▼明朗快活で聡明なプリンセス
▼都随一の権勢を誇る、華麗なる一族の長女
祖父は藤原兼家
[929~990]
右大臣藤原師輔の三男。
策略によって花山天皇を退位させ、娘・詮子が生んだ一条天皇を即位させ、自身が摂政・関白となる。
その後、息子の道隆にその地位を譲って世襲を固める。
以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。
兄藤原兼通との激しい確執や、妻の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。
父は藤原道隆
[953~995]
摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。
甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進し、娘の定子を女御として入内させて、後に中宮となす。
父兼家が死ぬと後を継いで関白となり、朝政を主導する。
病気する姿も美しいと言われた美貌の持ち主。
軽口を好み、おおらかで明るい風雅人だった。
中関白家の華やかで派手好きな家風は、道隆の性格によるところが大きい。
母は高階貴子
[?~996]
学者として高名な高階成忠の娘。
高階氏は在原業平と伊勢斎宮恬子内親王の子孫であるとされる。
円融天皇の内侍となり、高内侍と呼ばれる。
『大鏡』などによると、貴子は女性ながら和歌を能くし、漢学、漢詩の素養も深く、円融天皇も一目置かれたほどの才媛だった。
藤原道隆から求婚され、「わすれじの 行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな」という有名な歌を詠む。
その後、道隆との間に伊周、定子、隆家ら三男四女を設けた。
枕草子に見える定子や伊周の才智も、この母によるところが大きい。
兄は藤原伊周
[974~1010]
道隆の二男(貴子の長男)。
18歳で参議、21歳で内大臣となった王朝のスーパーエリート。
才名高かった母貴子から文人の血を享け、漢学に関しては一条朝随一の才能を公認され、早くから一条天皇に漢籍を進講した。
『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』に多くの秀逸な漢詩文を残し、その感慨に富む筆致は時に世人の涙を誘った。
歌集『儀同三司集』は散逸してしまったが、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に6首が採録されている勅撰歌人である。
『大鏡』は、その学才が日本のような小国には勿体なかったと言っている。
また、その容姿は端麗だったと『枕草子』『栄花物語』などに見える。
[979-1044]弟は藤原隆家
道隆と貴子の子。
「こころたましひ」(気概)有るものとして朝廷で一目を置かれ、有史以来、初めて日本に侵入した外敵(刀伊の入寇)を打ち破った英雄。
▼詳しくはこちらのまとめをご参照ください。
消された英雄 藤原隆家 ー美しく猛き貴公子の生涯ー
https://matome.eternalcollegest.com/post-2145793161363337201
[980~1002]妹は藤原原子
東宮居貞親王(のちの三条天皇)に入侍。
淑景舎を局とし、淑景舎女御、内御匣殿などと称されて東宮の寵愛を受けた。
当世風の華やかな人柄であった。
枕草子には「いみじうげにめでたく美し(とても可愛らしくて美しい)」と記されている。
▼一条天皇が純愛を捧げた寵姫 光り輝く宮中の華
一条帝が生涯で最も愛した女性は、間違いなく中宮定子でしょう。
当時の概念に「純愛」というものがあったかどうかは分かりませんが、一条天皇と中宮・藤原定子は、まさに純愛と言える間柄でした。
枕草子には、ふたりの仲睦まじい様子が数多く記されています。
▼目配せをしながら 一条天皇といたずらを楽しんだことも…
一条帝の父・円融院の一周忌の頃、乳母の藤三位(藤原繁子)のもとに匿名の文が届いた。中には、「これをだに形見と思ふを都には葉がへやしつる椎柴しゐしばの袖(円融院が亡くなって1年しか経っていないのに、もう華やかな衣装を着て楽しくやっているのか)」と書いてある。
