エジソンを越える3,500件以上の発明を行ったドクター中松
2005年(平成17年)、「35年間に渡り自分の食事を毎回撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析し続けたこと」に対して、ノーベル賞のパロディであるイグノーベル賞(栄養学賞)が贈られた。
ドクター中松は42歳のときから食べた食事の記録、血圧や体重などの情報を集めるようになり、撮影した食事の写真は1万枚以上に上る。ドクター中松はこの受賞は、自ら提唱した健康理論であるリボディ理論が認められたためであるとしている。
だけど都知事選に出馬したり、フライングシューズで空を飛んだり怪しくもある・・・

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そんなドクター中松の実態が明らかになる連載が自身の会報で始まっていた

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スリル・サスペンスとロマン サー中松博士の発明伝説 スペシャル ロング インタビュー①
1928年6月26日、サー中松博士誕生。その日から始まった激動の90年をスペシャルロングインタビューを通して明らかにしていく。
記念すべき第一回にあたる今回は、中松先生の誕生から、はじめての発明に至るまでの足跡を追う。これまでに3,500件以上の発明を生み出してきた天才の原点が明らかとなる?!
心身知とく なかよし会 第288号 – Docs.com

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– 先生はいつから発明をしているのですか?
サー中松博士:
そうですね。発明ノートは幼稚園のころから書き始めていました。
そして、5歳のときに「自動重心安定装置」を発明しました。これは現在の飛行機にも用いられている技術で、飛行機の重心と揚力中心を自動的に合致させる装置です。
小学生の頃、夏休みの宿題でみんなが作文を提出する中、一人だけ図面付の発明論文を提出して驚かれたのを覚えています。
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– そんなに早い時期から発明活動を始めていたんですね。ところで、はじめて特許を取得したのはいつなのですか?
サー中松博士:
はじめての特許は麻布中学校2年生の時、「醤油ちゅるちゅる」のサイフォン、「無燃料暖房装置」の圧縮式暖房器でした。
それぞれ灯油ポンプとエコキュートの名前で、現在も世界中で使われているものです。
当時は戦争中で燃料がなく、寒い部屋で勉強しながら、自ら明細書を書いて特許庁(当時は特許局)に持っていきました。
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– 中学生で特許庁に明細を持っていくだなんて?! ビックリされませんでしたか?
サー中松博士:
もちろんビックリされました(笑) 当時は大人にとっても、特許という考えは馴染みのないものでしたからね。
ところが、私にとっては馴染みがありました。というのも、中松真郷という親戚が特許庁で長官となり退官後、中松特許事務所という日本で一番の特許事務所をやっていたんです。
それに母方に発明の傾向が流れていたんです。医学博士だった祖父は日本とアメリカに病院を作るだけでは飽き足らず、カラーフィルムを発明したり、車を分解して改造したり、菊の品種改良を行ったりと、とても発明力のある人だったんです。
そういう環境で私は育っていたので、自然と発明のシステムに興味を抱くようになり、いろいろ調べて特許制度を学んでいったのです。
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– お母様もさぞかし驚かれたのではないですか?
サー中松博士:
母は「この子は勉強しなさいと言わなくても、どんどん勉強する。発明しなさいと言わなくても、どんどん発明する。その上、特許を取ってくる」と言って、目を細めていました(笑)
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– すごい感想ですね(笑)世の中の親御さんは、子供がいうことを聞かないことに悩んでいますが、 言われなくてもやる、という先生のアグレシッブな態度は何で培われたのですか?
サー中松博士:
それもやはり家庭環境によるものですが、説明するには歴史を紐解く必要があります。
私の家系は直参旗本にあたります。直参旗本というのは、江戸時代の士農工商という身分制度の中でも、一番上の士にあたります。そして、その士の中でも、下級・中級・上級・大名・旗本と位が上がっていくのですが、さらにその上に位置するのが直参旗本なのです。
中松家の先祖は直参旗本として幕府の重要な責務を担っていて、例えば幕府の代表として大石内蔵助と対峙して、赤穂城を受け取りに行ったのです。
明治維新で、天璋院篤姫と共に千駄ヶ谷に移り住みました。そして、その千駄ヶ谷の地で私は生まれたのです。千駄ヶ谷には当時、日本で一番よい学校だった青山師範付属小学校があり、私はそこに通いました。
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- ご自宅の近くに最高の教育環境があったんですね!
サー中松博士:
ところが問題が発生します。青山師範付属小学校が千駄ヶ谷から碑文谷に引っ越すことになってしまったのです。普通なら近所の学校に転校するところですが、母の選択は違いました。
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- 電車で碑文谷まで通うことになったのですか?
サー中松博士:
それも、まだまだ普通です。なんと、家族全員で碑文谷の学校から300メートルの土地に引っ越すことにしたのです。まさに「孟母三遷」を母は実行しました。
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貴重と思われる写真がふんだんに使用されている。