◆ダウラギリ(8167M)で遭難
風と霧が強く登山ルートが雪で埋もれてしまい、疲労が急速に激しくなり、7000メートル付近でシェルパが酸素吸入を行ったがついに力つきて息を引き取った。残るシェルパ2名は河野さんの遺体を残して下山を続けたが途中でシェルパのうち1名が滑落し、かろうじて生き残ったシェルパ1名がベースキャンプに辿り着き遭難の様子を伝えた
シンガポール通信ー女性登山家河野千鶴子さんの遭難に思う – Nakatsu Ryoheiのシンガポール通信
頂上を目前にしながら疲労という問題が生じたため引き返すという賢明な判断を行ったにもかかわらず、下山の途中で体力を消耗してしまったのである。
シンガポール通信ー女性登山家河野千鶴子さんの遭難に思う – Nakatsu Ryoheiのシンガポール通信
◆河野 千鶴子(こうの ちずこ)さん
河野 千鶴子(こうの ちずこ)は日本の登山家、看護師。七大陸最高峰と8000メートル峰5座に登頂した(衛星峰を含む)。日本勤労者山岳連盟理事も務めた。2013年5月23日ダウラギリで遭難死した。
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河野さんは主婦業をしつつ50歳から本格的に登山に挑戦し始め、これまでに7大陸最高峰および8000メートル峰5座に登頂成功した主婦登山家として知られている。
シンガポール通信ー女性登山家河野千鶴子さんの遭難に思う – Nakatsu Ryoheiのシンガポール通信
◆登山家としては高齢で活躍
毎日のように電話をかけてきては、ボランティアをしたい、心理学を勉強したいなど、今の自分ではない姿を探していた
自分の足で歩きたい ~ヒマラヤに倒れた女性登山家~ – NHK クローズアップ現代+
「共働きで、なぜ女だけが子育てまでやらなくてはいけないのか、食事の用意までしなくていけないのか、というものに、かなりの疑問を持っている。同じ人間として生まれた、男と女の違いで、なんで?」
自分の足で歩きたい ~ヒマラヤに倒れた女性登山家~ – NHK クローズアップ現代+
残された手記には、なぜか家族の項目だけ、空白のまま残されています。1人の人間として、精いっぱい生きた河野さんが、最愛の家族について、最後、何を語ろうとしていたのか。
遺体は、まだヒマラヤに眠っています。
自分の足で歩きたい ~ヒマラヤに倒れた女性登山家~ – NHK クローズアップ現代+
◆50代から本格的な登山を開始
2002年 タシカンI峰(6386m)55歳 4人の登山家と登頂、未踏峰制覇
2003年 チョ・オユー(8201m)56歳 同行シェルパ2名
2004年 エベレスト(8848m)57歳 同行シェルパ3名、
2005年 アコンカグア(6959m)
2006年 ヴィンソン・マシフ(4897m)
2006年 マッキンリー(6194m)
2006年 コジオスコ(2228m)
2008年 キリマンジャロ(5895m)
2010年 シシャパンマ中央峰(8008m)63歳 同行シェルパ2名
2010年 ワイナポトシ(6088m)
2010年 マナスル(8163m)63歳 同行シェルパ2名
2011年 ガッシャーブルムI峰(8068m)
2004年のエベレスト登山のために2002年3月末で看護師を退職。退職金を2004年のエベレストへの遠征登山費用に充てた。夫は建設機械の修理・リース業を営み、遠征のための長期間の留守も理解し支援した。
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◆1997年から登山を開始
鹿児島県の出身。東京都練馬区在住。子育てが一段落した1997年に、20代の時の趣味であった登山を再開した。約1年間ほどは埼玉や長野の山への日帰りトレッキングを1人で楽しんでいたが、1998年8月に群馬県尾瀬の下山途中に出会った女性に誘われて、練馬区の登山愛好家グループ「練馬山の会」に加わった。それ以前はハイキングの程度の経験しかなかった。
河野千鶴子 – Wikipedia
53歳で初めて海外登山(ネパール)を体験し、5000m級の山に登った。以来毎年のようにネパールやスイスの5000-6000m級の山々に登山するようになった。助産師と看護師資格も所有し、県立鹿児島保養院、国立京都病院、日本大学医学部附属板橋病院、日本大学医学部で勤務した。
河野千鶴子 – Wikipedia