ホントは今書き途中の桂さんの絡みで書くつもりだった部分なのですが、長くなるんで別途作成。先出ししておきます。
ちょい長になりますのでご注意をw
今回はこの人とw
この人の絡みw
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」より抜粋私訳「毛利元就。明智光秀の凶相を見抜く」
先に端折ったここまでの流れ↓
斉藤義龍に従わなかった明智一族は美濃を追われ、光秀は近江(ここで家臣と再会を約し別れる)
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五畿内を回る
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出家していた京都の養父光安(明智光秀からすると叔父であり養父。義龍に攻められ戦死。父光綱は道三の明智城攻めの際に討死したとある)の妻の弟を頼る
↓
妻を置いて西国へ旅立とうとするも同行をせがまれ、武者修行として妻のみ連れて山陰、山陽、四国、九州を回り仕官先を探す。
↓
西国筋は戦国そのもので浪人に対する嫌疑の目も厳しく、仕官も思うように叶わなかったので、九州から中国を目指し、毛利家が支配する状況となった山口へ到着する。
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
↓下から本文ですw
※石山軍記の今回は、当て字自体が半端ないのでw原文フリガナ→(カタカナ)。私の振ったふりがな→(ふりがな)。にしておきます。カッコ内に(フリガナ ふりがな)とある場合は原文フリガナと私の振ったふりがなの併記。他のカッコは読みやすくするための付け足し、原文の語句。又は携帯で変換されない文字用です。
①「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」の後半を抜粋私訳 「流浪の才気者、明智光秀VS毛利の豪傑の一人、桂元澄の詰問問答」
~扨(さ)て、光秀は「この山口の地は中国第一の要害であれば、此處(このところ)へ城を構えたならば、容易く攻め落とす事は叶い難し」と頻りに感稱(かんしょう 意味:辞書に無いが「感心し褒めたたえる」ってとこか?)し、
夫婦連れにてその近所を徘徊していたところ、毛利家の寵臣桂能登守(桂元澄)の士卒共が光秀を怪しみ、大勢にて搦め捕ろうとした。
光秀夫婦は兎や角と云譯(いいわけ)をしたのだが聞き入れられず、(桂の士卒共は)無體(むたい 意味:無理くり)にこれを引き立てようとしたため、
光秀は「これ等の士卒を恐れる必要はないのだが…ここで強気(ゴウキ)を出したならば、終(つい)には大勢に搦め取られて(要らぬ)恥辱を受ける事になるであろう」と思案して、
士卒に向かい「某(それがし)は諸国漂泊の浪人である。些(いささ)かも不審の者に非(あら)ず。しかしながら(これも)國法とあればやむを得ない(原文:是非に及ばず)。このまま(役所へと)連れて行きなされ」と申したので、
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
士卒共は口々に「我々は胡亂(胡乱 うろん 意味:疑わしく怪しい。胡散臭いの胡散と一緒)の者と見れば、搦め取って主人の前へ連れ行かねば役目の落ち度となる。併(しか)しながら、女中連れの事であれば詐僞(イツワリ※両方とも「いつわり」という文字)も有るまい。主人の前で申し分けを致すがよい」と二人を伴って山口(の毛利家の詰所)へと到着する。
この所は最も厳重に陣営を構え、諸将はかわるがわるにこれを守っていたが、當(当)月の守護人は桂能登守(桂元澄)であった。
能登守は斯(か)くと(報告を)聞き。二人を呼び出だして、光秀に向かって申すには「御邊(ごへん 意味:あなた)は何處(いずこ)の者にて、何用あって何方(いずかた)へ(行くのにここを)通られるのだ?」と尋ねたところ、
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
光秀聞いて「隠すべき事ではないので(申し上げます)。某は美濃國土岐の一族にて、西方(ニシカタ)の明智の城主(※1)明智駿河守光綱が倅(せがれ)、同苗十兵衛光秀と申す者です。
さる頃、斉藤義龍が爲(為)に襲われ、國を立ち退き浪人となり、仕官を成そうとこのように夫婦迚(ヅレ)にて九州まで呻吟(サマヨヒ)歩行(グリ)(→彷徨い繰り)来たのですが、心に叶う仕官先も無き故、北國に赴こうと今日當(当)所に来たところ、右の顛末(原文:仕合せ)となったのであります」と始終を物語る。
