枕草子【全文】【原文・現代語訳あり】清少納言

知ると申す人なきをば、やがて皆詠み続けて、夾算(きょうさん)せさせ給ふを、「これは知りたることぞかし。など、かく拙くはあるぞ」と、言ひ嘆く。

中にも、古今あまた書き写しなどする人は、皆も覚えぬべきことぞかし。

下の句を知っている人がいない歌は、そもまま下の句まで詠み上げられて、(中宮様は)栞を挟まれるが、(女房たち)「この歌は知っている歌だったのに。どうして、こんなに上手く答えられないのだろうか」などと言って嘆いている。

中でも、古今和歌集を何度も書き写している人は、全部記憶しててもいいのに。

「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左の大臣殿(おほいとの)の御女(おむすめ)におはしけると、誰かは知りたてまつらざらん。

中宮定子は「村上帝(むらかみてい・一条天皇の祖父)の御世に、宣耀殿の女御(せんようでんのにょうご・藤原芳子)と呼ばれていたのは、小一条の左大臣殿(藤原師尹・ふじわらのもろただ))の姫君でいらっしゃるって、皆知っているでしょう。

まだ姫君と聞えける時、父大臣(おとど)の教へ聞え給ひけることは、

『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より異(こと)に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌廿巻(にじゅっかん)を、皆うかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞え給ひけると、きこしめしおきて、

彼女がまだ姫君だったとき、父である大臣が姫に教え申し上げたことは、

『まず第一に、習字(筆書き)を習いなさい。第二は、琴の琴を、人よりも特別に上手に弾けるように努力しなさい。そして、古今和歌集の歌を20巻全部記憶して、それをあなたの学問にしなさい』と、教え申し上げたと、(村上帝は)覚えておられて、

御物忌(おんものいみ)なりける日、古今を持てわたらせ給ひて、御几帳(みきちょう)をひき隔てさせ給ひければ、女御、例ならずあやしと、おぼしけるに、草子をひろげさせ給ひて、

『その月、何のをり、その人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひきこえさせ給ふを、かうなりけり、と心得たまふも、をかしきものの、ひがおぼえをもし、忘れたるなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなう思し乱れぬべし。

物忌(災いを避けるために不浄を排除して家内に籠ること)の日に、古今集をお持ちになって女御の部屋にいらっしゃり、(自分の姿が見えないように)几帳を立ててからお座りになられた。女御は、いつもとは違う態度を怪しく思ったが、(村上帝は)古今集の草子をお開きになり、

『何の月、何の時に、誰それが詠んだ歌はどんなものか』とご質問になるので、和歌の教養を試すつもりなのかと察知して、面白いとは思うものの、歌を間違って覚えていたり忘れていたりしたら大変なこと(恥辱)になってしまうので、不安に思っていた。

その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石(ごいし)して数置かせ給ふとて、強ひ聞えさせ給ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。

帝は歌の教養がある女房を、2~3人呼び寄せられて、碁石を用いて二人の勝ち負けの数を数えさせようとして、(帝が女御に)参加を強くお求めになっているご様子は、どれほど優雅で素敵なことかしら。

御前に(おまえ)侍ひけむ人さへこそ、羨しけれ。せめて申させ給へば、賢しう、やがて末まではあらねども、すべてつゆ違ふ事なかりけり。いかでなほ、少し僻事(ひがごと)見付けてを止まむと、ねたきまでに思しめしけるに、十巻にもなりぬ。『更に不用なりけり』とて、御草子に夾算(きょうさん)さして、大殿籠りぬるも、まためでたしかし。

そばでお仕えしていた人が羨ましいこと。(村上帝が女御に)回答を促せば、(女御は)利口ぶって下の句まで全部暗唱したりはしないけど、ひとつも間違えることはなかったの。(村上帝は)少しでも間違いを見つけてからやめようされたけど、妬ましいほどに女御が正解を出し続けたので、遂に古今集は10巻にまで進んでしまった。(村上帝)『これ以上はもういい』とおっしゃって、古今集にしおり(夾算)を挟んで、2人でお休みになられたのも、また素敵だったでしょうね。

いと久しうありて起きさせ給へるに、なほこの事、勝ち負けなくてやませ給はむ、いとわろし、とて、下の十巻を、明日にならば、異をぞ見給ひ合はする、とて、『今日定めてむ』と、大殿油(おおとのなぶら)まゐりて、夜更くるまでなむ、読ませ給ひける。されど、終に負け聞えさせ給はずなりにけり。

