2月14日はバレンタインデー バレンタインデーに反対するデモも どうバレンタインデーと向き合うか

サブカルの貴公子
バレンタインデー反対のデモが渋谷で行われました。ばかじゃないのかと一笑する前に、ちょっと考えてみませんか?

バレンタインデー はたして・・・・

すごいですね。
もはやハフィントンポストが記事にするくらいですよ。

さて、本日2月14日はバレンタインデー
アニメなどを普段からみている私としては、日常、恋愛、学園系のアニメではかならずといっていいほど、一かいはバレンタインに一話が割かれるほど。
実生活でも、学生の時までは、もらったもらわないで話になるなど、かなり根深く、われわれの日常にイベントとして根付いているのではないでしょうか。

ポストモダン化してきた現代

ところがですね、昨今、週刊アエラが恋愛はコスパが悪い?といった記事を発行したり、これまでの恋愛に対する見方が少しいままでとは変わってきているのですね。

さまざまな分野から分析ができると思いますが、私がいた文学部とその周辺の理論からこれを分析すれば、哲学者の東浩紀がいったように、現代はポストモダン化する時代だということが、大きな理由の一つなのだと思います。
どういうことかといいますと、それまで例えば90年代くらいまではなんとなく、経済にしても右肩上がりで、たくさん勉強して、いい大学にはいって、いい会社にはいって、そしてお嫁さんをもらって、奥さんは専業主婦で、マイカー、マイホームを買って、定年退職をしてその後は悠々自適な老後、というような、大枠がきまっていたというか、そういう基本となるライフスタイルが、なんとなくあったわけですね。

ところが、バブルも崩壊し、低迷する景気、リーマンショックもあり、どうやらもう日本はこれまでのように右肩上がりをしつづけることではない、という認識に代わってきた。

少子高齢化が進み、超超高齢化社会。年金はどうする。右肩上がりなんてとんでもなく、現状維持も不可、どうかんがえても右肩に急降下していっているこの日本において、いままで信じられてきたものに対して疑問符がなけかけられた、ということなのです。

資本主義の格差社会

同一賃金同一労働などがさけばれています。
なかにはベーシックインカムという概念も登場しました。どんどん社会主義的になっているのですね。

そのような流れから、もちろんいい部分はあったとしても、いまでは資本主義の悪い部分が注目され、悪かったではないか、と糾弾されているわけなのですね。

たとえば低賃金労働者が問題となっている現在。年収200万程度の新社会人たちがいっぱいいる。
そういうなかで、天下りの事件がニュースになりましたけれども、月2日の出勤で年収1000万円もらっていたりする人がいるわけですね。
日本は極めて社会主義的であると、アメリかなどから比べたらとても理想的な国だといわれます。しかし、たしかにアメリかよりかはましかもしれませんが、年収200でがんばっている若者から搾取しておいて、今の60前後の管理職は既得権益で年収1千万、というのは、やはり不公平感、不平等感がぬぐえません。

恋愛主義の格差社会

そんななかで批判の矛先は恋愛至上主義にも向きます。

例えば「非モテ」という言葉は2000年代後半あたりから登場しました。
「電波男」という書籍が発売されたりし、これまでの恋愛至上主義的な風潮に対して疑問符がなげつけられたわけです。
なんだかんだいっても、やはりイケメン、高身長、高収入など、資本主義が崩壊しはじめているにもかかわらず、まだその資本主義が見せた幻想を追いかけている女性たち(もちろんそういう幻想をいだいている男性にも)は、やはりごく一部の異性を求めていく。

そうすると、そうではない人間、つまり非モテとの格差が生じるというわけです。

例えばテレビや広告などが、こぞってイケメン、美女のモデルたちを起用しつづける。
そうすると、我々は普段の自分の顔や、自分のまわりにいる人達の顔のことはほおっておいて、テレビや広告で、これが善である、これが美であるという認識を刷り込まれる。
そうすると、そうではない、いわゆるそうした広告などが宣伝するものではない、それらの価値観から疎外される不細工、ブサメンたちは割を食うわけですね。

健全な社会とは

そこで、ようやく安倍政権に反対するためにひさしぶりに、数十年ぶりにデモという形を復活させた日本人は、じゃあこれはおかしいということに対してデモをしてみようということになったわけです。

その結果が今回のバレンタインデー廃止のデモですね。

これ、ふつうの、まあそんなに気にしていない人、彼女がいなくともべつにいいやと思っている人達からみると、なんだこれ、こんなのにデモやって変なのと思うかもしれません。

まあ確かにそういう感覚もあるだろうし、世の中のほとんどはそうなのでしょうけれども、ちょっと考えてほしいのですね。

これはある意味では健全なのです。

もちろんこのデモに対して嫌悪感を抱くというのもまた健全なのですけれども。
自分が違うと思うことにたいして違う、といえる権利、場所、機会が獲得されているのは、実はとても健全なことなのですね。

例えば人種差別はやってはいけない、だめなことですよね。しかし、アメリカなどでは、あえて国が金を払って、人種差別をする本などを出させているのです。言論の自由というわけですね。
人種差別をするなと国が管理的になるよりは、人種差別賛成といえる人間がいるほうがまだ正常、健全だという考え方です。

このバレンタインデーデモに対しても同じことが言えます。
好きな人にチョコを渡そうとしている人からしたら、しねの一言で終わるかもしれませんが、そうではないのだといえることが、健全さをしめしているのです。

終わりに 日本はどこへ向かうのか

いろいろな勉強を私はしてきましたけれども、しかし、これらが実を結んだ結果、どのような社会ができるのかは、私には想像ができません。
ズートピアのように、いろいろな人、いろいろなかちかん、いろいろな思想、いろいろな経済、などが同時並行的にすみわけられる世界が構築されるのでしょうか。

しかし、デモや怒りというのは、それではいけないんだ、そうではないどこかにもっといいものがあるのではないか、という健全なものですからね。
世界がよりよい方向に向かっていくことを私は願っています。

そして人々にはやさしさを。
もし、あなたに余力があるのだとしたら、チョコをもらえなさそうな男子に、義理チョコでも渡していただけると、世界はより住みやすくなるかもしれません

https://matome.naver.jp/odai/2148703285637752001
2017年02月14日