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
※1 美濃国(現岐阜県)に明智城は2つある。一つは現在の岐阜県可児市瀬田長山、もう一つは恵那市明智町城山。ここで「西方」と付いてるという事は、可児市瀬田長山の方の明智城が光秀の居た方の城か?どちらが明智光秀出生の城かはまだ確定していない。
その辨舌(弁舌)滔々(とうとう)として水の流れるが如く、人品骨柄器量あるであろう體(体)であった故、能登守は熟々(読み:つらつら 意味:注意してものを見るさま)と見て「是(これ)は平人(タダビト)に非ず」と思い、態(ワザ)と聲(声)を荒げ
「汝詐(いつわ)る事勿(なか)れ。この頃、國々の動靜(動静 ヨウス)を窺はん爲(為)、或は禰宜、山伏、沙門の姿に悄(ヤツ)し、又は浪人抔(等)と詐(いつわ)って徘徊する輩(ともがら)は數(数)多あり。汝もその類であろう。
足弱を連れているのは、(相手に)心を許させ、思う儘(まま)に(心中を)窺おうとの工(タクミ ※2)であろうが。
汝のみに非ず、他國より入り込む間者は一々搦め取って繋ぎ置き、糺問(きゅうもん 意味:罪や不正を厳しく問いただすこと)の上、その次第に依って助け歸(帰)す。これが國法である」と云ったところ、
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
※2 工(タクミ) 今読む分にはあからさまに「細工をする人」という意味を含んでいるので「たくらみ」でいいと思う。
光秀は笑って「唯今の如く有體(有体 ありてい 意味:ありのまま)に申しあげた以上は、この上に何を(重ねて)云うのでしょう?(我は)三界漂泊の浪人であれば(ここに)止め置き給うとも苦しくありません。
しかしながら、上方にて聞きしとは大いに相違の事でありますな。
今中國の毛利は向かう所敵なく十餘箇所を領し、智仁勇を兼備している良将であれば、終には四海の動亂(乱)を鎮め「天下の武将ともなり給うべきは元就殿」との風聞に、さぞかし領國も能(よ)く治まっているであろうと思っていたが、諸国の間者が怕(おそろ)しいといって某(それがし)の如きの浪人までも若(も)しやと疑い搦め置かれるとは(笑)さてさて小さき御了見である。
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
諸国の間者が入り込んだならば、一國でも奪われる事もあるかもしれぬと、誠の沙門、山伏までもが往来するのを押さえ止めて苦しめなさるのは、却って敵に心中の度量を知られ、國を失う基になるでしょうな」と空嘯(読み:そらうそぶ 意味:何気なくうそぶく事)いて云ったところ、桂能登守は彌々(いよいよ)光秀が器量を感じ
「實(実)の浪人ならば…主人に勸(勧)めて抱えさせよう」と心に思案を廻していた。
石山軍記「織田信長大軍を率して上洛の事竝明智十兵衛光秀信長に召し出さるゝ事」
流浪の身の明智光秀が先立って山口で遭遇したのは当番だった桂元澄。
ここで桂さんは流麗に顎を回す光秀の器量を見て感じ入り、なんとか毛利家に仕官させようと試みますw
何分お話性が強い石山軍記なので一概には言えませんが、ここで指してる山口は大内氏館(現:山口県山口市大殿大路)の辺りだと思われます。
一応、この前の下りで足利義尹(足利義稙)を奉じ、一時は朝敵にされながらも細川澄元を蹴散らして上洛を果たし、その後も反抗勢力と死ぬまで戦い続けた「戦国初期の織田信長w(部下に殺されてはいないw)」と言っても過言ではない大内義興が、某甲斐の虎さんの「人は石垣」チックな事を言って領内に城郭を構えなかったという下りがあります(ぶっちゃけ武田信玄の元ネタはこっちじゃねえのかと勘ぐってますw信玄さんパクった疑惑浮上中w)。
これは実際、大内氏館の詰城にあたる高嶺城は大内氏の最後の当主大内義長(大友晴英)の時(1556年)に築城が開始されているのでホントかもw翌年には毛利に取られてますがw
ちなみに大内義興はスゲーお人なのに、初期なせいであんま有名になってないんで書きたいのですが…書くとゆうに20p超えそうなんで考えどころです(泣)何より有名なお隣の尼子爺が強すぎたんだよなこの人w
また、まだ書いてる途中ですが、この明智さんに感服した桂さんも結構というか…スゲェ逸話残ってるお人ですw