だいぶ時間が経ってから(村上帝は)お起きになられて、やはりこの歌合わせの勝負を白黒付けずに終わらせてしまうのは、すごくダサい、と思われて、明日になってしまうと女御が古今集の下の十巻の内容を別の草紙で確認するかもしれないとお思いになって、『今日のうちに勝負を決めよう』とおっしゃって、灯火(明かり)を持ってこさせて夜が更けるまで、お読み続けになられたの。だけど、結局(女御は)負けることは無かったの。

『上渡らせ給ひて、かかること』など、殿に申しに奉られたりければ、いみじう思し騒ぎて、御誦経(みずきょう)など、数多(あまた)せさせ給ひて、そなたに向ひてなむ、念じ暮し給ひける。好き好きしう、あはれなることなり」など、語り出でさせ給ふを、上も聞しめしめでさせ給ふ。

『帝がお部屋にいらっしゃって、これこれこういう状況になっているのです』と、(女御が父の大臣のお屋敷に使者を遣わして)お伝えしたので、(父の大臣は)すごく心配されて、僧侶にお経をたくさん読ませられて、宮中に向かって(娘が上手くやれますようにと)祈りながらお過ごしになられた。これもまた素敵よね」などと、昔語りをなされると、帝も話を聞いて感心されている。

「我は、三巻四巻をだにえ見果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者なども皆をかしうこそありけれ。このころは、かやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、上の女房こなた許されたるなど参りて、口々言ひ出でなどしたる程は、誠に、つゆ思ふ事なく、めでたくぞ覚ゆる。

「私は3~4巻でさえ読み続けることができない」とおっしゃる。「昔は、身分の低い者でも風流の道を楽しめる者が多くいたのです。最近はこういった話は聞かないですが」などと、中宮様に仕える女房や、帝に仕える女房でこちらに来ることを許された者たちがやって来て、口々に感想を言い合う光景は、本当に心の底から素晴らしいと思う。

生ひ先なく

生ひ先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせく、あなづらはしく思ひやられて、猶、さりぬべからむ人の女(むすめ)などは、さしまじらはせ、世の有様も見せならはさまほしう、内侍(ないし)のすけなどにて暫時(しばし)もあらせばや、とこそ覚ゆれ。

前途に大した望みがなくて、ただただ真面目に生きて、作りものの幸福にしがみついていたいと考えるような人たちは、鬱陶しくって軽蔑したくなる思いがする。やはり然るべき身分のある人物の娘などは、宮中に出仕させて、この世の中の現実(宮中や権力の仕組み)を広く見させて習わせたいと思うし、しばらくの間でも良いから典侍(ないしのすけ・後宮の次官)の役職にでも就かせてあげたいと思う。

宮仕へする人をば、あはあはしう、わろきことに言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ。げに、そも、またさる事ぞかし。かけまくも畏き御前をはじめ奉りて、上達部(かんだちめ)、殿上人、五位、四位は更にもいはず、見ぬ人は少なくこそあらめ。

宮仕えしている女を、軽薄で、悪いことであるかのように言ったり思ったりする男どもこそ、本当に憎たらしい。とは言え、そういった考え方にも最もだと思えるところはある。申し上げるのも畏れ多い帝をはじめとされて、上達部、殿上人、五位、四位などの人は改めて申し上げるまでもないが、高位の貴族たちに仕えている女房を見ないということはまずない。

女房の従者、その里より来る者、長女(をさめ)、御厠人(みかはやうど)の従者、たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。殿ばらなどは、いとさしもやあらざらむ。それも、ある限りは、しか、さぞあらむ。

女房の従者、その里から付いてくる者、長女(をさめ・リーダー役の年長者)、御厠人(トイレ掃除をする人)といった付き人、取るに足りない卑しい者に至るまで、いつ女房たちがそれらの者の目線を恥じてその姿を見せないことなどがあっただろうか。男の方たちであれば、それほど卑しい者の前に姿は見せないかもしれない。しかし、男性であっても宮仕えをする限りは、女房と同じようなもので下賤の者に見られることになる。

上などいひて、かしづき据ゑたらむに、心にくからず覚えむ、理(ことわり)なれど、また内裏(うち)のすけなどいひて、をりをり内裏へ参り、祭の使などに出でたるも、面立たし(おもだたし)からずやはある。

