ヤギの呪い
このリグレー・フィールドは、「山羊(ヤギ)の呪い(ビリー・ゴートの呪い)」でも知られている。カブスがワールドシリーズ出場を果たした1945年、タイガースを相手に2勝1敗として4戦目を迎えた10月6日のことだった。
地元シカゴのバー、ビリー・ゴート・タバーン(Billy Goat Tavern)のオーナーを勤めるビリー・サイアニス(William “Billy” Sianis, 1895年 – 1970年10月22日)はカブスのファンで、マーフィーという名のヤギを飼っておりいつも一緒に応援に出かけていた。ビリーはいつもマーフィーの分のチケットまで買うほどだった。ところがシリーズ4戦目のこの日、カブス関係者が今まで問題にしていなかったマーフィーの入場を拒否した。理由はマーフィーの臭いだった。これに激怒したビリーは「カブスは2度と勝てないだろう。リグレー・フィールドにヤギの入場が許されるまで、カブスは2度とワールドシリーズに勝てないぞ!」と言い放って球場を後にした[5]。
リグレー・フィールド – Wikipedia
カブスはこの試合から3連敗を喫してワールドチャンピオンを逃すと、それ以降2016年にリーグ優勝を果たすまでワールドシリーズ優勝はおろか、ワールドシリーズ出場すら果たせないでいた。1972年と1983年にはビリーの甥のサムが再び山羊を連れて球場へ観戦しに行ったのだが、ここでも入場を断られ、直後にカブスがリーグ首位から陥落した。
リグレー・フィールド – Wikipedia
2003年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(マーリンズ戦)でカブスは3勝2敗で迎えた第6戦もリードし、あとアウト5つでナショナルリーグ優勝とワールドシリーズ出場が決まる場面まで来た。しかし相手選手が放ったファウルフライをカブスファンの妨害がきっかけで落球。取れたはずのアウトを1個損したカブスは、ここからマーリンズに逆転されて第6戦を落とすと、続く第7戦にも敗れ、ワールドシリーズ出場をまたも逃した。このときもこのヤギの呪いが話題となったが、この試合もリグレー・フィールドで開催されたのは皮肉な運命である。しかしながら、このヤギの呪いも2016年のリーグ優勝により71年ぶりに解かれることとなった[6]。さらに、クリーブランド・インディアンスとの2016年のワールドシリーズにおいてもプログレッシブ・フィールドでの優勝決定ではあるが108年ぶりのワールドシリーズ制覇をも果たし、名実ともにヤギの呪いは解かれたのであった[7][8]。
リグレー・フィールド – Wikipedia
バンビーノの呪い
バンビーノの呪い(バンビーノののろい、英語: Curse of the Bambino)は、アメリカ合衆国のプロ野球リーグであるメジャーリーグベースボール(以下、MLB)の球団、ボストン・レッドソックスにまつわるジンクス。
ボストン・レッドソックスはMLBの王者決定戦であるワールドシリーズの第1回(1903年のワールドシリーズ)で優勝した強豪チームであったが、1918年以降は2004年に至るまでの86年間ワールドチャンピオンの座から遠ざかっていた。バンビーノの呪いは、これを1918年にトレードで放出された主力花形選手のバンビーノことベーブ・ルースの呪いによるものだとするものである。呪いを真剣に受け止める者もいるが、たいていはからかいや皮肉として扱われる[1]。
バンビーノの呪い – Wikipedia
1920年当時経営難にあえいでいたボストン・レッドソックスは、12万5千ドルの金銭と30万ドル以上の負債の肩代わりをすることを条件に、ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースにトレードした[1]。しかしこのトレード以後ニューヨーク・ヤンキースは常勝軍団になりボストンレッドソックスは低迷、なぜかあと一歩のところで優勝に手が届かないという悲劇を繰り返し次回のワールドシリーズ制覇まで実に86年の年月を費やすこととなる[2]。
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86年間にわたりボストン・レッドソックスがMLB王者であるワールドチャンピオンの座から遠ざかっていたことを、過去にトレードで放出された選手の「呪い」であるとするジンクスである。ライバル球団であるニューヨーク・ヤンキースとの間でしばしばからかいの種としても扱われている。1990年9月、ヤンキースのファンがレッドソックス戦の際に「1918!」という掛け声でレッドソックスを揶揄[2]して以降、ヤンキー・スタジアムで行われるレッドソックス戦ではこの掛け声がかけられるようになり、ヤンキースのファンはホームでのレッドソックス戦において「1918!」や「バンビーノの呪い」などと書かれたサインボードやルースの写真を掲げたり、「1918!」と書かれたTシャツを着るなどしてからかった[3][4]。
