知らなかった!【 忠犬ハチ公の一生 】愛蔵版

uselessid
以外と知られていない?「〜時にハチ公像前で!」、現在も多くの人の待ち合わせなどに利用され、渋谷のシンボルとして親しまれている忠犬ハチ公の知らないことも多かった生涯をまとめました。

☆ハチ誕生


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710403
1923(大正12年)11月10日
ハチは関東大震災からほんの2ヶ月後だった1923年11月10日に、秋田県大舘市(現在)で誕生。

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710603
上野家の書生・尾関才助、ジョン、ハチ

東京大学(現在)の上野英三郎博士(1872-1925)に飼われることになり、生後2ヶ月だった1924年1月14日、米俵に入れられて大舘を出発。 20時間の列車の旅を経て上野駅に到着した。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710503
上野英三郎博士

博士の代理でハチを引き取りにきたのは、のちに博士の没後ハチの飼主になる、上野邸の植木職人をしていた小林菊三郎。

大の犬好きの上野博士宅にはジョンとS(エス)という2頭の犬がすでにおり、特にジョンが、幼いハチの面倒をよく見たという。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710303
ハチとS

☆やがてハチはジョン、Sとともに博士の送り迎えをするようになる。

やがてハチはジョン、Sとともに博士の送り迎えをするようになる。 行先は東大の駒場キャンパスまで、あるいは渋谷駅まで。

農業工学の第一人者であった博士は農林省や関連施設に出向くことも多く、その際は自宅から最寄の渋谷駅を使ったのである。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924713003
学校裏手の高台にあったという上野邸 (現在は跡形もなし)

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712103
博士の家から渋谷駅までのルート

上野邸は当時あった大向小学校に隣接しており、博士はジョン、S、ハチとともに渋谷駅まで歩くと、別れるとき3頭に話しかけ、撫で、ビスケットを与え、服が汚れるのも構わず飛びつかせたという。

犬たちは朝博士を見送ると帰宅し、夕方博士が戻る時間になるとまた駅まで歩いて博士を改札外で出迎えた。

☆こうして博士を迎えに通う日々が始まった


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710103
博士を待つハチ

☆当時の渋谷駅周辺


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924713203

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924713103

☆上野英三郎博士急逝。

しかしハチが上野邸に来てから1年4ヶ月後の1925年(大正14年)5月21日に、上野英三郎博士急逝。(享年53歳)


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712203

「私にとつて、すべてが忘れられぬハチですが、一番深く印象に残つたハチは、主人の亡くなつた時の悄げ方でした。

主人の遺骸には防腐剤の注射を施しましたが、その夜具に血でも多少付いてゐたものか、夜具を物置へ蔵ふと、ハチも夜具を慕つて物置へはいつてしまひ、どうしても出て来ないのです。蒲團をなつかしがるハチの姿は本當に哀れでした。

初七日の夜、棺を祀つて御通夜を営んでゐる時でした。
庭をシヨボ〃歩いてゐたハチが急に縁側のガラス戸を押しあけ、座敷へスタスタ上つて参りました。そして棺の方へ歩いて行つたかと思ふと、棺を安置した台の下へドシドシ這入り込んで行くのです。

ハチは其處で肢を伸ばして腹這ひとなり、さも安住の地でも見出したかの様に、グツタリ首うなだれ、呼ばうが、追うはが、どうしても棺の下から出て來ないのです。

かうして一晩ハチは頑張つてゐましたが、その根強い思慕の情には、誰も彼も思はず泣かされてしまひました」

上野八重子氏「忠犬ハチ公を悼む ハチ公の思ひ出」より 昭和10年
http://ameblo.jp/wa500/entry-11479958455.html

上野博士と妻の八重子は、上野の本家に反対されたものか正式に結婚はしておらず、事実婚関係だった。
二人の間に実子はなく、養女のつる子、その夫、男子の赤ん坊は上野邸で同居していた。

