総統
1933年から1945年にかけて、指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。しかし冒険的な外交政策はドイツを第二次世界大戦に導くこととなった。この戦争の最中にユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を主導した。敗戦を目の前にした1945年4月30日、自ら命を絶った。
アドルフ・ヒトラー – Wikipedia
ホローコストによる犠牲者はプロパガンダや書類の破棄によって正確な数は不明。
赤い皇帝
1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した。
ヨシフ・スターリン – Wikipedia
一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された。
ヨシフ・スターリン – Wikipedia
飢饉により400万人から1,450万人が死亡したと言われている。
英明なる領袖
毛沢東の公式肖像画
毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。
毛沢東 – Wikipedia
この失敗により毛沢東は国家主席を辞任。後に権力奪還を目指し文化大革命を引き起こす。
文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。
毛沢東 – Wikipedia
紅色女皇
1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落とし入れ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。
江青 – Wikipedia
嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、王光美を逮捕・投獄させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。
江青 – Wikipedia
一の同志
1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。民主カンプチアの国家体制は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、その実現のために都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させた。
ポル・ポト – Wikipedia
しかしその際に方法論として資本主義に関する文明の利器を全て一掃したため、国民は農作業や灌漑施設の建設などの重労働を全て手作業で行うなどの過酷な労働環境を強いられる。更に生産された米の多くは外国からの武器調達のために輸出されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。
ポル・ポト – Wikipedia
ポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑って猜疑心を強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。
ポル・ポト – Wikipedia
当事者によるポル・ポト政権下での死傷者数の推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人。
バルカンの虐殺者
欧州諸国の国家元首ではベラルーシのルカシェンコ大統領と並び、いわゆる戦争犯罪に手を染めた人物として有名であり、2003年の新ユーゴスラビア解体後、欧米からはヨーロッパに最後まで残った全体主義政権の頭領にして独裁者として知られ、1992年のユーゴスラビア社会主義連邦崩壊後は一貫してNATO諸国と対立し、身柄を一連のユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として拘束され、戦犯として国際司法裁判所のあるハーグで起訴されていた2006年3月11日に、「人道に対する罪」(欧州ではナチスドイツ関係者を裁いたニュルンベルク裁判以来の適用となるジェノサイド罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、冷戦時代を締めくくる戦犯としてのミロシェビッチ被告は、収監先のオランダ王国ハーグにて獄死した。満65歳没。
スロボダン・ミロシェヴィッチ – Wikipedia
トランク大佐
大統領在任中は反共親米政権だったが、自身がドイツ系ということもあり、ヨーゼフ・メンゲレやエドゥアルト・ロシュマンなど、第二次世界大戦時のドイツの戦犯容疑者の亡命潜伏を黙認した。また、宗教弾圧や汚職、インディオの虐殺などの人権侵害で国際的な批判を浴びた。
アルフレド・ストロエスネル – Wikipedia
共産主義の配布者
1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施された。一連の強引な飢餓輸出により、ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていった。
ニコラエ・チャウシェスク – Wikipedia
1980年代のルーマニア国民の生活水準は着実に下がっていったにも関わらず、国民には「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明された。対外債務は1989年夏までに完済したが、大規模な輸出政策は同年12月に革命が勃発するまで続いた。
ニコラエ・チャウシェスク – Wikipedia
20世紀最悪の女独裁者