バンビーノの呪い – Wikipedia
2004年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズにおいてヤンキースと対戦し、第3試合を終えてレッドソックスは0勝3敗であったがその後逆転しリーグ優勝、さらに続く2004年のワールドシリーズでセントルイス・カージナルスと対戦して優勝を果たした[5]。もはやこの呪いはボストン文化の一部となっており、よく渋滞するストロウ通りに架かるロングフェロウ橋の「リバース・カーブ」(Reverse Curve) の標識は「リバース・ザ・カース」(Reverse the Curse, 「呪いを解け」の意)と書き換えられ[6]、2004年に優勝するまでそのままにされた。2004年のワールドシリーズ最終戦勝利後、標識は「カース・リバースド」(Curse Reversed, 「呪いは解かれた」の意)に変更された[6] バンビーノの呪い – Wikipedia
ブラックソックス事件
ブラックソックス事件(Black Sox Scandal)は、1919年、MLBのワールドシリーズで発生した八百長事件。 1919年のワールドシリーズで優勢を予想されていたシカゴ・ホワイトソックスがシンシナティ・レッズに3勝5敗と敗退(当時のワールドシリーズは9試合制)、結局レッズが同年のシリーズを制することになった。シリーズ前から噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯び、地方新聞の暴露記事がきっかけとなって事件が発覚。最終的にホワイトソックスの主力8選手が賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された。
「ワールドシリーズを金で売った」この事件は、米野球界のみに止まらず、精神的国技として野球をなかば神聖視する風潮のある米国社会に衝撃を与えた。
ブラックソックス事件 – Wikipedia
1919年、シカゴ・ホワイトソックスは当時のオーナー、チャールズ・コミスキーが極度の吝嗇家であった(ユニフォームのクリーニング代すら出し惜しむ程であった)為に、好成績にもかかわらず他チームより低年俸でプレイさせられていた(エディ・シーコットが30勝したらボーナス10000ドルの契約を結ぶも、閉幕3週間前に29勝目を挙げると以後登板機会を与えられなかったなど)。この為1919年のワールドシリーズではブラックソックス事件が起こり、1920年には8選手が球界から永久追放を受けた。この事件以後ホワイトソックスは低迷し、長くワールドシリーズ制覇から遠ざかっていたのはこの事件の影響からとされていた。
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レイ・チャップマン
1910年代に活躍したインディアンズの遊撃手。 1920年8月16日、ポロ・グラウンズでのヤンキース戦の5回、先頭打者としてバッターボックスに入ったチャップマンは相手投手カール・メイズが投じた1 ボール1ストライクからの3球目が頭部に当たり倒れた。「カールには気にするなと伝えてくれ」と言い残し、病院に搬送されたが頭蓋骨が9cmも陥没して おり事故の12時間後に死去。享年29。
元々評判の良くなかったメイズは事故後インディアンズを含む他球団の選手らから激しい非難を受け、そのうちチャップマンに好意を抱いていたタイ・カ ッブはメイズに「可能であるなら、私はチャップマンの墓石にこう刻んでいただろう。ここに傲慢、悪質、貪欲の犠牲者が眠る」と書いたノートを渡し た。ちなみにメイズは晩年に「俺は悪くない」と言った発言をしている。 現在に至るまでアメリカにアンダースロー投手が少ないのはメイズがアンダースローだったからとも言われている。
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ロベルト・クレメンテ
往年のパイレーツのスター選手。1973年殿堂入り。 ドジャースのマイナーからパイレーツに移籍し、1955年メジャーデビュー。その後はパイレーツ一筋でプレーした。首位打者4回、12年連続ゴールドグラ ブ賞、1966年ナ・リーグMVPなど活躍したクレメンテは1971年にWSMVPに輝き、1972年には通算3000本安打を達成。しかしその3000本目のヒットが彼 の最後のヒットとなる。 華々しい活躍の一方で慈善事業に熱心だったクレメンテは1972年12月23日にニカラグアで発生した地震の救援のために現地入りを決める。