博士の死後、八重子もつる子一家も上野邸を出ねばならず、犬達は親類に託された。

☆世田谷に自宅を構えた八重子に引き取られたあとも5km離れた渋谷駅に通うことをやめなかった


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711703
林菊三郎とハチ
ハチの二代目の主人

しかし若く元気なハチは先々でトラブルとなり、日本橋の親類宅から浅草の親類宅に移るようだった。

借家暮らしを経て世田谷に自宅を構えた八重子に引き取られたあとも5km離れた渋谷駅に通うことをやめなかったため、八重子はハチを、渋谷駅近くに住む上野邸の植木職人だった小林菊三郎に託した。

上野博士の死から約2年が経っていた頃のことだった。

☆近所の子供のお供をして銭湯に通うハチの姿がよく見られるようになった。

小林は職人として駆け出しの頃上野博士に世話になった恩を忘れず、ハチを大切に世話したという。

菊次郎の弟の友吉が、忙しい菊三郎に代わってハチを散歩に連れ出すなどよく面倒をみた。 小林家の裏手には子供のない夫婦が肉屋を営んでおり、その夫婦もハチを我が子のようにかわいがってくれたという。

近所の子供のお供をして銭湯に通うハチの姿がよく見られるようになった。

☆それでもハチの渋谷駅行脚は止まらず

それでもハチの渋谷駅行脚は止まらず、途上で元上野邸をのぞいたハチは、上野博士を待ちかねるかのように渋谷駅に日参するのだった。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712603
渋谷駅にて

☆主人を送つて行つては帰りを待つて居つたなつかしい渋谷驛に、毎日〃雨の日も雪の日も日参する様になつた


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024718603
駅へ向かうハチ

昭和三年六月犬籍簿作製の際は、一日ハチ公の跡をつけて歩いて、漸く預り主の小林君を探し出した時「半年以上もつないで牽運動させましたがどうにも居つきません。今でも放せば渋谷驛に飛んで行つてあの通りですが、夜は帰つて寝る様になりました」と云つて居つた。

主人を送つて行つては帰りを待つて居つたなつかしい渋谷驛に、毎日〃雨の日も雪の日も日参する様になつたのであつた。

私はあまりの不憫さに引きとつて愛育し様と色々交渉したが、あの犬は亡くなつた博士が非常に可愛がり、犬が死んだら自分の墓側に埋めよと云ふ遺言までしてある程で、お譲りすることは出來ぬとの小林君の言であつた(齋藤弘氏)」
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711603
改札前

そうして年月が過ぎていったが、のっそりと大きなハチは事情を知らない人々には疎まれ邪険に扱われた。

駅の小荷物室に入り込んで駅員に叩かれ、子供には顔にいたずら描きをされ、夜になると近くの商店主に商売の邪魔になると追い払われ、野犬狩りに捕まったこともあった。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712824709803
当時の渋谷駅長・吉川忠一と

野犬狩りに捕まったときは、顔見知りの巡査がハチの身元を確認してくれて事なきを得た。

ハチはちゃんと登録された飼犬だったにもかかわらず、おとなしいから新しい首輪やハーネスを不届者に盗まれてしまい、野犬と誤解されてしまうのだ。
それでもハチは、誰に対しても一度も害をなさなかったという。

☆昭和四年春、大病を患う


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924715403
此の當時立派に両耳の立つて居たことが此の写真で判明する

「昭和四年春にひどい皮膚病にかゝつて衰弱甚だしく、既に死亡は免れぬものと思はれたので記念写真を撮つて居いた。第三圖はその写真である。

尾の細くなつて居り、肩、背の毛並の悪いのは皮膚病のためである。此の當時立派に両耳の立つて居たことが此の写真で判明する。小林君宅の前で私が撮つたものである。

其の後小林君の丹精が効いたか、不思議に全快したが、もう昔の元気がない。

☆晩年のハチの左耳は立っていない。 これは野良犬に襲われて噛まれ、左耳の付け根の軟骨を損傷したためだった。

あの犬は他の犬が互に喧嘩を始めると、直に仲に入つて引き分け、若し一方の犬が強く中止しない時は、自分が相手になつても必ず引き分けると云ふ昔の侠者の風があつた。

今や老衰甚しく、嚙傷のために耳も垂れ、眼も霞みながらもなほ渋谷驛に舊主をなつかしみまつ姿は、涙ぐましい有様である(齋藤弘氏)