乳母は驚いて、一条帝と中宮定子に文を見せる。一条帝も定子も「誰が書いたんだろうね」などと言っているが、実は、書いたのは一条帝。心を許した乳母に対する帝のいたずらであった。
誰が書いたのかと憤慨する乳母を前に、帝と定子は目配せをして楽しんでいたという。
枕草子「円融院の御はての年」より
これをだに かたみと思ふに 都には 葉がへやしつる 椎柴(しひしば)の袖
と書ひたり。いとあさましう、ねたかりけるわざかな、誰がしたるにかあらむ。仁和寺(にんなじ)の僧正のにや、と思へど、よにかかる事のたまはじ、藤大納言(とうだいなごん)ぞ、かの院の別当におはせしかば、そのし給へる事なめり、これを、上の御前、宮などに、疾くきこしめさせばや、と思ふに、いと心もとなくおぼゆ
一条天皇が中宮定子にいたずらを持ちかけ、藤三位の前で一緒にとぼけていた様子を想像すると、なんとも微笑ましい気分になります。
いたずらを共有するほど、帝と中宮は仲睦まじく、いつも一緒にいたのです。
▼一条帝が何より愛しんだのは、中宮定子と過ごす煌めくような時間
ある春の日、一条帝は清涼殿の上の御局で、中宮定子や伊周たちと歓談していた。
昼になり、帝は昼食を取るためにいったん退席されたが、すぐに昼食を取り終わり、配膳が片づけられるのも待たず、中宮定子のもとに戻ってこられた。
枕草子「清涼殿の丑寅(うしとら)の隅の」より
陪膳(はいぜん)つかうまつる人の、男(をのこ)どもなど召すほどもなく、わたらせ給ひぬ。
一条天皇にとっては、中宮定子のサロンで過ごす時間が何より楽しく、片時も定子のそばを離れたくなかったのでしょう。なんとも仲睦まじい様子が伝わってくるエピソードです。
▼一条帝から定子に注がれる激しい寵愛
中宮定子のいる登花殿に、定子のご両親やご兄弟、妹の淑景舎の君が訪ねて来られた。
一家が集まり、華やかな歓談の時となった。なんとこの時、一条帝は自ら登花殿にお渡りになり、定子を御寝所に誘われた。
夜は夜で文が届き、またも定子を御寝所に召された。
枕草子「淑景舎春宮にまゐりたまふほどのことなど」より
未(ひつじ)の時ばかりに、「筵道(えんどう)まゐる」など言ふほどもなく、うちそよめきて入らせ給へば、宮も、こなたへ入らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房も南面(みなみおもて)に皆そよめき去ぬ(いぬ)めり。
宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけ、参りたり。(宮)「今宵は、えなむ」など、しぶらせ給ふに、殿聞かせ給ひて、(道隆)「いとあしきこと、早、のぼらせ給へ」と申させ給ふに、また春宮(とうぐう)の御使しきりてあるほど、いと騒がし。
枕草子の中で、最も華やかなエピソードとして知られる章段です。
登花殿に集う美しい一家に、清少納言は終始感嘆します。
さて、一条帝は片時も中宮定子のそばを離れたくない様子で、昼は家族団らん中の定子を訪ね、夜はお召しになりました。
一条帝の中宮定子への寵愛は並々ならぬものだったのです。
▼定子が後宮に築いた一大サロン 堂々たる女主人としてサロンに君臨する美しい姫
定子の下には、清少納言はじめ、宰相の君(さいしょうのきみ)、中納言の君(ちゅうなごんのきみ)、式部のおもと(しきぶのおもと)、弁のおもと(べんのおもと)、小兵衛のおもと(こひょうえのおもと)、赤染衛門(あかぞめえもん)など、教養ある女房が数多く集い、一大サロンを形成しました。
若干20歳前後の定子は、太陽の様にサロンのメンバーを照らし続けます。
サロンは学才豊かで明朗快活な定子の人柄を反映し、教養高く機知に富んだ憩いの場となり、後宮の人気を博しました。
▼サロンのメンバーへの行き届いた配慮、人材育成の才能
ある日のこと。いつもの様に、一条帝や伊周らが定子の御殿で歓談されていた。
中宮定子は、清少納言ら女官に白い紙を手渡し、「今思い浮かぶ古い歌を1つずつ書いてみなさい」と仰った。一条帝や伊周といった高貴の方々を前に、清少納言ら女官は、腕試しをすることになったのである。
