▼77年〜78年に爆発的な人気を誇った「ピンク・レディー」
https://matome.eternalcollegest.com/post-2148023729609052101
デビュー前から絶頂期にあたる1978年までを振り返る。
●人気が徐々に低迷していった1979年
懐かしい昭和時代@natsukashi__
イズミル☆@greenikemew84
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11th「ジパング」(4位)
12th「ピンク・タイフーン (In The Navy)」(6位)
13th「波乗りパイレーツ」(4位)
オリコン史上初となる「シングルレコード・総売上合計枚数1000万枚」を達成した。
ジパング (ピンク・レディーの曲) – Wikipedia
2007年にモーニング娘。が記録を塗り替えるまで女性グループ歴代1位だった。
●アメリカ進出を果たしていた
14th「キッス・イン・ザ・ダーク」(19位)
15th「マンデー・モナリザ・クラブ」(14位)
16th「DO YOUR BEST」(36位)
日本のアーティストで同チャート・トップ40入りを果たしたのは、1963年の「上を向いて歩こう」の坂本九以来の快挙だった。
YMOが起こしたテクノポップブームの下地をつくったのは、ピンク・レディーだった – Ameba News [アメーバニュース]
全米ビルボード Hot 100のTOP40以内に入った日本人アーティストは坂本九 (1位)とピンク・レディー (37位)の2組しかいない。
●全米ネットの冠番組が放送された
セックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。
ピンク・レディー – Wikipedia
番組の最後には水着になり、タキシードのまま司会のコメディアンと一緒に混浴している。
●解散発表した1980年
17th「愛・GIRI GIRI」(58位)
18th「世界英雄史」(45位)
19th「うたかた」(48位)
20th「リメンバー (フェーム)」(86位)
後にケイが著書(「あこがれ」)で述べているが、当時、野口五郎と熱愛中であったこともアメリカ行きをためらわせた大きな理由だ。
ピンク・レディー 「モンスター神話」の真実(3)アメリカ進出はしたくなかった… – ライブドアニュース
ミーはアメリカでの活動に意欲的だったが、ケイは日本への帰国を強く希望していたそう。
1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。
ピンク・レディー – Wikipedia
同じ時期に松田聖子が2ndシングル「青い珊瑚礁」で1位を獲得している。
▼後楽園球場で解散した1981年
21st「Last Pretender」(86位)
22nd「OH!」(46位)
デビュー5年で数百億円を稼ぎ出しながら、所属事務所が解散から半年で「倒産」に至った
吉永小百合、山口百恵、ピンク・レディー…芸能界を彩った女神たちの秘話 | アサ芸プラス
●数回にわたって再結成
1989年〜1990年: 2年連続で紅白に出場
1996年〜1997年: シングル・アルバムを発売
1998年: 音楽特番で1夜限りの復活
1999年: 音楽特番で1夜限りの復活
2000年:「NHK 紅白歌合戦」で1夜限りの再結成
2003年〜2005年: コンサートツアーを開催
2010年:「解散やめ!」を宣言
2010年に、「解散やめ!」宣言をして、継続した活動を続けています。
未唯mie「ピンク・レディー時代は仮眠45分、毎日微熱」 – ライブドアニュース
翌年から全国ツアー「ピンク・レディー Concert Tour 2011 “INNOVATION”」を開催した。
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70年代に一世を風靡した森昌子・桜田淳子・山口百恵を振り返る
1979年: 全米デビュー
1980年: 解散を発表
1981年: 後楽園球場で解散
1984年以降: 数回にわたって再結成