☆昭和7年9月、一般投書によりハチが名物化

日本犬保存會々報「日本犬」第一巻第二號誌上にハチの写真を掲げ、齋藤氏の筆でハチの詳しい履歴が出され、同時に朝日新聞の鉄箒欄にハチのことが投書されたので、一般人のハチに對する愛情は翕然として集まり、そろ〃渋谷驛の名物化した。

當時のハチは年齢十歳、性別牡、毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫、尾左巻と、前記「日本犬」に記されてゐる。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710703
10月4日 東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」として取材記事掲載。忠犬ハチ公デビュー。
當時のハチは年齢十歳、性別牡、毛色白、肩高二尺一寸三分(約63cm)、體重十一貫(約41kg)、尾左巻

忠犬ハチに寄せて 石谷嵯峨

亡き主の帰りますかと夕な夕な 渋谷の驛に老ひ犬の待つ

ハチに贈られた和歌

☆銅像の建立まで 昭和8年6月〜昭和9年1月


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710803

1933年(昭和8年)6月、立派な日本犬の彫像を作りたいと考えた安藤は、知り合いだった斎藤に相談しハチを推薦された。

ハチを気に入った安藤は同年夏、小林に伴われたハチにアトリエに通ってもらってハチの石膏像を作り、10月に帝展に出品、好評を得た。

高まる一方のハチ人気に、やがて渋谷駅長の吉川が 「ハチを永遠に覚えていてもらえるよう、銅像を建てたらどうか」と提案。
その案は斎藤と日本犬保存会の賛同を得、そうして渋谷駅にハチの銅像が建立されることになり、計画が発表され、募金活動が始まった。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳

昭和9年1月
ハチ公銅像建設會が、吉川渋谷驛長、板垣博士、齋藤弘氏、安藤照氏その他の發起で生る。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711103

「先日安藤氏の處でハチ公と製作中の彫像とを拝見して居つた所に、丁度未亡人が御出になられた。今迄暑熱のため土間に横臥して動うともしなかつたハチ公、急に起き上つて夫人の側に寄りそひ嬉し喜ぶ様子。

又夫人の辞去せらるる時、小林君の制止も聞かず、一緒について行うとする有様、實に涙なしに見られぬことであつた。あまり犬好きとも見えぬ夫人にして斯の様である。地下の故博士がハチの目前に現れたらどの様であらうかと想像するだに涙である(齋藤弘氏)」

☆上野八重子の回想


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711403
右側に立つ女性が上野八重子
ハチの銅像の建立については、海外でも報道されたらしい。

上野八重子は 「ハチを棄てて野良犬にした張本人」 などと誤解されることが多い。 ハチを有名にした斎藤弘吉でさえ上野夫人を犬嫌いと思い込んでいたようだが、実は彼女はハチを手放したくなかった。

でも渋谷駅から離れたがらないハチを見て、5kmも離れた世田谷の自分の家から渋谷駅に通わせるよりは小林宅に飼われたほうが近いからと、辛くともハチのためを考えてハチを手放したのである。 (という情報を、私は信じます。)
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳

ハチの死に際して

静かに眠つたハチを見送つて、何となく重荷の下りた様な氣持を感じると同時に、一瞬の物足らなさが胸に迫つて来るのを、どうすることも出来ません。

ハチは気立の優しい犬でした。それに仔犬のうちから病身なので、かうして死んでみると、愛としさが泌々湧き上つて参ります。

ハチがまだ一歳の頃、私共の長男が生れましたが、ハチは赤ン坊にまで馴染み、その頃は家の中に飼つてゐたものですから、長男の寝てゐる座敷へはいつては、嬉しさうに自分も長々と寝てゐたりしました。
あまり長男に親しむので、赤ん坊とハチを一緒に寝かしたりした様なこともあつて、ハチは大喜びでした。その頃は一時座敷に飼つたこともあるのでございます。

私共もこれまで色々の犬を飼ひましたが、ハチ位人間の気分をよく覚る犬はをりませんでした。
こちらも人間の子供並みに扱つたせいか、随分と人間臭い犬に育つたのでございます。
みながよく「ハチは人間臭い」と云つては笑つたことでした。
上野八重子|帝國ノ犬達

ハチの武勇傳

ハチの武勇傳にはこんなのがあります―。三歳の頃でした。

綱をつけてハチを散歩させてゐると、ブルが一頭かかつて参りました。
ブルは盛んに挑戦して来ますが、ハチは五月蠅いとばかり、テンで相手にしません。その内あまり執拗に挑んで来るので、ハチも堪り兼ねて「ウワツ」と一声恐ろしい声を挙げたかと思ふと、相手のブルは悲鳴をあげて逃げて行きました。

一寸威嚇だとばかり思つてゐましたが、ハチはモグ〃口を動かしてゐるのでございます。
何をしてゐるかと見てゐるうち、やがてハチの口から落ちたのは逃げ出したブルの片耳でした―。

ハチの威を借るエス

喧嘩の際など、ハチの力といふものは大変なもので、そんな時私など綱を引つ張りきれるものではござゐません。ウンと踏ん張つた拍子にハチに倒されたことがある位です。
どうしても追ふんだと云つて承知しない時の力の強さといふものは、大の男が三人も掛らねば止めることが出来ませんでした。

只今宅に土佐とカメの雑種で、今年十四歳になるエスといふ老犬がゐますが、これが又生来大変氣の弱い犬でござゐます。

ところが意気地のないこのエスも、ハチが一緒だと気が強くなつて、散歩の時など堂々喧嘩を買つて出るやうなことがあるのですが、かういふ時のハチの態度は全く変つてをりました。

相手の犬を攻撃する代り、いきなりエスの側へ寄るなり、エスの上に乗掛つて、これを自分のお腹の下へ掻い込んでしまふのです。
そして歳上のエスをかばひながら、盛んに相手を威嚇するのでした。

ハチの嫌ひなものは雨

雪は大好きで、スロープを見つけては珍妙なスキーをして獨り楽しむのでござゐます。
スロープのハチはいきなり雪の上に仰向けに寝てしまひ、四足を空へ向け、背を雪につけ、首をチヨコ〃左右に振つて、これを舵とし、巧みにスロープを滑り下りるのです。

とても珍芸で、笑はずにはをられませんでした。
それからハチは不思議と雷を豫知し、雷の鳴る二時間前になると、必ず変つた行ひを始めました。

それは妙に人を恋しがることで、子供でも誰でも家の者の傍へ行つては頻りに甘へる様な格構をします。
いつもこの雷豫報は、はづれたことがないので、「ハチの天気豫報」と私共は呼んでをりました。
上野八重子|帝國ノ犬達


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710003

ハチの受難

ハチにはまたこんな受難話もござゐます。

私共がまだ渋谷に住んでゐた頃、ハチを七百圓で譲つてくれ、千圓で渡してくれないか、といふ話が折々出たことがありましたが、この犬を一つ誘拐してやれといふ者が時々現はれて、これには悩まされました。

ハチはウツカリ誘拐者の手にのつて、綱をつけられ、曳いて行かれますが、道玄坂乃至は宮益坂、でなければ富ケ谷まで曳かれて来ると、ピタリと止まつて動かなくなつてしまふのです。
力があるので、止まつたら最後、一人や二人の力ではビクともするものぢやありません。