子ども好きな性格の持ち主として知られ、学校教育や孤児院の増設などに力を入れたが、政権後期になるとその性格が歪んだ形で表れるようになる。ルーマニア政府が国家政策として避妊と堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要したことにより、後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生んだことへの責任があるといわれている。
エレナ・チャウシェスク – Wikipedia
23日に、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテにおいて救国戦線により逮捕される。25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、軍事裁判で銃殺刑の判決が下り、即日処刑された。
エレナ・チャウシェスク – Wikipedia
偉大なる首領様
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦のおいて勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満州という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった。
金日成 – Wikipedia
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。
金日成 – Wikipedia
その後現在に至るまで休戦中。
カミソリ東條
軍人および政治家として関東軍参謀長(第10代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第50-52代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。
東條英機 – Wikipedia
統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。
東條英機 – Wikipedia
東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」であり、政治的に敵対した者を陰謀で死に追いやったという批判が多い。
東條英機 – Wikipedia
自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等など、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)。
東條英機 – Wikipedia
大トゥラン革命軍司令官
エンヴェルはかねて中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎テュルク主義の理想を抱いていた。その第一歩として東部アナトリアに進出したロシア軍に対して大攻勢に出てこれを駆逐し、カフカス地方を確保するというサルカムシュ作戦計画された。
エンヴェル・パシャ – Wikipedia
そして、エンヴェル自身が東部戦線に出て陣頭指揮をとるが、補給や装備の杜撰さに加え、ロシア軍の反撃によって莫大な損害をこうむった。さらにロシア軍への協力を罰するためとしてアルメニア人のシリアへの強制移住が行われ、死の行進と混乱のなかで一説では200万人にのぼるとされるアルメニア人がトルコ軍によって虐殺されたといわれる。(アルメニア人虐殺)
エンヴェル・パシャ – Wikipedia
パパ・ドク
個人崇拝や、トントン・マクートと呼ばれた地方を基盤とする民兵組織や、ブードゥー教を利用した圧政を敷いたことにより、およそ3万人のハイチ人が死亡したといわれ、それを逃れて亡命した知識人たちがハイチには戻ることはなかった。
フランソワ・デュヴァリエ – Wikipedia
黒いヒトラー
やがて独裁化が進むとともにオボテ支持派を弾圧し、アジア人(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドはウガンダと国交断絶した)を追放、国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された。
イディ・アミン – Wikipedia
ヨーロッパ最悪の宗主
初代ベルギー国王レオポルド1世の王太子として生まれ、1865年に父王の崩御に伴って即位、1909年の崩御まで在位した。レオポルド2世の治世の間、1884年までは自由党、それ以降はカトリック党が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げていたが、労働者階級の社会不安も増していき、治世の後半にはベルギー労働党が台頭したことで様々な社会改革が行われている。
コンゴにおける治世の初期は鉄道を敷設したり、アラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなどその近代化に努めるものであったが、経営が赤字になってくると利益の確保を急ぎ、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図るようになった。イギリス人などから先住民に対する残虐行為を手厳しく批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家に委譲する事を余儀なくされた(王の私領からベルギー植民地への転換)。
レオポルド2世 (ベルギー王) – Wikipedia
最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人にまで減少したといわれる。こうした残虐行為を行っていたのはレオポルド2世の私軍である公安軍であった。この部隊は士官は白人だが、兵士はナイジェリアや西アフリカ諸国の黒人を中心に構成されていた。
レオポルド2世 (ベルギー王) – Wikipedia
串刺し公