かつて宮仕えした女房を「上」などと呼んで、かしずいて奥方に迎える場合には、(かつて宮仕えしていたことを)悪いように思ってしまうのは、もっともなことでもあけれど、内裏の典侍などと呼ばれて、時折内裏に参上し、葵祭りの使者として参列するのは栄えある名誉なことじゃないかしら。

さて、籠りゐぬる人は、まいてめでたし。受領(ずりょう)の五節(ごせち)出だすをりなど、いとひなび、言ひ知らぬことなど、人に問ひ聞きなどは、せじかし。心にくきものなり。

そんな高い地位にありながらも家庭もしっかり守ることができる女性は、まして立派だわ。受領(ずりょう・県知事)が五節の舞姫(ごせちのまいひめ・大嘗祭や新嘗祭に行われる節会で舞いを舞う女性)を差し出す時など、(宮仕えの経験があれば)田舎くさく、知ってて当然のことを尋ねるとかいう真似をすることもないだろう。(やはり宮仕えをする女性は)素晴らしいものだ。

すさまじきもの

すさまじきもの

ひくもの

昼ほゆる犬。

春の網代(あじろ)。

三、四月の紅梅の衣(きぬ)。

牛死にたる牛飼。

ちご亡くなりたる産屋(うぶや)。

火おこさぬ炭櫃(すびつ)、地火炉(じかろ)。

博士のうち続き女子生ませたる。

方違へ(かたたがえ)に行きたるに、あるじせぬ所。

まいて節分などはいとすさまじ。

昼に吠える犬。

春の網代。

3、4月の紅梅の着物。

牛が死んでしまった牛飼。

赤ちゃんが死んだ産屋。

火が起こらない炭櫃や地火炉。

博士が続けて女の子を作った場合。

方違え(かたたがえ・目的地の方角の縁起が良くない際、前夜に別方角へ出向いて一泊してから目的地へ向かう手法)で行ったのに、もてなしてくれない家。

まして(もてなしてくれないのが)節分の時なんかだとほんとひく。

人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをも、さこそ思ふらめ。されどそれは、ゆかしき事どもをも書き集め、世にある事などをも聞けば、いとよし。

地方から送ってきた手紙で、贈り物が添えられていないの。京から送った手紙でもそう思うのかも。でもそこは、耳寄りな話が書き連ねてあるのだし、世の中で流行っている事・時勢なども知ることができるのだから、それでも良い。

人の許に、わざと清げに書きてやりつる文の返事(かへりごと)、今は持て来ぬらむかし、あやしう遅きと、待つほどに、ありつる文、立文(たてぶみ)をも結びたるをも、いときたなげに取りなし、ふくだめて、上に引きたりつる墨など消えて、「おはしまさざりけり」もしは「御物忌とて取り入れず」と言ひて持て帰りたる、いとわびしくすさまじ。

念入りに綺麗に書いて送った手紙の返事が、返ってきても良い頃なのに、なぜこんなに遅いのかと、待っていると、(こちらから送った手紙の形状が)立文(たてぶみ・正式な書状)でも結文(むすびぶみ・略式の書状)でも、ぐしゃぐしゃに汚くなって、紙の地が毛羽立って、封印のための墨の線も消えてしまって、「相手はいらっしゃいませんでした」とか「物忌でしたので受け取って頂けませんでした」とか言って帰ってきたのは、ほんとツラくてひく。

また、かならず来(く)べき人の許に、車をやりて待つに、来る音すれば、「さななり」と、人々出でて見るに、車宿(やどり)さらに引き入れて、轅(ながえ)ほうと打ちおろすを、「いかにぞ」と問へば、「今日は、他へおはしますとて、渡り給はず」など、うち言ひて、牛の限り引き出でて去ぬる。

また、必ず来ると約束した人の所に、お迎えの車をよこして待っていると、車が帰ってきた音がするので、「来たようだ」と人々が近くにまで出て見ると、車は車庫にすぐに入ってしまって、轅(ながえ・牛車の前方に長く突き出た二本の棒)を下に下ろしてしまったので、「どうしたの」と尋ねたら、「今日はよそにお出掛けになるそうで、いらっしゃいません」なんて答えて、牛だけ車から外して引っ張っていってしまうの。

