品は驚異的な大ヒットとなり、全世界にグランジ・ムーヴメントを捲き起こした。
全世界でのトータルセールスは、約7500万枚
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第30位
NIRVANAは、その様相と態度と音楽で、完全に80年代的な無邪気さ、華やかさを「旧価値」として否定した。そして80年代が行ったボンジョヴィやガンズなどの<スター生産システム>を金儲け主義とし、その中に取り込まれることを恐れ、それを頑なに拒んだ音楽だった。
NIRVANAのリーダー、カート・コバーンは、それを一番強く体現し、80年代的なものに限らず、あらゆる権威・体制・スター的なものに毒を吐いた。その攻撃は、レコード会社やMTVだけに留まらず、既存のロック・バンドや音楽ジャンルにも及んだ。
彼らのこのほとんど無差別テロ的な言動は、彼らの音楽同様に大きな共感と反発を呼び、「ニルヴァーナ・ショック」と言われる、社会現象にまでなった
<ニルヴァーナ・ショックの一例>
・ガンズへ「あいつ等にあるのはファッションだけ」と発言
・メタリカへ「ニルヴァーナのTシャツを着せて宣伝に利用してやるんだ」と発言
・マドンナを「ブタ」と呼ぶ
・ヴァン・ヘイレンを軽薄な「クソ・ヘヴィー・メタル」と呼称
・「ピート・タウンゼント(ザ・フーのギタリスト)みたいになる位だったら死んだほうがましだ」と発言
・レコード会社の書類には基本的に故意に自分の名前のスペルを変えてサイン
・ステージ場からオーディエンスに殴る蹴るの暴行
など
衝撃的なデビュー・アルバムと、エキセントリックな言動で大衆的成功を収めたカート・コバーン。しかし、それは自分が最も忌み嫌う<スター><偶像>への階段だった。
92年には女優で歌手でもあるコートニー・ラブと結婚し、「90年代のシド・アンド・ナンシー」と持て囃される。こういう騒がれる事が分かり切っている、確信的な行動をしておきながら、彼はプライバシーの欠如や、マスコミが報道する無数のゴシップに怒り狂った。
その怒りと苦悩は93年発表のセカンド・アルバム「イン・ユーテロ」に詰め込まれた。これが前作よりも過激で、内向的で、絶望的で、本人曰く「売れないように作った」という程の、怒りに満ち満ちた問題作だったにも関わらず、またもや全米ナンバー・ワンを獲得。ますますスター街道一直線だ。
商業的に売れたくないのに、スターにはなりたくないのに、世間は騒がしたい、注目されたい・・・。自己矛盾とジレンマに陥った彼はドラッグに溺れ出し、その行動も痛々しいほど不可解になっていった。
当時シアトルではシングル販売からラジオで毎日のように流れ、全米へ、そして世界にブームが巻き起こって行くことになる
人気絶頂のNIRVANAメジャーアルバム”NEVERMIND”から4年でカートの死とともに燃え尽きる
94年の3月、ドラッグの過剰摂取で入院するが、脱走。同年4月、自宅で猟銃自殺を遂げる。
(この自殺はコートニーによる暗殺説などショッキングなニュースで死後以降何年も経っても話題が尽きず、この不可解な最後の日の出来事をガスヴァンサント監督が「ラストデイズ」のタイトルで映画化)
カートの人気絶頂期の苦悩は下記のように記されていた
「自分は絶大な人気の間中、ずっと長いこと、音楽を聴くことにも、曲を作ることにも、何かを書くことにも、喜びを感じなくなってしまった。例えば、ステージ裏に戻って、ライトがすべて消えた後、熱狂的な聴衆の絶叫も、聴衆の愛と崇拝を喜び楽しんでいたフレディ・マーキュリーが感じたように、喜び楽しむことはできなかった。フレディ・マーキュリーみたいにできるのは本当に立派だし羨ましいと思う。
自分だってみんなに嘘をつくのは嫌だ。ただの一人も騙したくない。自分が考える最も重い罪とは、100%楽しいのだと嘘をつき、ふりをして、人を騙すこと。そう、時々ステージに出て行く前にタイムカードでも押しているかのような気分にかられていたんだ。」
(ウェブサイト『カート・コバーンの遺書を詠む』より引用)
グランジファッションのルーツ(起源はカートコバーンの私服)
1993年当時のアメリカの普段着から発生したもので、カート・コバーンらのしていたファッションが手本とされ、代表的なものは着古して擦り切れたネルシャツ(棉でできたフランネル地のシャツ)やカーディガン、穴の開いたジーンズやスニーカーである
サンローランやマークジェイコブスなどのハイブランドもモチーフにしたグランジファッション
実はグランジファッションは、カートコバーンがお金のない時期に当時付き合っていた彼女が着なくなった古着をカートに着させたのが起源だった

https://matome.naver.jp/odai/2152039998265693601/2152041340971404003
カート「別に深い意味はないよ。アメリカにいる時もよくこうしてるんだ。いつもパジャマだと居心地がいいし、いつでも寝れるだろ。我ながら素晴らしい発見だと思うね」

https://matome.naver.jp/odai/2152039998265693601/2152041340971403703
カートのパジャマに影響されたスーパーモデルや一流デザイナー達
記者から「なぜいつもパジャマを着ているの?」と聞かれるほど、ファッションに興味を持たない(逆にそれがカッコいいのだが)カート。彼のトレードマークである赤黒のボーダーニットは日本ツアーでオーディエンスが着ていた服を気に入ってもらったものであったりと無作為にアイテムを選ぶ。だが、彼のそのスタイルがカッコよく決まっているのは、着こなしであり、そのスタイルは多くのファッションデザイナーに影響を与えた
セリーヌのクリエティブ・ディレクターであるエディスリマン(「ディオール・オム」や「イヴ・サン=ローラン」のクリエイティブディレクターでの活躍が有名)もカートから影響を受けた一人
90年代に「グランジの教祖」と呼ばれたマークジェイコブス
マルジェラがハイファッションでいち早くグランジを取り込んだ
グランジファッションの火付け役となったケイト・モス
実はジョニー・デップが一枚噛んでいた
<ケイト・モスが火付け役となったカラクリ>
NIRVANAがデビューして間も無く、当時ペリーエリスのデザイナーをしていたマークジェイコブスがグランジファッションの要素を取り入れたコレクションを発表、そのコレクション内でチェックのスカートにコンバットブーツという姿で現れたケイトがグランジファッションの申し子的扱いを受けさらに人気を獲得しました。それに加えて、同じ時期にグランジのような古着系のファッションを好んで着ていたジョニーデップとケイトは交際していた為、グランジファッションの人気が爆発しました
マルコムマクラーレン「とにかく過激なことをやらせろ。これでメディアが飛びつく。そうすれば只で莫大な宣伝効果が期待出来るとい訳だ。」
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