②石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」を私訳(長いので分けますが、全文になりますw) 「桂元澄。毛利元就に光秀を推挙する」
光秀が辨(弁)舌を以って一言の下に能登守を云い靡かせたところ、桂も明智が知勇逞しきを見て「主人に抱えさせよう」と思い明智に向かって申したのは
「我が当初(原文:最前)より御邊の様子を見るに平人(ただびと)とも思えぬ。これに依って態(わざ)と言葉を暴(あら)くして「搦め取らん」抔(等)と云って擧動(挙動 ヤウス)を探り見ていたところ、(貴殿の)大丈夫の器量は自然と顕(あら)われ真に感心致した。
御邊が浪人にて仕官の望みあるならば主人元就へ吹擧(推挙)しよう。美濃の斎藤に仕えなさるよりはその人を知る(先の光秀の言葉通り、その人に知られている)元就故、遥かに舊(旧)主に増(まさ)るであろう。
加之(シカモノミナ)らず我が主人は仁を以って人を愛し、智を以って人を懐け勇を以って人を破る當(当)世の英雄であれば、(器量ある)御邊が主人と頼んでもどうして不足があろうか?(原文:爭で不足あらん)御承諾(原文:得心)あらば我直ちに御邊を伴い主人に引き合わせ申しましょう。御所存は如何(いかん)?」と有ったので、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
光秀曰く「先ず以って御芳志(ごほうし 意味:親切な心遣い)の段(この場合上↑の「御言葉」ってとこ)、忝(かたじけな)し。
我、猥(みだり)に詞(ことば)を發(発)せし故、御怒りもあって当然であるのに、然(さ)はなくして却って不肖の某を吹擧(推挙)しなさる(との)御厚意は、流石聞こゆる名将に仕えなさる程であって、(その)寛仁(かんにん 意味:心が広く思いやりのあること)の御心底に感服いたしました(原文感じ入り候なり)。
当初(原文:最前)より申し上げまする通り浪人に相違なければ、御抱え下し置かれるに於いては、如何にも粉骨を盡(尽)し仕え申さん所存ゆえ、宜しく御執成し下されよ」と頼んだところ、桂は大いに悦び
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
「然(さ)らば直ちに藝州(安芸国)の本城へ到るべし。某に随(したが)い(ついて)来なされ」
と申すので、光秀夫婦は早くも身の上に有り付いた心地にして、能登守に誘引(イザナハ)れ藝州に到ったところ、能登守は一人先立ち登城をなし、主君元就に(経緯を)斯くと言上し
「實(実)に彼の者は遖(天晴 あっぱれ)器量ある武士と見受けまする。御抱え有らば御用にも立つべき者であります」と勸(すすめ)た。
元就は始終を聞き
「然程(さほど)の浪人が今まで安閑(あんかん 意味:のんきに)として仕官もせざる事…最(イト)も不審なり。
但し(ただし 意味:もっとも)我家(毛利家)を望んでの事であるのか?何(なに)にもせよ、能登守が吹擧(推挙)にて斯く申す上は別事(べつじ 意味:他の理由)もないであろう。對(対)面してその後に決すべし」と(の仰せで)有ったので能登守は大いに悦び、頓(やが)て光秀を伴い御前へ現れる(原文:出づ)。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
これまた糞真面目な桂さん。光秀さんに感服しきってますのw桂さんは下にWikipedia貼っておきます。
しかし…「加之らず」=「しかものみならず」ってスゲエなwww最初「之(これに)加(くわえ)らず」って何?って思いましたwww「これに加えるのみならず」「これに加ぎらず」だったら行けるかw
石山軍記は所々当て字っぽいのが元から多いのですが、こんな読み方初めて見たwフリガナ振ってなかったら読めんwww
また、ごく個人的な話ですがwちょっとこの石山軍記に描かれてる光秀像っぽい人は苦手ですwなんか形式ばっててまどろっこしいw
ノリで「ハゲ!w」って言ったら…ホントに6(# `Д‘)√<誰が禿だゴルァ!!ってブチギレそうだしなwww下ネタでもキレそうwww
バカにはノリはノリで返してくれないとキツイですw東京の下町のおっちゃんや大阪のおばちゃんのノリが一番楽www不真面目最高www
そのまま↓下へどうぞw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%85%83%E6%BE%84