また、家のうちなる男君の、来ずなりぬる、いとすさまじ。

さるべき人の宮仕へするがりやりて、はづかしと思ひゐたるも、いとあいなし。

また、家に居着いた婿殿が通ってこなくなるというのも、ほんとひく。

高い身分で宮仕えをするような女性に婿を横取りされて、適わないと思っているのも、ほんとイケてない。

ちごの乳母(めのと)の、ただあからさまにとて出でぬるほど、とかく慰めて、「疾く来(とくこ)」と言ひ遣りたるに、「今宵はえ参るまじ」とて、返しおこせたるは、すさまじきのみならず、いとにくくわりなし。

女迎ふる男、まいていかならむ。

赤ちゃんの乳母がほんの少しの間だけと言って外出している間、何とかあやして、「早く帰ってきて」と言って使者をやったところ、「今夜は行くことができません」という返事を寄越してきたのは、ひくだけじゃなく、ほんとムカつくしあり得ない。

(これがもし)女を待っている男だったら、もう、どうなっちゃうんだろう。

待つ人ある所に、夜少し更けて、忍びやかに門叩けば、胸少し潰れて、人出だして問はするに、あらぬよしなき者の名のりして来たるも、かへすがへすもすさまじといふはおろかなり。

約束した男を待ってて、夜が少し更けてから、静かに門を叩いている音がするので、ちょっとドキドキしながら、召使いを行かせて対応せると、違うどうでも良い男が名乗ってやって来るのも、どう考えてもひくどころのレベルじゃない。

除目(じもく)に官(つかさ)得ぬ人の家。今年はかならずと聞きて、はやうありし者どもの外々(ほかほか)なりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、皆集り来て、出で入る車の轅(ながえ)もひまなく見え、物詣でする供に、我も我もと参り仕うまつり、物食ひ酒飲み、ののしりあへるに、果つる暁まで門叩く音もせず、「怪しう」など、耳立てて聞けば、前駆(さき)追ふ声々などして上達部(かんだちめ)など皆出で給ひぬ。

除目(人事)で官職を得られなかった家。今年こそは必ず任官できると聞いていて、以前その家に仕えていて今はよそへ仕えている者や田舎に住まう者たちが皆集まって来て、出入りする車の轅も途切れなく見え、(本人が祈願のために)参詣するお供に、我も我もと付いていき、物を食べて酒を飲んで騒いでいたが、除目が終わる明け方まで門を叩く音がせず、「おかしい」と思って耳をそばだてて聞くと、先払いする声など幾つも聞こえて、上達部などもみんな宮中から退出してしまわれた。

もの聞きに、宵より寒がりわななき居りける下衆男、いと物憂げに歩み来るを、をる者どもは、え問ひにだに問はず、外より来たる者などぞ、「殿は何にかならせ給ひたる」など問ふに、答へ(いらえ)には、「何の前司にこそは」などぞ、必ず答ふる(いらうる)。まことに頼みける者は、いと歎かしと思へり。

任官の知らせを聞くために、宵のうちから寒さに震えながら御所に行っていた下男が、すごくしょんぼりして歩いて帰ってくるので、そこにいた連中は質問することもできない。よそからやって来ていた者などが、「御主人は何の役職に就かれたのですか」などと聞くと、それに答えて、「以前は、どこどこの知事でした」などと決まり文句を言う。(任官を心頼みにしていた人は)すごく嘆かわしく思っている。

翌朝(つとめて)になりて、隙なくをりつる者ども、一人二人すべり出でて去ぬ(いぬ)。古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手を折りてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとほしう、すさまじげなり。

翌朝になると、あれだけ沢山詰めかけていた者たちが、1人、2人と去っていく。古くから主人に仕えている人で、離れることもできない人は、来年、国司に欠員がでる国々を指折り数えて、のろのろと歩き回っているのも、可哀想すぎてひいちゃう。

よろしう詠みたりと思ふ歌を、人の許に遣りたるに、返しせぬ。懸想人(けそうびと)は、いかがせむ。それだに、をりをかしうなどある返事せぬは、心劣りす。

上手く詠めたなと思う歌を、人の所に送ったのに、返事が返ってこないの。片思いの人は、どうしたらいいの。それなのに、良いタイミングで詠んで送った歌に返事をしないのは、幻滅する。

