▼連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の放映が開始されました▼
▼暮らしの手帖はご存知ですか?▼
*喫茶セピアよりお知らせ*
今日から楽しみにしていた『とと姉ちゃん』が始まりましたね♬
セピアに70年代の暮らしの手帖を数冊置いています。
読みに来て下さいね~♡ pic.twitter.com/Ki0q7x7NKo— 柴又*昭和レトロ「喫茶セピア」 (@sepia_mama) April 4, 2016
なにやら視聴率の良いらしい、朝ドラ『とと姉ちゃん』。内容知らず観てみる。朝ドラはあまちゃん以来。始まってすぐ、”あなたの暮らし”、とな……!?!?!?これは広告デザイン出身である私の憧れの雑誌、『暮しの手帖』じゃないのっ!!!!! pic.twitter.com/GzrRCEkpaq
— まいこん@人生しゅぎょうちゅう (@lionlapin) April 8, 2016
▼暮らしの手帖社で作られています▼
大橋鎭子(おおはししずこ)さん近影です。
大橋は戦争中、防空壕のなかで、自分が見たい、知りたいと思うことを本にすれば、戦争で学校にも満足に行けなかった多くの女性たちに喜んでもらえるだろう、と考えていました。
ドラマチックですね。
また花森は、戦争への反省から、一人ひとりが自分の暮らしを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中にしたいと考えていました。そんな二人が毎日の生活を少しでも豊かで美しくするために、手作り家具や直線裁ちの服などを提案していこうと一致し、創刊しました。
▼大橋鎭子さんとは▼
普通にかわいい?
亡き父に代わって、母とふたりの妹を幸せにする。
戦争で苦労した女の人のための雑誌をつくる。
その強い思いを胸に、ただまっすぐに駆け抜けた、
しずこさん93年の生涯は、人への愛情にあふれていました。
次女・晴子、三女・芳子の三人姉妹。父親を早くに亡くした鎭子は、わずか10歳で喪主を務めます。「お母さんを助けて、妹の面倒をみるように」という父の遺言どおり、家族をしあわせにしなければ、と心に誓いました。
1948(昭和23)年、雑誌『暮しの手帖』を創刊し、のちに社名を「暮しの手帖社」に変更。広告を排除し、衣食住をテーマにした誌面づくりで、読者から高い支持を得ました。
1978(昭和53)年に花森が没した後もその意志を継ぎ、人々の暮らしに役立つ雑誌であり続けたいと願って、経営と編集に尽力。93歳で亡くなる1年ほど前まで、朝9時から夕方5時半の勤務を続けました。
2013年4月1日の毎日新聞にて、亡くなられたニュースが掲載されたそうです。
▼暮らしの手帖を一緒に作った花森安治さんとは?▼
のじまさとこ@satokotodoru
おかっぱ頭やスカート姿が有名な個性派であると同時に、豪放磊落な性格、仕事に対する真摯な態度が多くの人を魅了しました。
花森安治は神戸に生まれて、平塚雷鳥の本と宝塚歌劇で育った。平塚と宝塚のもつ両性具有性が花森をはぐくんだというのが、もっぱらの通説だ。
「こんどの戦争に、だれもかもが、なだれをうって突っこんでしまったのは、ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしていなかったからだと思う。人は暮らしの中身がまずしいと、投げやりになり、いっちょやれ! と、おおきいことをやりたくなる」…花森安治が大橋鎮子に語った言葉。 #とと姉ちゃん
— 龍陽⛵海容 (@unbonvinblanc) April 6, 2016
「読書新聞」編集長の田所太郎の紹介で大橋鎮子がたずねてきて、女性のための雑誌をつくるので手伝ってほしいと言った。花森は「男たちの勝手な戦争が国をむちゃくちゃにした」のだから、「自分も女性のために償いたい」と言って、最初は衣裳研究所をおこして『スタイル・ブック』を、ついでは『暮らしの手帖』に乗り出していった。これが大当たりしたのである。
その後《スタイルブック》シリーズ(1946-1947)を経て1948年、季刊《美しい暮しの手帖》を創刊した(1953年の21号までは誌名に〈美しい〉が入る)。1968年以降隔月刊となった。
花森は企画選定や取材やじっさいの記事執筆だけでなく、ページレイアウト、見出しの書き文字レタリング、毎号の表紙絵まで自分で担当した。
新朝ドラ「とと姉ちゃん」を見る前に知っておきたい最低限のこと 大橋鎭子と花森安治と「暮しの手帖」 – エキレビ!(2/3)
1978年、心筋梗塞により逝去。花森追悼号となった『暮しの手帖』第2世紀53号の表紙画には、花森が描いた予備のものが使われた。
花森安治 – Wikipedia