③石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」を私訳 「毛利元就と明智光秀の対面」「大姦は忠に似たり」
元就は上座に着席あり、吉川元春、小早川隆景が左右に列座あって光秀を召し出される。
能登守が御前に畏まって申し上げる様には「これは上方の浪人明智十兵衛光秀であります。御目見(オンメミエ)なさって下されますよう(お願い申し上げます)」と取り成したところ、
毛利元就は暫く光秀が相貌骨柄を見られ、稍(やや)あって申される様には「能登守の執り次ぎに依って荒増(アラマシ)は聞いているが、汝奉公致すや?」と有ったので、
光秀は平伏し「桂殿迄は委細を申し上げているため、今更言上するに及びませんが、某は土岐氏の浪人にて仕官の望みはあれども、武運拙く土岐を名乗らずこのように(原文:斯く)零落仕っていた所、
今度防州(周防国)に於いて、不圖(不図 読み:ふと 意味:企図せず)桂殿の懇請(こんせい)に預かり、御召し下される條(読み:でう 意味:くだり、件)、冥加に叶いし仕合わせ(シアわせ「幸せ」でよいのだが、どちらかと言うとめぐりあわせがよい方のこと)なり。
既に桂殿に怪しまれ、捕らえ置かれるのが当然の所、却って御目見を仰せ付けられ大悅(悦)に思っておりまする。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
庸愚(ようぐ 意味:平凡で愚かな事)の某。御用に立つとは限りませぬが、御抱え下されるに於いては身命を抛(なげう)ち御奉公仕りまする」と申したところ、
毛利元就は冷笑(あざわら)い「汝、辨(弁)舌を以って人を誑(アザム)き反間(はんかん 意味:スパイのやる内部工作)を計る間者(かんじゃ)であろう?(笑)
虚々(うかうか)と汝を抱え置けば、透(すき)を窺い我が寝首を掻こうとするであろう。(この)十三州の主たる毛利元就。汝如きに欺かれるものか(笑)」と申されたため、光秀は案(心中思案していた事)に相違し、呆れて少時(シバシ)言葉も無かった。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
桂能登守も手持ち惡(悪)しく(意味:気まずく)扣(控)えていたが、御前に向かい
「一應(一応)の御疑いは御尤(ごもっとも)にございますれども、間者の實(実)否は某が篤と糺明(きゅうめい)仕っております。全く浪人に相違なく、國(国)家の御爲(為)とも相成るべき勇士と存じ候に依って是まで伴い参ったのでございます。
憚りながら、(元就公の)思し召しを以って豫(かね)て諸士見立ての命を蒙りし某。何とて胡亂(胡乱 うろん 意味:正体の怪しく疑わしいこと)の者を勸(勧)め奉るのでしょうか?御賢慮(けんりょ 賢明な考え)を廻(めぐら)され下さいませ」と申し上げると、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
元就は彌々(いよいよ)笑われて「その方が實(実)否を糺(ただ)せしと申せども、明智とやらが胸中を如何にして察したというのだ?辨(弁)舌を以って言廻(いいまわ)したとしても、どうして是を信ずるに足ろうか?(原文:何ぞや是を信ずるに足らん)。
そもそも大姦は忠に似たり(※1下のリンクでどうぞ)。敵國に入り込み反間を爲(な)そうと思う者が容易に本心を明かすだろうか?仕損じたならば一命を落とす事を覚悟せずしてこのような役は勤めがたい。
我、天眼通(てんがんつう 意味:一切の事物が見通せる神通力)は得ざれども、渠(カレ)が胸中を觀(観)る事、恰(あたか)も明鏡に寫(写)すが如し。(おぬしは)何処の刺客なるぞ。眞直(マッスグ)に申すべし!」と敦圉(イキマキ)荒く申されたのを、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※1
光秀は少しも動ぜずに言い切る様には「豫(かね)て聞く中國の太守元就は「楠正成が再来なり」と偁(称)され名将とこそ承っておりましたが、存外臆病の大将にておいでになるようですな。
明智を以って論ずる上で、若(も)し某を刺客であると思いなさるのであれば、態(わざ)と心を許させ召し抱えられ、愛するに仁を以ってし、情を重ねて心を誡(いまし)めなされば、人も木石には非(あら)ざれば、その恩に感じて道を守り、假令(タトヒ)大将に透(すき)あればといっても、どうして(原文:爭(いら)で)害心を出すであろうか?