清少納言は、「年経れば齡(よわい)は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし(年を重ねて年老いたけれど、花を見れば辛く思うこともない)」という歌の「花」を「君」に置き換えた歌を書いて、定子から褒めていただいた、と枕草子に書き残している。
枕草子「清涼殿の丑寅(うしとら)の隅の」より
白き色紙(しきし)おしたたみて、これに、ただ今覚えん古き事、一つづつ書け」と仰せらるる
清少納言たちお付の女房からすれば、この様な晴れがましい機会があれば、気を抜かず、ますます教養を深めようとするもの。
また、清少納言の機知に富んだ歌を皆の前で賞賛することで、和歌に対する教養だけでなく、当意即妙の機知も奨励しました。
定子の指導力が光るエピソードです。
▼サロンのメンバーを鼓舞する人心掌握術
次いで中宮定子は、「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは・・・」と、村上帝時代の話を始める。そして。宣耀殿の女御である藤原芳子が、古今和歌集の歌を20巻全部記憶していた、というエピソードをそこにいた方々に紹介した。
枕草子「清涼殿の丑寅(うしとら)の隅の」より
「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左の大臣殿(おほいとの)の御女(おむすめ)におはしけると、誰かは知りたてまつらざらん。まだ姫君と聞えける時、父大臣(おとど)の教へ聞え給ひけることは、『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より異(こと)に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌廿巻(にじゅっかん)を、皆うかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ
中宮定子は、この様に昔の教養人の逸話を紹介することで、我こそはと思う女房たちを鼓舞しました。
これは、定子の指導者としての手腕もさることながら、見識が広くないと出来ない芸当です。かつて高内侍とよばれ、宮中に仕えた母・貴子から聞いたのでしょうか。中宮定子は博識だったようですね。
また、村上帝は、夫である一条帝の祖父で、一条帝が手本としていた帝でしたです。
中宮定子は、あくまでもお付の女房に話して聞かせるという対面を取りながら、そこにいる一条帝も、興味を惹かれる話題を選んでいたのです。
▼文化人の清少納言も尊敬する定子の教養の高さ
頭中将・藤原斉信が、清少納言に「蘭省花時錦帳下の下の句は?」という文を送った。
そして、清少納言は「草の庵を誰か尋ねむ」という返歌を送り、この切り返しが大変素晴らしいと喝采を浴びた ー という有名なエピソードがある。実はこの時のことを、清少納言は「(斉信からの文に)何と返事をするべきか、中宮定子様に相談をすればきっとお知恵を授けてくださるだろうけど、もうお休みになっているし…得意げに漢詩で返事するのも見苦しいし、と思い悩んだ」と、枕草子に書き残している。
つまり、出来ることなら中宮定子からアドバイスをもらいたかったのである。
枕草子「頭の中将のすずろなるそら言を聞きて」より
「蘭省花時錦帳下」と書きて、「末はいかに、末はいかに。」とあるを、いかにかはすべからむ、御前おはしまさば、御覽ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく責めまどはせば、ただその奥に、炭櫃(すびつ)に消え炭のあるして、「草の庵を誰か尋ねむ」と書きつけて取らせつれど、また返事も言はず。
この逸話は清少納言の有能さを知るエピソードとして有名です。しかし、教養の高い清少納言でさえ、「御前おはしまさば、御覽ぜさすべきを(中宮様がいらっしゃったら、どう返事すればよいか相談に乗っていただけるのに)」と記しているのです。
定子は清少納言より10歳以上若く、20歳前後でした。
しかし清少納言らサロンのメンバーは、若い女主人を不安に思うどころか、尊敬し、信頼していたのです。
学者の家に生まれ、幼いころから英才教育を受けた清少納言が、「相談したい」と思うとは、定子の教養の高さがうかがえますね。