また、騒がしう、時めきたる所に、うち古めきたる人の、おのがつれづれと暇多かるならひに、昔覚えて異なる事なき歌詠みておこせたる。

あと、騒がしく人が出入りしている、今を時めく権力者の所に、時代に取り残された老人が、自分がやる事もなくて暇だからって、時代遅れの和歌を詠んで送って来るの。

物のをりの扇、いみじくと思ひて、心ありと知りたる人に取らせたるに、その日になりて、思はずなる絵など描きて得たる。

イベント用の扇を、凄いのにしようと思って、趣味の良い人に制作をお願いしていたのに、その日になって、思っていたのと違う絵を描いて渡されたの。

産養(うぶやしない)、馬の餞(はなむけ)などの使に、禄取らせぬ。はかなき薬玉(くすだま)、卯槌(うづち)など持てありく者などにも、なほ必ず取らすべし。思ひかけぬことに得たるをば、いと興ありと思ふべし。これは必ずさるべき使と思ひ、心ときめきして行きたるは、ことにすさまじきぞかし。

出産祝いや旅立ちの餞別を持ってきた使者に、心づけ(お小遣い)をあげないの。大したものではない薬玉や卯槌のようなものを、配って歩いている者なんかにでも、絶対に心づけを渡すべき。思いがけず心づけをもらったら、すごく嬉しいと思うことだろう。これは必ず貰えると思って、わくわくして使いに行っってたら(なのに貰えなかったら)、あり得ないぐらいひくんだろうな。

婿取りして、四、五年まで、産屋の騒ぎせぬ所も、いとすさまじ。

婿を迎えたにも関わらず、4~5年立っても産屋が賑わわない家(子供が産まれない家)も、すごくひく。

大人なる子どもあまた、ようせずは孫なども這ひありきぬべき、人の親どち、昼寝したる。

傍なる子どもの心地にも、親の昼寝したるほどは、寄り所なくすさまじうぞあるかし。

成人した子供が沢山いて、下手をすれば孫がはいはいしててもおかしくない世代の親が、昼寝をしているの。

側にいる子供の気持ちからしても、親が昼寝をしている間は近付きようもないしひちゃうだろうな。

師走のつごもりの夜、寝起きてあぶる湯は、腹だたしうさへぞ覚ゆる。師走の晦日(つごもり)の長雨。

「一日ばかりの精進解斎(しょうじんげさい)」とやいふらむ。

大晦日の夜、寝ていたところから起き出してすぐ入浴するって行為には、怒りさえおぼえる。(大晦日は除夜の鐘を撞いて煩悩を消し去るように、禁欲を良しとするのにも関わらず、入浴せねばならぬような行為に及んだので腹立たしいと解釈する説が有力)大晦日に長雨が降り出すようなもの、

「たった一日の精進も守れずに、 解斎して」と、いうのだろう。

たゆまるるもの

たゆまるるもの

サボっちゃうもの

精進の日の行ひ。

遠きいそぎ。

寺に久しく籠りたる。

精進の日のお勤め。

まだ先の予定のための準備。

お寺に長く籠って修行すること。

人にあなづらるるもの

人にあなづらるるもの

人に侮られるもの

築土(ついじ)の崩れ。

あまり心よしと人に知られぬる人。

崩れた土塀。

あまりにお人好しな人(何も言い返さない人)だと思われている人。

にくきもの

にくきもの

ムカつくもの。

急ぐことあるをりに来て、長言(ながごと)する客人(まろうど)。あなづりやすき人ならば、「後に」とても、追ひやりつべけれど、さすがに心はづかしき人、いとにくく、むつかし。

忙しい時にやって来て長話をする客。大したことのない相手なら「あとでね」と追い返すこともできるけれど、さすがに目上の人だと(そういうわけにもいかず)、すごくムカつくし、メンドクサイ。

硯に髮の入りて、すられたる。また、墨の中に、石のきしきしときしみ鳴りたる。

硯に髪が入った状態で、(気付かずに)すってしまった時。あと、墨の中に石が交じっていて、キシキシと軋み鳴るのもイヤ。

にはかにわづらふ人のあるに、験者(げんじゃ)もとむるに、例ある所になくて、外に尋ねありくほど、いと待ち遠に久しきに、からうして待ちつけて、よろこびながら加持せさするに、このころ物怪にあづかりて極じ(ごうじ)にけるにや、居るままにすなはち、ねぶり声なる、いとにくし。

急病人がでたので験者を呼ぼうとしたのに、いつも居る所に居なくて、外を探し回っている間、ほんと長時間待ち続けて、ようやく来た修験者の到着を喜んで加持祈祷させるけれど、最近は物怪の調伏の仕事が多くて疲れきっているのだろうか、祈り始めるや否やもう眠たそうな声になっているのは、ほんとにムカつく。

なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる。火桶の火、炭櫃(すびつ)などに、手のうらうち返しうち返しおしのべなどして、あぶりをる者。いつか、若やかなる人など、さはしたりし。老いばみたる者こそ、火桶のはたに足をさへもたげて、物言ふままに押しすりなどはすらめ。

大したこともない人が、笑みを浮かべて、得意気にものを言っているの。火鉢の火や囲炉裏に、手のひらを何度も何度もひっくり返したり擦りあわせたりしながら、炙っている者。いつ若い人が、そんなことしたかしら。年老いた者に限って、火鉢の端に足まで載せて、喋りながらその足を擦り合わせたりするのよ。

さやうの者は、人のもとに来て、居むとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎちらして、塵はき捨て、居も定まらずひろめきて、狩衣(かりぎぬ)の前、巻き入れても居るべし。かかることは、いふかひなき者の際にやと思へど、少しよろしき者の、式部大夫(しきぶのたいふ))などいひしが、せしなり。

そういう人は、他人の家にやって来た時にも、自分の座ろうとする所を扇でばたばたと扇ぎちらしてホコリを払いのけようとするし、おとなしく座らず動き回って、狩衣(かりぎぬ・一般公家の日常着)の垂れた部分をひざ下に巻き込んだまま座ってしまったりする。こんなことは、身分が低い下賤の者だけがすると思っていたのだが、ある程度高い身分である式部大夫(しきぶのたいふ・五位となった式部丞)などといった人がしちゃったのよ。

また酒飲みてあめき、口を探り、鬚(ひげ)あるものはそれを撫で、盃(さかづき)、異人(ことひと)に取らするほどのけしき、いみじうにくしと見ゆ。「また飲め」と言ふなるべし、身ぶるひをし、頭ふり、口わきをさへ引き垂れて、童(わらはべ)の「こう殿に参りて」など謠ふ(うたう)やうにする。それはしも、誠によき人のし給ひしを見しかば、心づきなしと思ふなり。

あと、酒を飲んで喚きたて、指で口の中をいじくり、鬚を生やしている人はそれを撫で回し、杯を他の人と渡そうとしている様子はほんとにムカつく。「もう一杯、飲め」と言っているのだろうか、身体を揺すり頭を振って、口元すら垂れ下がって、子供たちが「国の守様の御館に伺って」と歌うみたいになってるの。しかもそれを、すごく高貴な身分のお方がしているのを見たら、受け入れられないって思うわよ。

物うらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じそしり、また僅かに聞き得たる事をば、わがもとより知りたることのやうに、異人にも語りしらぶるも、いとにくし。

人のことを羨んで、自分については泣き言ばかりを言い、人の噂話ばかりをして、些細なことも詳しく知りたがり、話を聞きたいという顔をして、教えて上げないことを恨んで文句を言い、また少しばかり聞きかじったことを、自分が初めから知っていることのように、他の人に得意げな感じで語っているのも、ほんとムカつく。

もの聞かむと思ふほどに泣くちご。烏の集まりて飛び違ひ、さめき鳴きたる。

人の話を聞こうとしている時に、泣き始める赤子。烏が群れになってあちこちを飛び回り、騒がしく羽音を立てて鳴いているの。

忍びて来る人、見知りて吠ゆる犬。

人目を忍んで会いに来る男のことを覚えていて、吠えかかる犬。

あながちなる所に隠し臥せたる人の、いびきしたる。

人に見つかると困る場所にそっと招き入れて一緒に寝た男が、いびきをかいているの。

また忍び来る所に、長烏帽子(ながえぼうし)して、さすがに人に見えじと惑ひ入るほどに、ものにつきさはりて、そよろといはせたる。伊予簾(いよす)など掛けたるに、うちかづきて、さらさらと鳴らしたるも、いとにくし。

あと、人目を忍んで通っている女の所に、長烏帽子(ながえぼし・丈の長い烏帽子)をかぶって、一応人に見られないようにと苦労しながら屋敷の中に入るんだけど、(その長烏帽子が)物にぶつかって、ガサっと音を立てちゃうの。伊予簾(いよすだれ・愛媛のスダレ)とか掛けてあるのを、くぐって入ろうとして、サラサラと音を鳴らしちゃうのも、すごいムカつく。