その内、犬が大きいものですから、一人立ち二人立ち、段々人が集まつて参りますと、その中にはハチを知つてゐる方があつて「やあ、上野さんのハチ公だ。君は何をしてゐる。何處へ引つ張つて行かうとするんだ」と詰問するといふ訳で、誘拐者がタヂ〃となるうち、宅へ電話で顛末を知らせて下さる方がある。

交番へ訴へて下さる方があるといふ騒ぎになつて「すは、一大事!」と私共で駈けつけ、難なく取戻したことが幾度もござゐました。

ハチが道玄坂あたりで止まつてしまふのは、驛から遠く離れたくなかつたからでせう。

面白いのは豫防注射の時で、巡査が見えて「お宅の犬は一番大きいから、真つ先に注射をやりませう。集まらない内早く連れて来て下さい」といふ御注文です。

こちらは左様云ふものかと思つて、早くからハチを連れて出向くと、係りの方がニコ〃笑つて「どうもハチ公がゐないと淋しいからね。その辺の見える所へ繋いで行つて下さい。一番大きいから後でやりませう……」には、こちらも笑つてしまひ、程よい所へ繋いで置く始末。

注射はやつぱり終りに近く行はれ、豫防注射といふと、いつも一日掛りでした。
(※当時の飼育登録や狂犬病対策は、保健所ではなく警察の業務でした)


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711003
正装したある一家と写真に収まる1934年(昭和9年)のハチ

この頃から、「ハチ公はただの野良犬だ」「焼鳥目当てで驛に通っている」との誹謗中傷が始まります。
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達

大衆化するといつの時にも誹謗中傷が出てくるようです

1934年(昭和9年)2月6日、当時10歳になっていたハチがフィラリア症と腹膜炎の併発により危険な状態に陥る。

ハチの重体を知った国民はハチの回復を祈り、子供たちは 「ハチに薬を買ってやってください」 とお小遣いを送ってきた。

一時は命が危ぶまれたが、幸い奇跡的に持ち直して快方に向かった。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024718303
回復したハチと、ハチを診た獣医師の大浦豊(右に立つ男性)

☆昭和9年4月21日

渋谷驛頭のハチ公銅像除幕式が盛大に挙行され、驛頭は人の黒山を築く。銅像は安藤照氏の帝展出品をその儘五尺の御影石臺上に安置した。
尚一般から集まつた銅像建設基金は千二百十三圓餘。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710203
ハチ公像とハチ

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712303
ハチ公キョトン

1934年(昭和9年)4月21日、渋谷駅でハチの銅像が除幕された。 ハチが生きているうちに公開されたのには理由があった。

「上野家からハチに関するすべてを委託された」 という老人が出現し、 「ハチの木像建立に向けて資金を集めるため」 渋谷駅長に

署名させた絵葉書を売り始めたのである。 斎藤は老人に接触して銅像計画に合流するよう持ち掛けたが老人が拒否したため

銅像の除幕を急ぎ、それゆえハチの存命中に銅像公開の運びとなった。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳

☆昭和9年12月「あるぷす大将」に出演


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712003
映画 『あるぷす大将』 (1934年) に “出演”

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924712403
映画 『あるぷす大将』 (1934年) に “出演”
http://www.youtube.com/watch?v=JNsukeNKpsY

☆迫るハチの死期

ハチは1934年12月から1935年1月にかけて目に見えて弱まり衰えていった。 2月に入ると食欲が戻り体重も増えてきたので周囲は安堵した。

が、3月に入ると、普段通りに動き食べるものの、嘔吐が激しくなり体調が悪化。
3月3日か4日からほとんど何も食べなくなり、一方で嘔吐は激しさを増した。 腹に水が溜まって膨れ、いかにも苦しげな様子だった。 5日には立つのもやっとという状態に。