今、毛利家は十餘州を領し、仁政を専ら施しなさっているので、如何なる間者刺客であっても窺う事は能(あた)いますまい。是(こそ)「仁者に敵なし(※2↓下のリンクでどうぞ)」の謂(イヒ いわれ)ではないか。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※2
それなのに何故だ(原文:然るに何ぞや)?某如きの浮浪人に怕(おそれ)をなし、敵の間者なりと疑われる。
然程の小さき了簡(料簡)であっては天下の政事(セイジ)を計る事は能わぬであろう。斯く云う光秀が主として望む必要はない(原文:懇望(こんもう) 成らず)。早々と領地を追放せられよ。
我は今はこのような(原文:斯く)浪人であるが一世の中(うち)には必ず毛利三家と肩を竝(並)べる身分となるに違いない。そうでなくては一生武道は立つまい」と憚(はばか)る所なく大言を放ったので、
吉川、小早川の兩(両)将も光秀が大丈夫なる器量を感じ「元就の思案は如何あらん(どうであろう)?」と顔を見合わせて扣(控)えられている。
桂能登守は自分が勸(勧)めた事なる故「何卒(なにとぞ)主人の思し召し直らせなさる様に…」と祈って居たのだが、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※3 懇望(こんもう) 意味:ひたすら願い望む事。
元就は更に得心(とくしん 意味:よくわかって承知すること)の気色なく
「汝が如何程に詐りを陳ずるとも、我を欺く事は得られんよ。
速やかに誅するべきであるが「元就が間者を見顕(みあらわ)して害した」と(世間に)聞こえたならば臆病に似ているため、望みに任せ歸(帰)し遣わしてやろう。
定めて我が領国の地理要害、諸士の剛臆も荒増(あらまし)は知っておるのだろう。その間者を放ち歸(帰)すは「毛利家の弓矢は撓(たわ)まぬ」大度(態度)を顕(現)す處である。乞(いで)や人々。片時も早く彼の者を我が領分から送り出せ」との仰せに、
桂能登守、最(イト)本意なくは思っていたがどうにもならず(是非に及ばず)、光秀を伴い御前を退(しりぞ)いて
「偖も(さて…)御邊も知られるが如く某主人に勸(勧)めると雖(いえど)も、全く(原文:曾(かつ)て)用いられぬ以上は力なし。この上は何処の大名にも仕えなさって随分(ずいぶん 意味:並みならず)出世なさって頂きたい」といって、路銀等を心付け叮嚀(丁寧)に待遇し、光秀夫婦を國境まで送っていった。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
桂さん…(;^;)やっぱあんたええ人だ…自身も甥?も戦国のおっかねえバケモンの一人なのに(泣)
こんな謹言実直(というか剛強実直かこの人はw)を体現したような人物の桂さんが激押しする明智光秀も「楠木正成の再来」毛利元就の御眼鏡には叶わなかったという事ですね。
その理由がこの下の段になります。
④石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」を私訳「毛利元就。明智光秀の凶相を見抜く」
斯くして(このようにして)桂能登守は元就の前に出で「是敵國の者にもせよ、御味方仕りますと申す者であれば、假令(タトヒ)反間(の疑い)ある間者と御洞察(オサッシ)あっても(いつもは)一旦はお抱えある我君であるのに、彼の明智光秀に限っては厳しき追放を仰せつけられる事…(我の到らぬ)御賢慮なのでございますか?
