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1541年、家臣達は信玄の父・信虎を国外に追放し、21歳の信玄を新たな国主へとまつりあげた。
しかし、信玄は国主になっても相変わらず遊び続け、間もなく、これを好機とみた勢力に攻め込まれ、領土の一部を奪われてしまう。
このままでは自分達の生活が危うくなると危機感をおぼえた家臣達は、新たな領土を求めて信濃の諏訪氏を攻め、家臣達は自分の利益のために奮戦し、わずか11日で勝利を収める。
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そんな状態を打開するために、信玄は26カ条におよぶ「甲州法度」を作成し、その条文の最後は「自分も決まり事を破ったら相応の処分を受ける。」という言葉で締めくくられていたが、家臣達はいっこうに従わず、自らの領内に「甲州法度」を一切停止するとふれ回る者も現れる。
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1551年、隣国の村上氏が度重なる戦で疲弊していると聞いた信玄は、密偵を派遣して敵の一部を武田側に寝返らせ、そのうえで村上氏に奇襲をかけ、瞬く間に勝利を収めた。
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しかし、領土を広げ、獲得した領地を惜しみなく恩賞に使い、家臣達の求心力を高めるには、戦を繰り返さなくてはならず、そしてそれには軍備や戦術以上に戦争で重要な食料の増産が不可欠であったが、山がちな甲斐国は水田が少なかった。
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そこで信玄は、御勅使川の枝分かれを2本にまとめて釜無川との合流地点を減らし、さらに合流地点を人里離れた地域になるようにコントロールしたため、洪水被害が少なくなり、この治水事業によって耕地は3倍へと増える。
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しかし、そこには戦の神・毘沙門天の化身と怖れられていた上杉謙信が大きな壁として立ちはだかっていた。
そこで信玄は嫡男に今川家から嫁をもらい、北条家には娘を嫁がせ、今川・北条・武田の三国で軍事同盟を成立させ、背後を固めて上杉謙信と領土を接する信濃に兵を集中し、1553年の「第一次川中島合戦」を皮切りに計5度の川中島での戦いを演じることになっていく。
第四次川中島の戦い
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1561年、謙信率いる上杉軍は川中島を見渡せる妻女山に陣取り、その知らせを受けた信玄は慌てて海津城(長野県長野市松代町松代)に入るが、山の上に陣取った謙信から完全に動きを掌握されてしまう。
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作戦が空振りした武田軍は上杉軍の猛攻を受け、激戦の中、山本勘助も戦死し、上杉軍が武田軍の本陣まで押し寄せ、信玄絶体絶命かと思われた時、間一髪で妻女山に向かっていた武田軍の別働隊が戻ってくる。
この時、信玄の目に映ったのは、自分の命にかえても主君を守ろうとする家臣達の姿であった。
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一度は信玄自身が斬りかかられるほどに劣勢だった武田軍は攻勢に転じ、ついに上杉軍を撤退させる。
信玄は家臣団に戦の褒美として、現在の価値にして約150万円にもなる黄金を与えていた。
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黄金を採掘していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる高度な技術者集団は、豪族に従属せず独立した生活をしていたため、豪族から身を守ることが大きな負担となっていた。
信玄は金山衆の安全を保証し、安全を保障されて作業に専念することが出来た金山衆の黄金産出量は増え、信玄はその見返りに産出した黄金の4割を受け取ったのである。
これまで天下に最も近いと言われていた駿河の今川義元が織田信長に討たれるなど甲斐を取り巻く勢力図は大きく変わり始める。
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信玄の嫡男・武田義信は同盟関係にある今川家から嫁をもらっていたが、義信はそれを拒否し今川攻めにも真っ向から異をとなえる。
この今川攻めを巡って、信玄に賛成する者と、義信について反対する者とに分かれて対立し、強い結束を見せるようになった家臣達に大きな波紋が広がった。
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しかし、それでも家臣達の対立は収まらず、信玄は悩み続けた末、争いの根は元から断たなければならないと判断し、1567年、嫡男・義信を自害に追い込み、さらに義信の法名に謀反人の印である「謀」の字を加えて未来永劫反逆者の汚名を着せた。
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家督を継いで31年、家臣団の結束に心を砕き、我が子までを手にかけた信玄は、堂々と京都まで侵攻する大義名分を得て、ついに天下取りの道が見えてきた。
1572年、信玄は過去最大となる25000の兵を率い、京都を目指して出陣する。
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信玄は浜松城付近まで兵を進めるが、数で劣る徳川家康は城から兵を全く出さず、いつ終わるとも知れない籠城戦の構えを見せる。
武田軍はここで無理に城攻めを行えば無駄に兵を失う危険があったが、しかし、徳川家康を無視して西に兵を進めれば背後を取られて織田信長と挟み討ちにされるため、信玄はどうしても徳川家康を叩かなくてはならなかった。
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武田軍が不利な環境で無防備な体勢になりかけている知らせを受けた徳川家康は、これを千載一遇のチャンスと見て11000の兵を城から出撃させ、猛然と武田軍の背後へと迫る。
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浜松城の西に広がる三方ヶ原は、周囲が崖で逃げることが出来ず、木が一本もなく広大で、この騎馬軍団に適した台地で、信玄は正面への攻撃に力を発揮する「魚鱗の陣」で待ち構える。
これを成し得たのは、信玄が自らの人生を懸けて作り上げた武田軍の結束力であった。
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わずか2時間で戦いは武田軍の圧勝に終わる。
この戦いで完膚無きまでに打ち負かされた徳川家康は、この時に感じた死の恐怖を生涯の教訓にした。
また、武田家滅亡後、強かった信玄のやり方を知るために積極的に武田の遺臣を保護して召し抱え、そのことは徳川家康の大きな躍進の礎となった。
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信玄は「3年間は自分の死を隠し、国の守りを堅めよ。そして、いつの日か、武田の旗を瀬田(京への入り口)に立てよ。」という遺言を残す。
信玄の死後、後継者の武田勝頼は「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、急速に衰えていった武田家は、信玄の死後わずか10年で滅亡する。
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武田家の治める甲斐国は狭い盆地ごとに諸豪族が独自の勢力を築き、家臣達の武田家への忠誠心も薄く、信玄の父・信虎は隣国との領土争いに明け暮れ、また、家臣達をまとめるために逆らう者は容赦しない態度でのぞみ、国は貧しく、人々は信虎を怖れて反感を抱いていた。