ハチの死期が迫っていることを悟りつつも、銅像除幕一周年までは何とか・・・と人々は祈った。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳

☆昭和10年3月


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711203
1934年12月30日撮影、ハチの生前最後の写真と思われるもの

死ぬ前晩

死ぬ前晩―七日夜のハチ公の行動は、とても不思議なものでした。

酷く病に冒されたあの大儀な體をノソ〃運んで、驛の各室を順に経巡り始めたものです。
改札の部屋や小荷物の部屋へはよく這入り込むので、この時も驛員達は何とも思つてゐませんでしたが、その夜に限つて、出札の部屋へノソ〃這入り込んで行くには、驛員も目を丸くしました。

と云ふのは、十一年間當驛とは馴染み深いハチではありましたが、今まで出札へ這入つたことは只の一度もなかつたからです。

尤もこの部屋は現金を扱ふので、無闇に人も入れなく、ハチ公も自分から近づかなかつたのですが、その夜はどうしたものか、初めて出札部屋へ這入つて行きました。
「お可笑なこともあるものだな……」と皆奇異の思ひに打たれたのでした。
http://ameblo.jp/wa500/entry-11480824073.html

その夜は、驛の部屋々々を訪れたばかりでなく、重い足を運んで驛から出て、驛前の各商店十軒余りを一軒残さず巡つて歩きました。

何處の商店でもハチ公の這入つて来るのは珍らしいことではないので「あゝ、又ハチ公が来た」位で平気でゐた様ですが、最後に「甘栗太郎」の店へ這入つて行つたのださうです。何でも十一時頃のことで、これを見た甘栗太郎の主人公は非常に不思議な気に打たれたと云ひます。

この店だけは、ハチ公、これまで一度も這入つたことがなく、その夜初めての訪問だつたのです。
ハチ公は既に死を豫知してゐて、顔馴染へ挨拶して歩いたらしく、これは私も不思議なことだと思つてゐます。
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達

ハチ公の死の發見

驛の出札部屋はハチ公が這入つて来て皆を驚ろかしたのは、七日も深夜のことで、そこにづつと寝てをり、八日午前二時頃までゐたことは確かです。

その内驛員も寝に就きましたが、寝静まる頃、いつかこの部屋を抜け出して、遂に朝五時頃八幡通りで、ハチ公の死の發見となつたのです。

この又八幡通りといふのが、普段ハチ公の行つたことのない場所で、大體彼は線路を越して行くことはありませんでした。

その夜に限つて知らない土地へ行つたといふことは、しかも露地の中で仆れてゐた點などを思ひ合はせると、犬は死ぬ時近所の土地を汚さぬ、醜い死骸を見せたがらない、と云ふ言ひ傳への通りで、これも私には不思議に思へます(渋谷驛 吉川忠一驛長)」
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達

☆ハチの死

昭和10年3月8日
竟に逝く。その報は各新聞夕刊紙上に大々的に報道され、渋谷驛前ハチ銅像は忽ち花輪、花束で埋まり、弔問者蝟集し、香煙累々として絶えず。行人をして思はず純情の涙を催させた。
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712824709903
渋谷駅に運び込まれたハチの亡骸に手を合わせる人々 (右から2人目がタクシーで駆けつけた上野八重子)

「もうハチもいけないのではないか……」とハチ公の姿を見る毎に左様思ふやうになつて来ました。

すると、五日のこと、全く力がなくなり、立つこともやつとと云ふ弱り方なので、「ああ、もうこれは長いこともあるまい。

しかしせめて四月二十一日のハチ公 像除幕一周年記念の日まで生かして置きたいものだが……」と念願してゐると、八日の朝五時、皆さんも既に御承知の通り、驛から三丁ばかり離れた八幡通り の加藤さんといふ酒屋の露路で、ハチ公の死骸が發見されました。
忠犬ハチ公の生涯|帝國ノ犬達