▼自らがサロンの筆頭として、華やかな文化的交流を楽しむ
中宮定子は加茂の薺院とも交流があり、ある日、薺院から中宮宛に文が届いた。中宮定子の多幸長寿を願った歌であった。
定子は文を受け取ると、すぐさま返歌の作成に取り掛かられた。
枕草子「職の御曹司におはしますころ」より
卯槌の頭包みたる小さき紙に、
「山とよむ斧の響きを尋ぬれば祝ひの杖の音にぞありける」
御返り書かせ給ふほども、いとめでたし。
加茂の斎院と言えば、風流人の聞こえも高く、一大サロンの主催者として、誰もが一目を置いていました。
中宮定子は、斎院とも交流があり、直接歌のやり取りをしていたのです。
さすが中宮定子。華やかな交流関係です。
▼抜群のイベントプロデュース、衣装センス
五節の舞姫の衣装を、中宮がプロデュースしたことがある。
素晴らしい趣向で、定子のセンスの良さに皆が感心したという。しかも、この衣装は、当日まで、お付の女房や父・道隆らにも内密で準備したものだという。
枕草子「宮の五節出ださせ給ふに」より
辰の日の夜、青摺の唐衣(あおずりのからぎぬ)、汗袗(かざみ)を、皆着せさせ給へり。女房にだに、かねてさも知らせず、殿人にはまして、いみじう隠して、皆装束したちて暗うなりにたるほどに、持て来て着す。
中宮定子は、和歌や漢詩だけではなく、センスも抜群だったのです。
父や兄弟、女房たちにも内緒で衣装を作らせるなど、いつも周囲の人を思い遣り、楽しませていました。
▼サロンのメンバーを団結させた定子の優れた人格
小兵衛という女房が、中将実方から「あしひきの山井の水はこほれるをいかなる紐の解くるなるらむ」と歌をよみかけられたが、とっさに返事ができなかった。
たくさんの人が聞いている中、即座に歌を返せないのはまずいと心配した清少納言が、代わりに歌を作り、返答させようとした。
枕草子「宮の五節出ださせ給ふに」より
「詠む人はさやはある。いとめでたからねど、ふとこそうち言へ」と爪はじきをしありくがいとほしければ、うは氷あはに結べる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりを、と、弁のおもとといふに伝へさすれば、消え入りつつえも言ひやらね
清少納言は、定子サロンのメンバーである小兵衛の女房が困っていたので、すぐに助けようとしました。
小兵衛の女房が当意即妙に歌を返せければ、定子サロンの評判に傷がついてします。それが許せなかったのです。
清少納言を始め女房たちは、定子サロンに誇りを持っていました。そしてお互いに切磋琢磨し、時には助け合いながら、定子サロンを高めていきます。
良い歌には素直に感動し、機知に富んだ発想を積極的に賞賛する定子の姿勢が、サロンのメンバーを太陽の様に照らしていました。
▼機知に富んだ切り返し、当意即妙の才
一条帝が「無名(むみょう)」という名の琵琶の琴を持って、中宮定子のもとに来られた。
琵琶の琴を見て「何と言う名の琵琶の琴ですか?」と問う僧都の君に、中宮は「ただもうつまらない物だから、名前もないのよ」と答えた。
枕草子「無名といふ琵琶の御琴を」より
「これが名よ、いかにとか」と聞えさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、のたまはせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。
中宮定子の機知が冴えるエピソードです。
定子の優れた人格、博識の教養、機知に富んだ明朗快活な性格。定子に傾倒していた清少納言は、このやり取りを「なほいとめでたしとこそ覚えしか(本当に凄く素晴らしいと強く感じた)」と書き記しています。
▼妹君のピンチをユーモアで救う
中宮定子の妹君である淑景舎が、「いなかへじ」という名の笙の笛を持っていた。
この笛を、弟の隆円僧都が欲しがったため、淑景舎は困って黙り込んでしまった。なおも食い下がる隆円僧都に、中宮定子が「淑景舎は、いなかへじ(嫌だ交換しない)と思っているのですよ」と仰った。
枕草子「無名といふ琵琶の御琴を」より
宮の御前の、「否、かへじ、とおぼしたるものを」と、のたまはせたる御けしきの、いみじうをかしきことぞ限りなき。