帽額(もこう)の簾(す)は、ましてこはしのうち置かるる音、いとしるし。それも、やをら引き上げて入るは、更に鳴らず。遣戸(やりど)を、荒くたてあくるも、いとあやし。少しもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子なども、こほめかしうほとめくこそ、しるけれ。

帽額(もこう)の簾は、さらに簾の端に付いた板が音を立てて、すごく響く。それだって、静かに簾を引き上げてから入れば、音は鳴らないのに。板戸をがさつに開けるのも、すごく不愉快。少し持ち上げるようにして開ければ、音なんて出ないでしょうに。開け方が悪いから、障子戸なんかもガタガタ音を立ててしまうのよ。

ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ。

眠たくて横になってるところに、蚊が小さい羽音をみすぼらしく立てて、顔の回りを飛び回ってるのと。羽風まで、小さいながらに立ててるのがすごいムカつく。

きしめく車に乗りて歩く者、耳も聞かぬにやあらむと、いとにくし。わが乗りたるは、その車の主さへにくし。

キシキシ音を立てる車を乗り回す人。耳が聞こえないんじゃないの?って、すごくムカつく。自分が(そんなうるさい車に)乗った時には、その車のオーナーまでムカつく。

また、物語するに、さし出でして、我ひとり才まくる者。

すべてさし出では、童も大人もいとにくし。

あと、人が話をしている時に、出しゃばってきて、自信満々で独演会を始める人。

でしゃばりな人は、子供でも大人でもすごいムカつく。

あからさまに来たる子ども、童を見入れ、らうたがりて、をかしき物取らせなどするに、ならひて、常に来つつ居入りて、調度うち散らしぬる、いとにくし。

ちょっと訪ねて来た子供を可愛がって、欲しいものをあげたりしていたら、それに慣れてきて味をしめ、いつもやってきては家に居座り、調度品を散らかしていくのはすごくムカつく。

家にても宮仕へ所にても、会はでありなむと思ふ人の来たるに、そら寝をしたるを、わがもとにある者、起しに寄り来て、いぎたなしと思ひ顔に、引きゆるがしたる、いとにくし。

自分の家でも宮仕えする職場でも、会いたくないと思っている人がやって来た時、眠ったふりをしていると、自分の使っている女が起こしにやってきて、主人は寝坊だなと思っているような顔をして、体を揺さぶってくるのはすごくムカつく。

今まゐりの、さし越えて、物知り顔に教へやうなる事言ひ、後ろ見たる、いとにくし。

新参の女房が古参の女房を差し置いて、物知り顔で人に物事を教えるようなことを言い、何かと後輩の指導をしてるのも、ほんとムカつく。

わが知る人にてある人の、はやう見し女のこと、ほめ言ひ出でなどするも、ほど経たることなれど、なほにくし。まして、さしあたりたらむこそ、思ひやらるれ。されど、なかなか、さしもあらぬなどもありかし。

付き合っている男がモトカノのことを褒めたりするのも、過去のことなんだけど、それでもムカつく。ましてそれが今も付き合いのある女であれば、もっとムカつくでしょうね。でも、他の女のことを話されても、あまり腹が立たないこともあったりする。