ハチのまだ温もりの残る亡骸は、1935年(昭和10年)3月8日午前5時頃に八幡通りで発見された。

そこは線路を渡った駅の反対側で普段ハチが行かない場所だったので、吉川駅長はハチが 『犬は死ぬとき親しんだ場所を自分の遺骸で汚したがらない』という言い伝えに従ったのかとの思いに打たれたという。

ハチの最愛の飼主・上野博士の10年目の命日が2ヶ月後に迫り、ハチ(1923年11月10日-1935年3月8日)自身は11歳と4ヶ月になろうとしていたときだった。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924710903
4日後の1935年(昭和10年)3月12日、渋谷駅でのハチの葬儀

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711503

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711303

☆『忠犬ハチ公の碑』

上野博士が遺言で希望していたように、火葬にされたハチの遺灰は青山霊園にある博士の墓の傍らにある祠に埋葬され、その隣には 『忠犬ハチ公の碑』 が立っている。
忠犬ハチ公 (前編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711803

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924711903

『ハチ』は亡くなった後、飼い主が勤めていた東京帝国大学農学部で、解剖され剥製になりました。
そして、内蔵はホルマリン漬けにされ同所に保存されることになったのです。

解剖の為、同所に運ばれてきた時には、酷く汚れていて、洗浄に数時間掛かったそうです。

死因の一つでもあった、フィラリア症の治療のためと思われる注射痕がありましたが、解剖時に注射液が流れ出てきたそうです。
(ボランティアでハチの治療が行われていたようです。)

ハチの遺骸は骨は火葬され上野博士の墓の傍の祠に埋葬されている。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720103
第2次南極観測隊の樺太犬タロ・ジロと共にいる

☆ハチ公像の歴史


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720703
ハチの死から間もなく、日本は日中戦争・太平洋戦争へと突入。

武器や建設資材にするための金属の不足が深刻になり、1941年(昭和16年)に金属回収令が出されて、ハチ公像も回収されることになった。

「戦争が終わるまでハチ公像を別所に保管する」 というのは、最初から真赤な嘘だったのか。

あるいは戦時中の混乱で連絡に行き違いがあったのか。

いずれにせよ、ハチ公像は10ヶ月後の1945年(昭和20年)8月14日――終戦の前日――溶解され、機関車の部品になってしまった。
忠犬ハチ公 (中編) – ハナママゴンの雑記帳

新しい銅像建立の際はその呼称を “忠犬ハチ公” から “愛犬ハチ公” と改めようとしたものの、 “愛犬” は定着せず

ハチ公像を制作した父親の照(1892-1945)は、1945年(昭和20年)5月25日に士の妹とともに空襲で死亡していた。

「近所の方が教えてくれました。 空襲で防空壕に逃げ、そこで焼死したと。」

士自身は宮崎県に配置されていたため難を逃れた。 偶然士に面会に行っていた母親も無事だった。

腹を空かせ、ぼろをまとい、履く靴すらなく、明日の食べものの保証もなかったが、「生きてさえいれば、何とかなる。」 そう思った。

庭を掘り返したら埋めておいた粘土が出て来たので、創作活動を再開した。
忠犬ハチ公 (中編) – ハナママゴンの雑記帳

☆新しいハチ公像は、1948年8月15日に除幕された。


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024721203
現在のハチ公は2代目

渋谷駅周辺の開発のため、ハチ公像は10回以上も移動されたという。 そうしながらずっと、渋谷の町を見守ってきた。
忠犬ハチ公 (中編) – ハナママゴンの雑記帳


https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720603

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720503

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720403
ハチ公像の前に噴水があったこともあった

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024720303

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024721603
そして現在に

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759713024721503
68年間にわたって多くの人になでられ、前脚がツルツルになり、色が変わった忠犬ハチ公像

https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101/2146759712924713803
去年2015年でハチ没後80年でした
https://matome.naver.jp/odai/2146758601415582101
2017年04月21日