こちらも、中宮定子の洒脱で明朗な人柄がうかがえるエピソード。清少納言は「いみじうをかしきことぞ限りなき(大変素晴らしいこと限りなし)」と絶賛しています。
妹君が困っているのを察し、ユーモアを交えて助ける。定子の懐の深さもうかがえます。
▼当時としては稀有とも言える高い漢詩の教養
清少納言が中宮定子の幻想的な美しさに感動し、白氏文集の「琵琶行」に例えて賞賛した。
それを伝え聞いた定子も、「琵琶行」の一説を引用して応えた。
枕草子「上の御局の御簾の前にて」より
御額のほどのいみじう白うめでたく、けざやかにて、はづれさせ給へるは、譬ふべき方ぞなきや。近く居給へる人にさし寄りて、(清少納言)「半ば隠したりけむは、えかくはあらざりけむかし。あれは、ただ人にこそはありけめ」と言ふを、道もなきに分けまゐりて申せば、笑はせ給ひて、「別れは知りたりや」となむ、仰せらるる、と伝ふるも、いとをかし。
清少納言の様に学者の家に生まれ、特別な教育を受けたものでなければ、当時の女性は漢詩を読めませんでした。
しかし、定子は漢詩である「琵琶行」を引用した清少納言の言葉に、同じく「琵琶行」を引用して応えます。
これは、中宮定子が、当時では稀有な教養と博識を身に着けた妃であったことを意味しています。
▼器の大きな人格者
中宮定子が、歌の才が無いと悩む清少納言に「さらば、ただ心にまかす。我は、詠めとも言はじ(なら思うようにしなさい、もう無理やり歌を詠めとは言いません)」と寛大な言葉をかけた。
その後、ある歌会のあった夜に定子は、「著名な歌人の父を持つあなた、今宵の歌会には参加しないのね」と送った。清少納言は、「元輔の娘じゃなければ参加したんですけどね」と返した。
枕草子「五月の御精進のほど」より
元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる
その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし。
清少納言は、情緒あふれる歌よりも、機知やユーモアを得意としました。
しかし、著名な歌人の祖父と父を持つ清少納言に、周囲は格別に素晴らしい歌を期待しました。
悩む清少納言に、中宮定子は「歌を詠まない」ことを許します。これは、所属しているミュージシャンに歌を歌わなくても良いと言うようなもの。
定子は、このような寛大な措置が取れる優れた人格者だったのです。
また、清少納言の得意とするところを理解し、ユーモアに富んだ返答を引き出す歌の投げかけも素晴らしいです。
▼清少納言が心から敬愛する魅力的な姫
清少納言は日ごろ、「愛されるなら1番でなくては。2番目や3番目なら、死んだ方がマシ」と言っていた。
しかし、ある機会に「中宮様に可愛がっていただけるなら、何番目でも良いです」と謙った清少納言に対して、定子は「言い切ってしまった事は、そのように初志を貫くべきです」と叱咤した。
枕草子「御方々君たち上人など御前に人のいと多く侍へば」より
「九品蓮台(くほんれんだい)のあひだには、下品といふとも」など書きてまゐらせたれば、「無下に思ひ屈じにけり。いとわろし。言ひとぢめつる事は、さてこそあらめ」と、のたまはす。「それは、人にしたがひてこそ」と申せば、「そが、わろきぞかし、第一の人に、また一に思はれむとこそ、思はめ」と、仰せらるる、いとをかし。
「言ったからには初志貫徹するべき」「一番大切な人に、一番に思ってもらえるよう努めるべき」という、中宮定子の清々しい言葉が印象的なエピソードです。
▼清少納言がここ1番で頼るのは、いつも定子
清少納言が、当代随一の文化人と名高かった藤原公任から「すこし春あるここちこそすれ」と歌を詠みかけられた。
この時も、清少納言はやはり中宮定子からアドバイスを得ようとしている。しかし、定子は一条帝と共に御寝所にいたため相談できなかったようである。
清少納言は思案の末、「空寒み花にまがへて散る雪に」と上の句を付けて返答している。
清少納言「二月のつごもりころに」より
皆いと恥づかしき中に、宰相の御答へを、いかでかことなしびに言ひ出でむと、心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして御殿籠りたり。
