【最高齢】戦国時代の最長老たち

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年齢は数え年(生年を含む)。

一栗放牛(91歳)

一栗 放牛(いちくり ほうぎゅう、明応9年(1500年) – 天正19年(1591年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大崎氏の家臣。放牛は法名。一栗高春の祖父。陸奥国一栗城主。
天正18年(1590年)、葛西大崎一揆が起こると孫・高春と共に一揆方につく。一族郎党と共に佐沼城に籠城し奮戦するも衆寡敵せず、やがて敗色が濃厚となるや高春を落ち延びさせて自身は城を枕に討ち死にした。このとき放牛92歳であったという。
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鬼庭綱元(92歳)

鬼庭 綱元(おににわ つなもと) / 茂庭 綱元(もにわ つなもと)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名であった仙台藩主伊達氏の重臣。
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竹内久盛(93歳)

竹内 久盛(たけのうち ひさもり、文亀3年(1503年)[1] – 文禄4年6月6日(1595年7月12日)?)は、日本の戦国時代の武将、兵法家。古武道竹内流の開祖。中務太夫。前名、垪和久幸。
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竹内流が日本最古の柔術流派とされているところから柔道の源流を生み出した人物とも言われる武道家。
竹内久盛とは (タケウチヒサモリとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

真田信幸(93歳)

真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。
真田信之 – Wikipedia

祖父・真田幸隆、父・真田昌幸、弟・真田信繁(真田幸村)ら華々しい活躍に定評のある一族中でも地味ながら、信濃国上田藩そして松代藩の初代藩主として、明治まで続く松代藩真田家の基礎をつくりあげた真田家最大の功労者。
真田信之とは (サナダノブユキとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

龍造寺家兼(93歳)

龍造寺 家兼(りゅうぞうじ いえかね)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。水ヶ江城主。
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立石正賀(95歳)

「立石正賀」(たていし・まさよし 1565 ~ 1659)とは、戦国時代の土佐国の大名一条氏や長宗我部氏に仕えた武将であり、長宗我部元親に関する著書「長元記」の原作者であり、戦国時代の隠れた長命武将。
立石正賀とは (タテイシマサヨリとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

宮城政業(95歳)

宮城 政業(みやぎ まさなり、明応4年(1495年)-天正17年6月23日(1589年8月4日)は、戦国時代の武蔵国足立郡宮城(現在の東京都足立区宮城)の国人領主。豊島氏の同族。妻は宇多重広の娘。子に宮城為業。
文明年間に豊島氏が太田道灌に滅ぼされると、宮城氏も太田氏に仕える。政業は太田資頼以来6代の主君に仕えたとされている。太田資正が第2次国府台合戦に敗れて岩付城を追われた後も太田氏資に仕えて、そのまま後北条氏の指揮下に入った。
宮城政業 – Google 検索

多羅尾光俊(96歳)

永正十一年(1514)~慶長十四年(1609)二月四日。
四郎兵衛、四郎右衛門。入道号道賀。
光吉の子。近江甲賀郡信楽の小川に住す(重修譜・宇野)。
多羅尾 光俊 (たらお みつとし) – 戦国武将列伝

須田盛秀(95歳)

須田 盛秀(すだ もりひで、享禄3年(1530年)- 寛永2年(1625年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。二階堂氏、のち佐竹氏の家臣。秀行の子で、秀広、秀世、盛方の父。美濃守。源次郎。
須田盛秀 – Wikipedia

三好為三(96歳)

三好 為三(みよし いさん)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、旗本。一般には政勝と呼ばれているが実名は不明。三好氏傍流の三好政長の子で、摂津榎並城主。兄は三好宗渭。
三好為三 – Wikipedia

別名は「三好為三」で真田十勇士の三好伊三のモデルとされている。
三好政勝とは (ミヨシマサカツとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

北条幻庵(97歳)

北条 幻庵(ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ながつな)は、戦国時代の武将。伊勢盛時(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた4男。箱根権現社別当。金剛王院院主。
北条幻庵 – Wikipedia

小梁川宗朝(97歳)

小梁川 宗朝(こやながわ むねとも、文明元年(1469年) – 永禄8年(1565年))は、戦国時代の武将。陸奥国伊達氏家臣。小梁川盛宗(中務少輔)の子。小梁川親朝の弟。小梁川宗秀の父。信濃守。
小梁川宗朝 – Wikipedia

鞍馬山の天狗であり、将軍の近侍であり、京担当の外交官であり、齢97で殉死した伊達家のチート爺である。
小梁川宗朝とは (コヤナガワムネトモとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

大島光義(97歳)

大島 光義(おおしま みつよし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名で、美濃国関藩主。大嶋 光義とも記される。
大島光義 – Wikipedia

永正(えいしょう)5年生まれ。織田信長,豊臣秀吉に弓大将としてつかえる。関ケ原の戦いでは,石田三成(みつなり)に妻子を人質にとられていたが,徳川方について功をたて,慶長5年美濃(みの)(岐阜県)関藩主となる。1万8000石。弓の使い手として名をとどろかせ,53たび戦場にのぞみ,41の感状をうけたという。慶長9年8月23日死去。97歳。初名は光吉。
大島光義(おおしま みつよし)とは – コトバンク

平賀元相(99歳)

平賀 元相(ひらが もとすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての国人領主で戦国武将、長州藩士。安芸国の戦国大名毛利氏の家臣。
平賀元相 – Wikipedia

国司元相(100歳)

国司 元相(くにし もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。
国司元相 – Wikipedia

石田重家(104歳)

石田 重家(いしだ しげいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。石田三成の嫡男。関ヶ原の後に出家し、臨済宗の僧としての名は済院宗享。
石田重家 – Wikipedia

https://matome.naver.jp/odai/2147569328445094801
2016年12月15日