トランシルヴァニアやモルダヴィアとの複雑な関係であり、ワラキア領内での粛清も多く、オスマン帝国軍のみならず自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる。串刺し刑はこの時代のキリスト教国イスラム教国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。しかし、ヴラドの異常性は反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。通常貴族の処刑は斬首によって行われるが、あえて串刺しという最も卑しい刑罰を課すことで、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。
ヴラド・ツェペシュ – Wikipedia
ルソーの血塗られた手
左派の論客として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日に公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活動した。当初は民衆と連帯した革命を構想していたが、9月25日に国民公会から独裁権を認められてからは委員会独裁を主導、テロリズム(恐怖政治)に転じて粛清を断行したため、独裁者というイメージが定着している。
マクシミリアン・ロベスピエール – Wikipedia
干拓地の王者
カトリックのアイルランドやスコットランドは1649年から1651年にかけて反議会派の拠点であった。クロムウェルは総司令官兼総督に任ぜられて侵攻を始め、1649年ダブリンに上陸、続いてドラハダ、ウェックスフォードを攻め、各地で住民の虐殺を行う(クロムウェルのアイルランド侵略)。アイルランドはクロムウェルの征服により、以後はイングランドの植民地的性格が強い土地となる。
オリバー・クロムウェル – Wikipedia
この悪行に対するクロムウェル (彼は最初の1年は直接指揮をとっていた) の責任の範囲は、今日においても激しい議論の対象である。近年になって何人かの歴史家は、クロムウェルによって行われたとされる行為の多くは、当時の戦争のルールでは許容されていたものであったか、もしくは扇動者によって誇張もしくはゆがめられたものであると主張した。
クロムウェルのアイルランド侵略 – Wikipedia
が、これらの主張は他の歴史家からは疑問を呈されている。議会派によるこれら行為の結果、アイルランド人口の15から25%程度が殺害もしくは亡命したと一般的には見積もられているが、50%以上もの人口減少を起こしたと主張する少数派もいる。
クロムウェルのアイルランド侵略 – Wikipedia
イヴァン雷帝
1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合された。 1570年この時期のツァーリであるイヴァン4世(雷帝)により町全体における粛清が行われる(ノヴゴロド虐殺)。
ノヴゴロド – Wikipedia
原因はイヴァン3世によって力尽くでロシア領に組み入れられてしまった結果、重税をかけられ、思い通りの交易もままならぬ状態に住民の不満が、最高潮に達していた事、またノヴゴロドはハンザ同盟の中枢であったことから、住民の持つプライドが高く、 これらの要素がイヴァン4世にノヴゴロドのポーランドへの寝返りを確信させた事によるとされる。
ノヴゴロド – Wikipedia
当時のノブゴロドの人口4分の3にあたる約6万人もの住人が拷問の末虐殺されたとされ、死体は氷の浮いたヴォルホフ川に葬られ、その後何日も運ばれて流される何万とも知れぬ遺体のために溢れかえり、ラドガ湖の底はおびただしい遺骸で厚い層を成したと記録に残っている。
ノヴゴロド – Wikipedia
跛者のティムール
中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。
ティムール – Wikipedia
建築王
イスラエルレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破って、エドム人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる。
ヘロデ大王 – Wikipedia
ハゲの女たらし
カエサル自身が総督として赴任したヒスパニアで現地の部族より金を無心したり、ガリアで現地部族が奉納している神殿や聖域にあった宝飾物を強奪したり、金目当てで街を破壊して回ったりということもあった。また、ローマでもカピトリヌスの神殿に奉納していた金塊を盗み、同重量の金メッキをした銅を戻したり、内戦中は護民官の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したとしたと伝わっている。
ガイウス・ユリウス・カエサル – Wikipedia
神の災い
スラブ系・ゲルマン系の諸民族を征服した際の容赦の無い略奪と殺戮(一勢力が跡形も無く根絶される事すらあり、フン族を恐れる諸民族の動きが民族大移動を引き起こしたとする説まである)から、西欧や東欧ではヴァンダル族のガイセリックと並んで破壊者の象徴として語られる事も多い。
アッティラ – Wikipedia
文化の破壊者
ガイセリックは同時代の西ゴート族の王アラリック1世やフン族のアッティラ大王と同様に稀代の軍略家で、北アフリカにヴァンダル王国を築き、5世紀にローマ帝国の主に西部(西ローマ帝国)を攻めて、東西ローマ帝国を存続困難なほどに大いに悩ませた。
ガイセリック – Wikipedia
ガイセリック率いるヴァンダル王国の登場によって地中海を支配した超大国ローマ帝国の時代は終わりを告げる。そしてローマ滅亡に向かう象徴的事件として455年6月のローマ占領と略奪とがある。ガイセリックの50年近くに渡る治世中、ヴァンダル族は比較的小さなゲルマン一部族から地中海の主要勢力を誇るまでに興隆していったが、ガイセリック死後は衰退と崩壊への道を辿っていった。
ガイセリック – Wikipedia