当代随一の文化人から応酬を受け、ここ一番の返答をしたい清少納言が頼ろうとしたのも、やはり中宮定子でした。
歌人の家系に生まれ、鳴り物入りで宮中に出仕した清少納言も、定子に絶大な信頼を置いていたのです。
これらのエピソードの他にも、枕草子には、新米女房を優しくもてなす定子の姿や(「宮にはじめて参りたるころ」の章)、「山の端明けし朝より」「ならぬ名の立ちにけるかな」という清少納言との歌の掛け合いなど、華やかなサロンの様子が随所に描かれています。
また、有名な「香炉峰の雪」のやり取りや、「声、明王の眠りを驚かす」と伊周が吟じたエピソードなど、定子が、高い漢詩の教養を持っていたことが分かる逸話も随所に散見されます。
定子はサロンの主催者であるだけではなく、サロンを導き、自らが主役となって風流を追求しました。
▼栄光の日々に陰りが…始まりは父道隆の死…
長徳元年(995年)4月10日、関白であった定子の父道隆が死去すると、政権は国母・東三条院詮子の介入により定子の叔父道兼、ついで道兼が急死するとその弟道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は急変した。
藤原定子 – Wikipedia
帝の生母・藤原詮子が道長に肩入れしたことが原因でした。
詮子は、一人息子である一条天皇を定子に取られたような気がして恨んでいた、という説もあります。
さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こして左遷される(長徳の変)
藤原定子 – Wikipedia
花山法皇奉射・東三条院呪詛・大元帥法を行った罪状三ヶ条を理由に、2人の兄は流罪となりました。
父・道隆の死からたった1年で、人生は暗転してしまったのです。
▼後ろ盾である実家が没落し、一転、悲劇のプリンセスへ
華やかな日々は一転、定子は後ろ盾を失ってしまいます。
権勢の中心にいた定子が、このような悲劇に見舞われることを、誰が想像していたでしょうか。
当時懐妊中の定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が検非違使に捕らえられることを見て、自ら鋏を取り落飾した。
藤原定子 – Wikipedia
現天皇の妃が自らハサミを取り髪を切るというのは、前代未聞の出来事でした。
それほどまでに、定子の悲しみは深かったのです。
中宮定子の突然の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く
藤原定子 – Wikipedia
悲しい出来事が、次々と定子を襲いました。
枕草子には決して描かれなかった定子の悲劇です。
定子は長徳2年(996年)12月16日、第一子・脩子内親王を出産した
藤原定子 – Wikipedia
悲劇の中、定子は長女を出産しました。
常の状態でも出産は不安なもの。ましてや、このような悲劇の中の出産は、どれほど心細く、みじめだったことでしょう。
▼不遇の時も色褪せることのない定子の聡明さ
どのような不遇の時も、定子は聡明さを失いませんでした。
美しく、風流で明朗快活な定子の資質は、ますます冴えていきます。
枕草子には、定子がどのように輝いていたか、定子サロンがいかに楽しく素晴しい場所であったかが克明に描かれています。
▼どんな時も志を高く
生昌の配慮が足りないせいで、車を降りて歩くことになり、殿上人や下級役人にジロジロみられて不愉快だったと言う清少納言に向かって、中宮定子は「気を遣わずに済む生昌の家だからといって、人に姿を見られないことなどないでしょう。なぜ気が緩んでいたのです」とお笑いになられた。
枕草子「大進生昌が家に」より
御前(おまへ)に参りて、ありつるやう啓すれば、(宮)『ここにても、人は見るまじうやは。などかは、さしもうち解けたる』と、笑はせ給ふ。
中宮定子の、自身のサロンと、そのメンバーに対する高い美意識がうかがえるエピソードですね。優しく笑いながら、さり気なく「いつ人に見られても魅力的であるように」と諭すなんて、なんて器の大きい指導者でしょうか。
▼サロンを明るく照らし続ける
定子が職の御曹司にいた頃も、定子サロンには、殿上人の訪問が絶えなかった。急ぎの用がなければ、殿上人たちは必ず定子サロンに顔を出し、機知に富んだやり取りを楽しんだという。