御疑い(おんうたがい)掛りし者を勸(勧)め奉りし某であれば、君の思し召しの程…恐れ入り候」と赤面の體(体)にて申し上げたので、
吉川、小早川も「桂が勸(勧)めるのも無理もない。(我らが見る限りでも)彼の浪人が豊夫(ヨモヤ)間者である訳はないのに(原文:候まじきに)、(父上が)追放となさったのには(我らも)合点が行きません(原文:心得難し)」と不審がっていたところ、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
元就は熟々(つらつら 意味:注意してものを見るさま)これを聞かれて打ち笑い
「如何にも渠(かれ)は間者に非(あら)ず。實(実)に浪人である事に疑いはない。
假令(タトヒ)間者にもせよ刺客にもせよ、恐れる程の事は更になし。それは野心があったとしても、(我が配下に)百日も止め置いたならば我が歸(帰)服させるのは甚だ容易いからだ。
しかしながら、我に思う仔細がある故に、渠(かれ)は強顔(ツレナク)逐拂(オイハラ)った(次第)である。今その譯(わけ)を申し聞かせよう。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
元春、隆景兩(両)人とも、我(が息子達)ながらも弓矢の道に疎いわけではない。
また、能登守は我家の譜代と呼ばれ、智謀も人に卓越した當(当)家柱石の忠臣であり、(今回も)能々(よくよく)實(実)否を捜(さぐ)りし上で「家の爲(為)に宜しかろう者」と確乎(タンカ ※1)に鑑定(みさだ)めなければ申し出す事すらもせぬ遠慮(※2)ある者なれども、人を視(み)る事未だ至らず。
彼の浪人が相を觀(観)るに、主人の爲(為)に不吉の相あり。
萬一(モシ)是を召し抱えたならば、一旦は武勇智謀をも顕(あらわ)し大敵をも取り拉(ひし)ぐだろうが、主人を思う事甚だ薄く、僅かの怒りに害心を挿し挟む相貌あり。
何程(いかほど)に知行高禄を宛行(あておこな 意味:割り振って与える)ったとしても、その恩遇を忽(たちま)ちに忘却して主人に怒りをなす者である。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※1 原文フリガナ:タンカ 意味:「確乎たる」のカッコと一緒で「しっかりと」。
※2 現代の使い方でそのまま読んでしまうと単に「控えめ」になってしまうがwいわゆる「深謀遠慮」のえんりょ。「先を見通した深い考え」という意味。
臥龍(※3)は魏延(※4)が相に「謀叛の骨あり」と未然(の処置)を講じている(原文:相す)。彼れ光秀が相貌はこれに異なる事なし。
我、孔明が先見には及ばずと雖(いえど)も、幼少より觀(観)相(観相学)を學(学)ぶに、頭上に一つの高骨(コウコツ)ある者は必ず恩を仇にて返す相である(と確信している)。
これを「喜怒骨(キドコツ)」と號(ナズ)け、心中に喜び思う事あれば自然と動き、又、怒る事ある時はその動くこと甚だ強し。これ「恩の字を挫く骨なり」と云うのである。
心の上で、少々(原文:少しく)嬉しいと思う時は愿む(ツツシむ ※5)事能(あた)わず、猥(みだり)に言葉を發(発)して阿諛(ヘツラヒ)飾り、又、些(いささ)か無念の事ある時は我が身を忘れて怒り罵言(ノノシ)り、以前の恩を忘却するに至る。
武士の身においては、恩を守らぬ者は必ずその身を亡ぼすなり。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※3 三国志の蜀漢の軍師諸葛亮の渾名。こんなまとめ読んでる人で知らん人おらんと思いますがw下にリンク貼っておきます。
※4 同じく三国志の蜀漢の将軍。勇猛で激強だが、目の上のたんこぶの諸葛亮が亡くなったあと、そっこーでバッチリやらかしてしまった人w詳しくは下のリンクで。
※5 字が出ない。原文上は「匚」の中に「若」でその下に「心」。意味は「慎む」
我、幼少より心を付けて觀(観)るに、これに符号せし者は二人あり。大内義隆の執権陶尾張守晴賢(※6)は頭上にこの骨があったが、終に主人義隆を殺害した。
今一人は我が家の子粟屋兵庫(※7)が郎等にこの骨があった故「追い退けよ」と申し付けたのだが、四~五日延引(えんいん 意味:事がのびのびになること)する内に主人兵庫を討って出奔してしまった。(これは)眞(真)に恐るべき事ではないか?
