▶1.名前が強い
1559年に元服し、本多「平八郎忠勝と名乗った。名前の由来は「ただ勝つのみ」。
本多忠勝~名槍が似合う戦国の豪将・徳川四天王としての生涯 -戦国武将800記事
シンプルに「ただ、勝つ」。それを名乗るとを決めたときから、忠勝は生涯無敗であることを決めていたのでしょう。
「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」
本多忠勝 – Wikipedia
“人の力を借りて武功を立てようとは思いません”
元服したのち、叔父である忠真の部隊に所属し、鳥屋根城攻めに出陣します。忠真は忠勝に手柄をあげさせようと、討ち取った敵の首を譲ろうとしましたが、忠勝はそれを断り、自ら敵陣に切り込み、見事敵の首を挙げます。
わずか14歳の若武者の心意気と実力に、忠真を含む武将たちは只物ではないと感じ入りました。
▶2.装備が強い
蜻蛉(トンボ)が飛んできて穂先に止まった途端、二つに切れてしまったことが名前の由来
蜻蛉切 – 名刀幻想辞典
忠勝の愛用していた長槍「蜻蛉切」は柄の長さが2丈(6m)あったと言われています。通常の長槍が1丈半(4.5m)であったことから、忠勝の力の強さが想像できます。
50歳を超えた1601年、槍を馬上で数回振り回したのち、柄を3尺(90cm)ほど短くしています。体力の衰えを感じながらも、「槍は自分の力に合うものが一番」と、なお勝利に対する謙虚な姿勢を持っていたことがうかがえます。
「あの鹿は伊賀八幡宮の使いに違いない。俺を助けてくれたのだ。」
忠勝装備品1
桶狭間の戦いの後、敵軍の偵察に単独で向かった忠勝はその状況を主君・元康(徳川家康)に一刻も早く伝えるため、帰り道を急いでいました。
しかし、悪天候が続いていたため、川が増水し、立ち往生してしまいます。
そこに一匹の大きな牡鹿が現れました。鹿は川沿いを少し歩くとその川を渡り始めました。
忠勝は鹿の後に続き、川の浅瀬を利用して川を渡ることが出来ました。
鹿に救われた忠勝は早速、伊賀八幡の神主に両脇に鹿の角をあしらった兜の製作を依頼しました。
▶3.気持ちが強い
「家康に過ぎたるものが二つあり唐(から)の頭(かしら)に本多平八」
家康に過ぎたるもの 本多忠勝
忠勝の勇姿に感心した、武田軍の小杉左近の言葉です。
一言坂の戦いにおいて、家康の予想を上回る武田軍の素早い行軍により、徳川軍は不利な地形での戦いを強いられることになります。撤退を決めた徳川本隊を逃すため、忠勝は殿(しんがり※軍の最後尾)を務めることになりますが、3段構えの陣の2段目まで突破され、窮地に立たされます。
小杉左近は忠勝の退路を断つため、後方に先回りして鉄砲を構えていました。忠勝は坂の下の小杉隊に決死の覚悟で敵中突破を図ります。小杉左近は忠勝の死をも厭わぬ姿を見て、攻撃をやめ、道を空けるように指示をしました。
このとき忠勝は左近にその名を伺い、感謝の言葉を述べたと言われています。
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」
本多忠勝 – Wikipedia
忠勝が亡くなるときに残した言葉です。
晩年の頃は戦場での活躍よりも政治、行政での働きが重視される世の中になり、忠勝のような武将は次第に中枢から遠ざけられて不遇の身となっていました。
しかし、亡くなる時まで家康への忠義をもち、家康よりも先に逝く不幸を嘆いています。
「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」
本多忠勝・徳川最強の男
忠勝が亡くなる数日前に小刀を使って自分の持ち物に名前を彫っていたところ、誤って自分の手を傷つけたときに発した言葉です。
大小合わせて57の戦に参加し、すべての戦いにおいて傷ひとつ負わなかったと言われる忠勝。戦場においては天下無双の猛将でしたが、戦の後には心を痛め、憂鬱になることもありました。
自らが葬った相手方の武将を弔うために、出陣の際は常に鎧の上から大きな数珠を肩にさげていたそうです。
武芸の腕もさることながら、主君への忠義、相手を思いやる気持ちなど、「心・技・体」のすべてにおいて強さを持っていたようです。