枕草子「職の御曹司におはしますころ」より
夜も昼も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部まで、まゐりたまふに、おぼろけに急ぐ事なきは、かならずまゐりたまふ。
実家が没落しても、定子サロンは活気を失いませんでした。
それは、一条天皇のゆるぎない寵愛があったから。
また、当代随一の教養高きサロンであるという、清少納言ら文化人の誇りによって。
そして何より、定子の聡明で快活な人柄が、サロンを導いていたのです。
▼清少納言ら女官にも一流であり続けることを求める
清少納言ら数名の女房がホトトギスの声を聞きに出かけたが、歌を詠まずに帰ってきた。中宮定子は、タイミングよく歌を詠まなかった清少納言らを叱責した。
枕草子「五月の御精進のほど」より
「さて、いづら、歌は」と問はせたまへば、かうかうと啓すれば、「くちをしのことや。上人(うえびと)などの聞かむに、いかでか、つゆをかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそは詠まましか。あまり儀式定めつらむこそ、あやしけれ。ここにても詠め。いと言ふかひなし」など、のたまはす
定子サロンのメンバーがホトトギスの声を聞くために出かけたと知れば、公達たちは「どんな風流な歌を詠んだのだろう」と期待します。その期待に応えんとする、中宮定子の気概が伺えるやり取りです。
また、「鳴き声を聞いたら、すぐに詠むべき」「あまりかしこまり過ぎるのは良くない」「今でも良いので詠みなさい」と、清少納言らに具体的な助言もしています。
他にも、「いはでおもうぞ(口には出さないけれど、あなたを大切に思っていますよ)」と清少納言に歌を贈ったエピソードや、乳母に贈った「あかねさす 日に向ひても 思ひ出でよ 都は晴れぬ ながめすらむと(日が明るい日向に行かれても、私が都で泣いて晴れない気持ちでいることを思い出してください。)」という歌など、定子の高い教養と愛情深い人柄が随所に散見されます。
▼ますます定子に寵愛を注ぐ一条天皇
一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れた。
藤原定子 – Wikipedia
一条帝は、定子を再び宮中へ呼び戻しました。
出家した妃を後宮に迎えることは前代未聞のことです。
しかし、一条天皇は、清涼殿の近くに定子用の別殿を準備し、定子が非難されぬよう天皇自ら夜遅く通い、夜明け前に帰るという思いの深さだったといいます。
▼一条帝と共に、笑いの絶えない時を過ごす
女房の局に、一条帝と中宮定子がお忍びで現れ、気付かず女房に声をかける殿上人達を見て楽しまれたことがあった。清少納言は式部のおもとという女房と寝ているところだったので、たいそう慌てふためいたという。
枕草子「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」より
つとめて、日さし出づるまで、式部のおもとと小廂(こひさし)に寝たるに、奥の遣戸(やりど)をあけさせたまひて、上の御前、宮の御前出でさせたまへれば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせたまふ。唐衣(からぎぬ)をただ汗衫(かざみ)の上にうち着て、宿直物(とのいもの)も何も埋もれ(うずもれ)ながらある上におはしまして、陣より出で入る者ども御覽ず。殿上人の、つゆ知らでより来て物言ふなどもあるを、(帝)「けしきな見せそ」とて、笑はせ給ふ。さて、立たせ給ふ。
「女房や公達が普段どんな風に過ごしているか、こっそり見てみよう」なんて言い合い、仲良く連れ立って清少納言のもとに出向かれる一条帝と定子の様子が目に浮かぶようです。
定子が職の御曹司にいた頃ですから、不遇の折ですが、それでも定子の回りには、愛と笑いが絶えませんでした。
▼定子はついに男子出産。有力な天皇候補だが…
定子は実質的に還俗し、長保元年(999年)11月7日、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産
