【藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件】洗脳されて殺人を犯した信じられない事件

firk12
1987年に起こった猟奇殺人事件。3日間ほとんど眠らずに死体を切り刻み、頭蓋骨などに塩を詰め「救世の曲」をカセットで聴き、口ずさみながら死体を解体、ナイフやハサミでそいだ肉や内臓は台所から排水溝に流していた。
藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件

1987年に起こった猟奇殺人事件。
藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件 – Wikipedia

捕まったのは、その部屋の住人で、不動産業のSと主婦で元看護婦のM。殺されたのはMの夫で、コミックロックバンド「スピッツ・ア・ロコ」のリーダーの茂木政弘(32歳)と分かった。
藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件

▼洗脳された男女

3人の共通点は宗教

殺された政弘とSはいとこ同士で、子どもの頃から仲が良かった。音楽だけが生きがいの政弘に対し、Sは不動産業と称してはいたが、実際にはほとんど何もせず、戦争の本を読んでいた。しかも、1979年(昭和54年)に、宝石詐欺の前科があった。これは執行猶予になったが、その後も横浜市内で地上げした土地をめぐってトラブルを引き起こすなど詐欺まがいの行為を続けた。

どうしてこの2人が気が合うのかが不思議だが、2人は頻繁に行き来した。1986年(昭和63年)4月、政弘はMと結婚するが、政弘とSとのこうした付き合いはその後も変わらなかった。

3人に共通していたのは、いずれも横浜市にある新興宗教団体の大山祇命(おおやまねずみのみこと)神示教会に入信していたことだった。この教会は横浜に本部を置き、当時信者数は70万人を超えていた。中でも殺された政弘は、両親ともに熱心な信者で、1974年(昭和49年)入信、1985年(昭和60年)に脱会している。妻のMも1979年(昭和54年)入信、1986年(昭和61年)に脱会している。さらに、Sもこの新興宗教の熱心な信者だった。そもそも宗教団体を紹介したのはSだった。

一方、Sはミュージシャンである政弘に「世の中は悪魔でいっぱいだ」「悪魔を祓い、救世の曲を作れるのは政弘しかいない」「政弘は音楽でこの世を良くするように神から送られてきた使いだ」などとふきこんでいた。

その言葉を信じていた政弘は、事件前にSの部屋に泊り込んで、「救世の曲」作りに没頭していたという。

▼「悪魔を祓うため」に殺害してバラバラに….

その頃、政弘とMとの間に別れ話が出ていたことやロックバンドの解散話が出るなどのトラブルがあった。Sはこれは「悪魔が取り憑いている」せいだと言い出し、政弘も「悪魔が取り憑いていた。祓ってくれ」と言い出した。

同年2月22日の午後、Sと向き合うようにして悪魔祓いを行った。3本のロウソクに火をつけた「祭壇」の前で、にらめっこをしたり、身体に塩をすり込んだりしていた。そこにMも加わって悪魔祓いをした。

政弘が先に目をそらせば悪魔が去ったことになるというものだったが、政弘はとうとう最後まで目をそらさなかった。そのため、Sは、「肉体が死ななければ悪魔も死なない」と政弘の殺害を決意した。MはSの言葉を信じて疑わず、政弘の首を絞めるSを手伝って殺した。

悪魔を追い払えば死体が生き返ると信じたらしいが、その後、2人は悪魔が再び乗り移らないように、3日間ほとんど眠らずに政弘の死体を切り刻み、頭蓋骨などに塩を詰めていたという。2人は儀式の最中、政弘が作っていた「救世の曲」をカセットで聴き、口ずさみながら死体を解体、ナイフやハサミでそいだ肉や内臓は台所から排水溝に流していた。アパート脇の下水の側溝には肉片が散乱し、回収できないほど遠くまで流れていた。

SとMは捕まったとき、「悪魔、悪魔」と口走っていた。

3人がかつて所属していた宗教団体では、「悪魔」や「悪魔祓い」の言葉は存在せず、まして死体を切り刻むなどというまじないなどもない。

▼懲役14年

この事件は犯人のどちらかが発端者になり、もう1人が巻き込まれて2人同時に感応精神病になったものと言われた。感応精神病とは、精神異常者の宗教的恍惚感や幻覚などが、それを信じる暗示性の強い人に伝わり、同じような症状を起こす病気。

だが、1992年(平成4年)5月13日、横浜地裁は、「精神鑑定の結果、2人とも善悪を判断する能力があった」として、Sに懲役14年、茂木Mに懲役13年(ともに求刑・懲役15年)の刑を言い渡した。

その後、Sは控訴したが、東京高裁で控訴棄却となり、Sの懲役14年が確定した。

▼被害者のバンド

スピッツ・ア・ロコ

「スピッツ・ア・ロコ」は、1983年(昭和58年)6月、『キープ・オン・ラブ』『愛論人(アイロンマン)』のシングル2枚とLP『人情』を出し、デビューしていた。
ロックではあったが、どちらかと言えばニューミュージックに近い路線で、誰でも楽しめるポップスロックを演奏。ステージでの彼らはそれぞれ祖父母、父母、子どもに扮して、「家族」を演じ、政弘は娘役の女装をした。

このユニークな演奏スタイルが注目され、横須賀をはじめ横浜などのライブハウスに出演するようになった。物珍しさもあってライブハウスはいつも満杯だった。
政弘のパートはドラムで、作詞や作曲も担当した。容貌がマイケル・ジャクソンに似ていて、「和製マイケル」と呼ばれ、1987年(昭和62年)1月、神奈川テレビに出演した。

だが、政弘の表情がいまひとつパッとしなかった。自己紹介も小さな声でボソボソ答えるだけで、あとは笑顔を見せず、一人浮いたような状態だった。

その後はライブハウスの出演が2、3本あるだけで、メンバーの中には「いつまでもライブハウスでもあるまい。この辺で脱退して他の仕事にでもつく」と言う者も出てきていた。

●関連まとめ

https://matome.naver.jp/odai/2146763119158586101
2018年06月21日