チートすぎる戦国武将 チート爺達編

kaya426
チートな逸話の多い戦国武将のまとめ

チート爺

チート爺とは、主に世界の歴史上・アニメ・ゲームに於いて活躍する、老いてなお盛んな高性能じいちゃん達を示す言葉である。彼らのラスボスは寿命のみである。

北条早雲


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北条早雲
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

【主な活躍】
●伊豆討入り
早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った
●小田原城奪取
相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取
●相模平定
扇谷朝興を度々撃退、相模三浦氏を滅ぼし相模全域を平定

尼子経久


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尼子経久
・浪人の身から山陰山陽地帯11カ国を支配するまでに成り上がった下克上の先駆者
・文武両道に優れ、中国地方の三大謀将に数えられる謀将
・持ち物を褒められるとどんな高価なものでも喜んで与えてしまう物に執着しない大物
・庭の松の木なら大丈夫だろうと褒めたら引き抜いて薪にして与えてしまったお茶目さん
・息子・尼子政久が戦死すると降伏する者も合わせて尽く討った鬼

【主な活躍】
●月山富田城を鉢屋衆と旧臣100人で正月に奇襲して奪取
●京極氏からの独立
●大友家と結んで大内包囲網を形成
●石見銀山を確保
●安芸・備中・備後・美作に進撃
●山陰山陽11カ国の太守となる
●絵筆をとって自画像を描く、三条西実隆に師事して和歌を学ぶ、伊勢物語を書写する等、芸術にも精通

龍造寺家兼


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龍造寺家兼

龍造寺氏の本家同僚の馬場頼周の謀略によって(龍造寺家兼が大内家が攻め込んできた際に動かず、少弐資元が自害した事が遠因とされている)龍造寺家兼の二人の息子龍造寺家純と龍造寺家門や孫達をことごとく暗殺されてしまい、龍造寺家兼も筑後の蒲池鑑盛の元へ逃げ出す非常事態が発生した。

肥前国の戦国大名龍造寺氏の武将で、齢90を越えて没落した龍造寺氏復興の為に立ち上がった。

【主な活躍】
●鍋島清房らと共に仇敵馬場頼周を討ち果たした。
●曾孫の龍造寺隆信を還俗させる旨を遺して、93歳にて大往生を遂げた。
●龍造寺氏が一大勢力として飛躍を遂げる基礎を築いた人物

朝倉宗滴


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朝倉宗滴

朝倉 宗滴(あさくら そうてき) / 朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた

1555年、加賀に出兵した際に病に倒れ、79歳で亡くなった。

【主な活躍】
●加賀の一向一揆と戦い、数十万とも言われた一向宗を1万の軍勢で打ち破った
●北近江の浅井亮政と六角氏との戦いでは六角側に味方。浅井氏の居城である小谷城付近に5ヶ月も居座った(この為、浅井氏は朝倉氏にたいして相当のトラウマを抱え、終始朝倉に味方した)
●伝説の茶器、九十九髪茄子を所持していた

島津日新斎


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島津 忠良/島津日新斎

「島津忠良」(しまづ・ただよし 1492 ~ 1568)とは、「薩摩の聖君」として崇められる戦国時代の薩摩国の武将であり、戦国大名としての島津家の初代とされる傑物である。

入道して「日新斎(じっしんさい)」と名のる。
「島津家中興の祖」と呼ばれ、以降の島津家中に大きな影響力を与えた。

忠良は団結を歌った『いろは歌』の創作でも有名である。この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。

●いろは歌の創作
●薩摩統一
●釣り野伏の考案
●養蚕等の産業を奨励

毛利元就

毛利元就

「毛利元就」(もうり・もとなり 1497年4月16日 – 1571年7月6日)とは、日本の戦国大名。

安芸(現在の広島県西部)の小規模な弱小領主の次男として生まれながら、権謀術数を駆使して勢力を拡大。一代で中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。

【主な活躍】
●「西国の桶狭間」と言われる有田中井手の戦いで初陣
毛利800 VS 武田5000

●異母弟・相合元綱の謀反を平定
●安芸の国人領主たちを次々配下に組み込む
●吉川、小早川を乗っ取り、両川体制を確立
●吉田郡山城の戦いで尼子軍撃退
毛利軍2,400 VS 尼子軍30,000
●折敷畑の戦いで勝利
毛利軍3,000 VS 陶軍7,000
●厳島の戦い
毛利軍4,000 VS 陶軍25,000

●生涯200戦近く戦い抜く(戦国最多)

真田昌幸


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真田昌幸

「表裏比興の者」(後背が定かではない)の名前のとおり、ともかく生涯でアッチコッチを色んな意味で裏切りながら駆け抜けていった人物である。あまりの裏切りっぷりに昌幸が元々どこの所属だったか、敵も味方も分からなくなってしまうほど裏切りを重ねていった生涯であった。反省はしていない。

なお嫌いな物は徳川家である。

【主な活躍】
●上田合戦で2度にわたって徳川の大軍を撃退
第一次上田合戦戦力
真田2,000 VS 徳川7,845
第二次上田合戦戦力
真田3,000 VS 徳川38,000

甲斐 宗運


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甲斐 親直 / 甲斐 宗運

戦国時代の肥後阿蘇神社の大宮司である阿蘇氏に仕えた、生涯六十余度の合戦に不敗の伝説を持つ最強坊主。「宗運」は出家後の名乗りであり、本名(諱)は「親直」。

戦国最強の島津とも渡り合い、しかも生涯不敗。
息子たち内通発覚の際は容赦なく切り捨てる。
まさに主家のために修羅と化したモンスターおじいちゃん。

【主な活躍】
●60余度の合戦で生涯不敗
●伊東氏への内通を画策したというだけで三人の息子を成敗
●娘婿も成敗
●阿蘇家存続の為、龍造寺家と島津家の間で絶妙な外交手腕を発揮して主家滅亡を回避し続ける

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2020年06月23日