第二次世界大戦中におきたクーデター(未遂含む)のまとめ

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1932年5月15日 五・一五事件

五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
五・一五事件 – Wikipedia

若槻礼次郎内閣の退陣を受けて就任した犬養毅首相は満州国承認に慎重な態度をとっていたため、1932年 (昭和7年)5月15日、海軍の青年将校により首相官邸で殺された。また、警視庁や日本銀行などもおそわれた。これを五・一五事件という。これにより原敬内閣をはじめとして約8年続いた政党による内閣が終わり、以後再び軍人・官僚内閣がつくられるようになった。
歴史事象 五・一五事件

あの有名な「話せばわかる」もこの事件で生まれた

海軍青年将校たちが侵入した時刻、犬養首相は食堂におりそこへ実行犯の1人の三上が到着するとすぐさま拳銃の引き金を引きます。しかし、玉が入っておらず銃殺に失敗すると犬養首相は「話せばわかる」と三上を応接間に連れていきこれからの日本のあり方などを話して聞かせようとしました。
515事件の概要・裁判の判決・きっかけと11本の指-uranaru

そこへ裏から侵入した黒岩隊が到着し、黒岩勇は迷わず犬養首相の腹部を撃ち抜きます。続いて三上が犬養首相の頭部を銃撃し直ちに撤退しました。
515事件の概要・裁判の判決・きっかけと11本の指-uranaru

しかし、犯人を死刑にしなかったことが2.26事件につながっていく

1932年の五・一五事件で、首相を殺した犯人さえ死刑にしなかったことは、日本政府の最大の失敗であった。そして、犯人たちに多くの同情が集まり、軽い処分しか下されなかったことが、さらに二・二六事件、そしてその後の危機を招く大きな要因となっていく。
五・一五事件の首謀者を死刑にしなかったのは最大の失敗 | 渡部昇一 | 10MTVオピニオン

1936年2月26日 二・二六事件

二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。
二・二六事件 – Wikipedia

この事件では、首相官邸で岡田啓介首相と誤認された義弟の松尾伝蔵(首相秘書・海軍大佐)が射殺されたほか、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実(いずれも首相経験者)、陸軍の教育総監・渡辺錠太郎が殺害され、宮内省の侍従長・鈴木貫太郎(太平洋戦争末期の首相)が重傷を負った。
今日で80年。改めて振り返る二・二六事件とは何だったのか – エキレビ!(1/4)

事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。
4-7 2.26事件 | 史料にみる日本の近代

事件に対する処分は厳しく、反乱将校及び彼らに思想的影響を与えた北一輝・西田税は死刑となり、その後の粛軍人事で皇道派などの将官多数が予備役に編入され、統制派が実権を握った。また、クーデターの恐怖が政界に影を落とし、軍部の発言力がさらに増すこととなった。
4-7 2.26事件 | 史料にみる日本の近代

この事件で軍部の発言力が更に高まり、太平洋戦争につながっていく。

1945年8月14日 宮城事件

宮城事件(きゅうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(1948年7月1日以前の皇居の呼称)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
宮城事件 – Wikipedia

クーデターの目的は宮城(皇居)を占拠し、15日正午に終戦を国民に告げる昭和天皇の肉声が録音された玉音レコードを奪い、天皇に聖断を翻してもらい、戦争の継続を図ること。
いま明かされる日本史上最も重要な1日「宮城事件」とは? 映画『日本のいちばん長い日』 | ガジェット通信 GetNews

未遂に終わったクーデター事件だが、もし反乱が成功していたら、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送はおろか、クーデター首謀者たちが謳う本土決戦、一億玉砕論による戦争継続。「歴史に“if”はない」と言われるが、日本国民、日本という国はどうなっていたのでしょうか。
いま明かされる日本史上最も重要な1日「宮城事件」とは? 映画『日本のいちばん長い日』 | ガジェット通信 GetNews

この事件が未遂で終わっていたからこそ、日本の高度成長期はあったわけです。

1945年8月15日 厚木航空隊事件

厚木航空隊事件(あつぎこうくうたいじけん)は、1945年8月15日に、厚木海軍飛行場で第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が起こした騒乱事件。大東亜戦争(太平洋戦争)での日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦する目的で起こされたが、6日後に鎮圧された。
厚木航空隊事件 – Wikipedia

小園は連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。翌日から陸海軍、国民などに対して軍用機で各地に檄文を撒き呼びかけて回った。
厚木航空隊事件 – 厚木航空隊事件の概要 – Weblio辞書

海軍大臣米内光政大将、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将、高松大佐宮が説得に当たるが納得しなかった。しかし小園がマラリアにかかり野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)へ運ばれて監視下に置かれ、それまでは毎日戦闘機などを飛ばしていた302空は、8月20日に副長の菅原英雄中佐によって武装解除され、21日に反対者も鎮圧された。
厚木航空隊事件 – 厚木航空隊事件の概要 – Weblio辞書

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2017年12月27日