藤原定子 – Wikipedia
先に長女彰子を入内させていた道長はこのことで焦慮し、彰子の立后を謀るようになります。
東三条院詮子の応援もあり、長保2年(1000年)2月25日、女御彰子が新たに皇后となり「中宮」を名乗り、先に「中宮」を号していた定子は「皇后宮」を呼ばれました。
史上はじめての「一帝二后」です。
一条天皇は、定子に寵愛を注ぎ続け、全力で守ろうとしました。
道長と詮子の執拗な嫌がらせの中でも、若い二人の純愛は決して色あせなかったのです。
▼定子は媄子内親王を出産し、産褥死。突然の、早すぎる死…
定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御
藤原定子 – Wikipedia
道長の娘・彰子が「中宮」になった後も、一条帝と定子の愛は代わりませんでした。
一条帝は、定子を寵愛し続けます。
そして、第3子を懐妊するのです。
しかし、第3子の出産で力尽きた定子は、この世を去ってしまいます。
▼定子の死を嘆き悲しむ一条帝
皇后の宮、すでに頓逝すと。甚だ悲し。
権記(藤原行成)
これは、定子が亡くなった夜、一条が発した慟哭の言葉です。
長徳の政変(996)で兄伊周が失脚し、定子が実家の後ろ盾をなくしてからも、定子は愛と風流に満ちた人生を送りました。
そして、藤原道長からの執拗な嫌がらせを前に、力尽きるように息を引き取ります。
最愛の人を亡くした一条帝の悲しみは、いかばかりのものだったのでしょうか。
▼死の直前に定子が詠んだ悲しくも美しい和歌3首
よもすがら契りしことをわすれずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき
藤原定子 御製の歌
「枕草子」にも、一条帝と定子が仲睦まじく御帳台に籠っているシーンがありました。
14歳の定子が11歳の一条天皇に嫁いでから11年間。
一晩中愛をささやきあった夜もたくさんあるのでしょう。
一条帝が必ず泣いてくれることを知っていて、その涙の色を見たいとうったえている歌です。
知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな
藤原定子 御製の歌
この世と別れ、知る人もいない死の世界へ、心細いけれど、急いで旅立たなくてはなりません・・・
定子の心細さがとても伝わってきます。
きっと、一目でも一条天皇に逢いたかったことでしょう。
煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ
藤原定子 御製の歌
私は煙にも雲にもなることはありません、でも草の葉に下りた露を私と思って見てください。
兄・伊周は「定子が土葬を望んでいる」と察し、定子の亡骸は土葬されることになりました。
定子を土葬するための霊屋は鳥辺野に建てられました。
葬儀は12月27日、降りしきる雪の中で行われました。
一条は天皇という地位に縛られ、参列できませんでした。
▼定子の死から11年後、一条帝の最後の歌は定子に宛てたものだった
露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき
一条帝は、成仏することが悲しく、気がかりだというのです。
なぜなら、十一年前に亡くなり、現世の「草の宿り」に「露」となって留まっている定子を置いていくことになるからです(出家せず、産褥死した定子は成仏せず、現世にとどまっていると考えられていました)。
行成はこの歌を「定子に寄せたものだ」と、権記に書き残しています。
定子の弟である藤原隆家の活躍についてまとめました。
[976~1000]
第66代一条天皇の中宮(のち皇后宮)。
一条天皇から寵愛され、脩子内親王・敦康親王・媄子内親王を産む。
聡明な資質を持ち、和漢の才に通暁したばかりでなく、明朗快活な人格者だった。
正暦4年頃から定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が著した随筆『枕草子』は、生き生きとした筆致で、彼女の外面的・人格的両面の類稀な魅力を今日に伝えている。
なお、「定子」の読みは明らかになっていないため、「ていし」と読むことが多い。また、「さだこ」とも。