31日の夜に最大積載量を超える救援物資を積み込んだ飛行機でニカラグアへと向かったクレメンテだが、直後に飛行機がカリブ海へ墜落し死去。享年38。 機体の一部が揚がったのみでクレメンテの遺体は最後まで見つからなかった。 当時慈善事業に熱心な選手に送られていた「コミッショナー賞」は「ロベルト・クレメンテ賞」に変わり、今もなお続けられている。
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テイラー・スウィフトの呪い
日本でも絶大な人気を誇るテイラー・スウィフトが本拠地でコンサートを開催すると、そのチームは直後に失速するという事態が相次いでいる。2015年、ワシントン・ナショナルズは首位を快走していたが7月に本拠地ナショナルズパークでテイラー・スウィフトがコンサートを行うと、その後は32勝39敗と失速してしまい、プレーオフへの進出さえ叶わなかった。しかもコンサートの2日後には本拠地で停電するというアクシデントにも見舞われている。
2015年ヒューストン・アストロズの場合は当初プレーオフへの進出が確実視されていた。そのためプレーオフの日程が組まれる10月13日に予定されていた本拠地ミニッツメイドパークでのテイラー・スウィフトのコンサートは、9月9日に変更されていた。だがそのコンサートが行われた直後、アストロズは8試合で7敗を喫するという大失速に見舞われ、レンジャーズに地区優勝をさらわれてしまった。
さらにサンディエゴ・パドレスの場合は8月29日に本拠地ペトコパークでコンサートが開催されると、その後の本拠地では11勝18敗と、本拠地であるにもかかわらずなかなか勝てなくなってしまった。
実しやかに噂されるメジャーリーグの4つの呪い:日刊野球ネイション
日本では読売ジャイアンツの本拠地である東京ドームで2015年5月5日、6日にコンサートが行われた。ジャイアンツは5月4日までは首位に立っていたが、コンサートが行われた5日に2位に転落してしまうと、一時は勝率.500を切るほど大失速してしまい、その後何とか持ち直すもスワローズにリーグ優勝をさらわれてしまう。
実しやかに噂されるメジャーリーグの4つの呪い:日刊野球ネイション
ノーラン・ライアンの呪い
2014年、テキサス・レンジャーズは信じられないほど多い怪我人に見舞われてしまった。実はその直前、球団CEOだったライアン氏は本意ではない形でレンジャーズを去ってしまっていた。ライアン氏はレンジャーズの球団社長、CEOを歴任したわけだが、経営面だけではなく、選手補強面でも実権を持ちたがっていた。だが球団がそれを認めず両者の間に溝が生じ、ライアン氏はレンジャーズを去ってしまう。
この出来事の直後にレンジャーズの主力に怪我人が続出したこともあり、ファンは「ノーラン・ライアンの呪いだ」と噂し始めた。
実しやかに噂されるメジャーリーグの4つの呪い:日刊野球ネイション
ホセ・フェルナンデス
マーリンズはエース右腕、ホセ・フェルナンデス投手が急死したことを発表した。
現地時間25日未明に警察当局が確認、同日のブレーブス戦は中止に
「マイアミ・マーリンズはホセ・フェルナンデスの悲劇的な死去に打ちひしがれています。我々はとても困難な状況にいる彼の家族に
祈りを捧げます。今日のブレーブス戦はキャンセルになりました」
球団は声明を発表。米スポーツ専門テレビ局ESPNによると、地元警察は午前3時に船舶事故の通報を受けたという。マイアミビーチの
岩礁に衝突した30フィート(約9メートル)のボートを発見。3名が死亡していたという。現在も警察当局は生存者を捜索している。
24歳の若さでこの世を去ったフェルナンデスはキューバ出身の若きエース。2013年のナ・リーグ新人王。今季は29試合に先発し、
16勝8敗で防御率2.86とリーグを代表する右腕だった。同僚のイチロー外野手を敬愛し、「キューバでは神様」と心酔していた。
チームにとっても大きな悲劇となった。
MLB史上最悪の事件!イチロー同僚のマーリンズ、ホセ・フェルナンデス投手急死!
エド・デラハンティ
19世紀から20世紀初頭にかけてメジャーで活躍した外野手。1945年野球殿堂入り。 長い間フィリーズで活躍し、3度打率4割をマーク。本塁打や打点トップも複数回マークし”Big Ed”(ビッグ・エド)の愛称で親しまれる。1902年、セネター ズ(現ツインズ)に移籍したデラハンティは打率.376で首位打者に輝いた。
翌1903年の6月25日、デラハンティはゲームの後妻に会うためチームから一時離れる。 7月2日、列車の車中で泥酔したデラハンティはナイアガラ・フォールズ駅で強制的に降ろされ、その後ナイアガラの滝に転落し死去。享年35。 発見された遺体から所持金がなくなっているなどその死には不審な点がある。
エド・デラハンティ – Wikipedia

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