これ故に我は味方の諸士を試し「若しこの人相あらば退(しりぞ)けよう」と吟味したが、士卒に至るまでこのような者はなし。
これに依って元春、隆景兩(両)人が自分の家来を抱える時も、我が先に對(対)面していなければ召し抱える事を許していないのだ。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※6 陶隆房。大内義長(大友晴英)の偏諱を受け晴賢に改名。厳島の戦いで元就率いる毛利軍に敗れ自害。詳しくは↓下のリンクで。
※7 兵庫助だと考えると…安芸武田氏に仕えており横川合戦で戦死した粟屋繁宗の子か孫辺りか?ちょっと不明w他で見つけたら追記します。
今日彼の浪人を見るに明らかにこの骨あるが故に、態(ワザ)と渠(かれ)を「刺客である!」と罵言(ノノシ)って怒りを發(発 オコ)させ窺いみたところ、彼の者が我を「臆病なり」と嘲哢(アザケ)りし中で、頭上の高骨が頻(しきり)に動いて満面に怒気が顕れていた。
彼の者を抱え置いたならば、必ず我に禍いを成すだろうと察し、前車(ゼンシャ 前者)の誡めを謹まぬような事が有ってはならない(原文:謹まずんば有るべからず)と思い、速やかに領内を追い出させた。
とりわけ(原文:殊に)我が前に始めて出でて「召し抱えるならば奉公致します」と云いし身にて(ありながら)、「一世の内には毛利家と肩を双(ナラ)べなければ、武の道は相立つまい」と廣(広)言を吐いている。
(彼は)この後何方(いずかた)に仕えたとしても、早く立身する事を思い善悪を辨(弁)えず非道の擧動(挙動 フルマヒ)行うであろう。これは則(すなわち)その身を亡ぼすの発端(原文:端)である。
汝等三人。この後においても能々心を付けて人を愛せよ。我が言う所に相違せぬように」と語られたので、
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
一同は「これぞ名将の詞(ことば)であれば、違(たが)う事があってはならん」と思ったのだけれども…心底にはまだ疑う所あって「元就公の言葉は餘に遠慮(先を見通した深い考え)に過ぎている(のではないか?)」と思いながら(年月を過ごして)居たのだが、
その後光秀は織田家に仕え段々と立身をなし、終に丹州(丹波国)一箇國五十萬石餘を領し、(光秀が)武威を輝かしていた時に、毛利家の諸士でこの時の事を聞いていた者は元就の詞(ことば)を侮り
「こちら側に抱えておれば那(ア)の如く諸國を切り靡かせるようにはならなかったものを…」と残念に思っていたところ、
天正十年(1582年)六月二日(旧暦。新暦(太陽暦)では6月21日)京都本能寺に於いて、その主信長を弑(しい)し(※8)奉った事を聞いて驚き、始めて元就の先見が明かであったのを感じたという事である。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
※8 「弑す」単純な意味は「殺す」だが、目上の者を殺す時は「弑す」が使われる。
さて、明智十兵衛光秀は中國を追拂(払)われ、仕官の事はさて置いて「間者なり」と怪しまれてしまったのを無念と思い「元就は心の狭き大将なり(怒)」と惡(悪)口(アクコウ)して立ち退いたのだが
「おのれ!急に立身を遂げ、今日の(自身が吐いた) 詞(ことば )を立てなければ大丈夫に非ず!!」と藝州(安芸国)の方を白眼(ニラ)んで大いに怒っていたという事である。
石山軍記 「桂能登守明智光秀を執成す事竝毛利元就光秀に對面の事」
流石に聡明な気鋭の若手チックだった光秀さんも、既に百戦錬磨の鬼の曲者爺だった元就さんには、その人間の薄っぺらさを簡単に見透かされてしまったっつー事ですなw
お話ではありますが…ありえるケースだから面白いwww
ちなみに、ここでお話になっている「高骨」という文字自体も、先にリンク貼っておいた三国志の魏延さんが見た「自らの頭に角が生えるという夢」も噛んでるっぽいですなw
どうやら「高骨」=後頭部に出っ張りがある事みたいで、これが「叛骨の相」と言われてるようです。
結局「角」の夢の話もありますが、魏延さんは元からそんな頭の形だったという話なのかもwww頭触ってみても分からんすが、どーいうのが高骨なんだろ???宇宙人みたいに頭頂部が出っ張ってるって事なのかな?
なんか「名高骨高」って言葉も関係ありそうwww下にリンク貼っておきます。
2018/04/27追記:こーゆー人物他にも居ねえかな?と思って探ってたら他にも居ましたw奈良時代の藤原広嗣の乱を起こした藤原広嗣さんもこれっぽいですw
前賢故実には「姿貌魁偉。頭上肉角数寸。博覧典籍。兼通佛教。武藝絶倫。練習兵法。~」とあり、絵面が思いっきり角があるみたいになってますwWikipediaにも画像あったので一応下にリンク貼っておきます。
http://www.weblio.jp/content/%E5%90%8D%E9%AB%98%E9%AA%A8%E9%AB%98
関係あんのかな?なんか「骨高」がダメなもん扱いされてるとこが意味的に通じるものがあるwww
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3
生臭坊主ちっくな玄昉さんに京都に居る美人な嫁さんをセクハラされw玄昉さんとかにぶちぎれて最終的に反乱を起こしたこの人もこれっぽいすw
https://matome.eternalcollegest.com/post-2143687468298574301
また一覧だけ貼っておきます。