はなひて誦文(じゅもん)する。おほかた、人の家の男主(おとこしゅう)ならでは、高くはなひたる、いとにくし。

くしゃみをして呪文を唱える人。大体、一家の男主人以外の人が、周囲に憚らずに大きなくしゃみをしたのは、すごくムカつく。

蚤(のみ)もいとにくし。衣の下に躍りありきて、もたぐるやうにする。犬の、諸声(もろこえ)に長々と鳴きあげたる、まがまがしくさへにくし。

蚤(のみ)もほんとムカつく。着物の中で飛び跳ねて、着物を持ち上げるようにするの。犬が何匹も長々と遠吠えしてるの、禍々しささへおぼえてムカつく。

あけて出で入る所、たてぬ人、いとにくし。

ドアを開けっ放しで閉めない人も、すごくムカつく。

心ときめきするもの

心ときめきするもの

心をどきどきとさせるもの

雀の子飼(こがい)。

ちご遊ばする所の前わたる。

よき薫物(たきもの)たきて、一人臥したる。唐鏡(からかがみ)の少し暗き見たる。

よき男の、車とどめて、案内し問はせたる。

雀のヒナを飼うの。

赤ん坊が遊んでるところを通りかかるの。

高級なお香を焚いて、一人で横になっている時。

中国製の鏡の少し暗くなっているところを覗き込んだ時。

高貴な男性が、家の前に車を止めて、使いの者に要件を伺わせるの。

頭洗ひ、化粧じて、香ばしうしみたる衣など着たる。

殊に見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし。

待つ人などある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふと驚かる。

髪を洗って化粧をして、良い香りを焚き染めた着物を着てるの。

特に誰かと会う予定ではなくても、心がとても華やぐ。

恋人を待っている夜は、雨の音や風吹く音さえも、ドキドキする。

過ぎにしかた恋しきもの

過ぎにしかた恋しきもの

過去を恋しく思い出すもの

枯れたる葵(あおい)。

雛遊びの調度。

二藍(ふたあい)、葡萄染(えびぞめ)などのさいでの、押しへされて、草子(そうし)の中などにありける、見つけたる。

また、折からあはれなりし人の文、雨など降り徒然なる日、さがし出でたる。

去年(こぞ)のかはほり。

(葵祭で使って)枯れてしまった葵の葉。

人形遊び道具。

二藍(ふたあい)や葡萄染(えびぞめ)めなどの端切れが、押しつぶされて、本の間に挟まっているのを、見つけたの。

また、ふとした時に、かつて好きだった人の手紙(和歌)が、雨などが降っていて手持ち無沙汰な日に、探して出てきたの。

去年使っていた扇。

心ゆくもの

心ゆくもの

心が満たされるもの

よく描いたる女絵(おんなえ)の、言葉をかしう付けて多かる。

物見の帰さ(かえさ)に、乗りこぼれて、男(をのこ)どもいと多く、牛よくやる者の、車走らせたる。

白く清げなる陸奥紙(みちのくがみ)に、いといと細う、書くべくはあらぬ筆して、文書きたる。

うるはしき糸の練りたる、あはせ繰りたる。

てうばみに、てう多く打ち出でたる。

ものよく言ふ陰陽師して、川原に出でて、呪詛の祓へしたる。

夜、寝起きて飲む水。

上手く描いている物語絵で、言葉が素敵に書いてあってたくさんあるの。

物見遊山の帰りに、牛車の端から衣装をのぞかせて、お供がすごくたくさんいて、牛の取り扱いに慣れた従者が、牛車を走らせているの。

白くて真新しい陸奥紙(高級和紙の檀紙)に、すごく細く、ほとんど文字が書けないくらいの細筆で、手紙を書いたの。

綺麗な糸をひねって、二筋合わせて繰ったもの。

サイコロをふたつ振って、調目を多く打ち出したの。

呪文をよく唱える陰陽師を伴って川原にでて、呪詛のお祓いをするの。

夜、目が覚めて飲む水。

徒然なるをりに、いとあまり睦ましうもあらぬまらうと(客人)の来て、世の中の物語、この頃ある事のをかしきもにくきも怪しきも、これかれにかかりて、公私(おほやけ・わたくし)おぼつかなからず、聞きよきほどに語りたる、いと心ゆくここちす。

することもなくて退屈な時に、それほど親しくもないお客さんがやって来て、世間話や、最近起こった面白い話、イライラする話、奇妙な話を、あれこれと話し続けて、宮中の公の話題でも個人的な話題でも、情報が豊富で、こちらが聞きやすいように配慮して話してくれるのは、本当に心が満たされる感じがする。

社寺などに詣でて、物申さするに、寺は法師、社(やしろ)は禰宜(ねぎ)などの、くらからずさはやかに、思ふほどにも過ぎて、滞らず聞きよう申したる。

社寺にお参りして祈祷をしてもらうのに、寺なら法師、神社なら禰宜(ねぎ・宮司の補佐役)といった人たちが、明瞭で速やかに、予想よりずっと、よどみなく分かりやすく唱えてくれたの。

檳榔毛はのどかにやりたる

檳榔毛(びろうげ)はのどかにやりたる。急ぎたるは、わろく見ゆ。

檳榔毛(びろうげ・高級な牛車)の車は、ゆっくりと走らせてるの(が、素敵)。急いで走らせてると、ダサく見える。

網代(あじろ)は走らせたる。人の門の前などより渡りたるを、ふと見やるほどもなく過ぎて、供の人ばかり走るを、誰ならんと思ふこそ、をかしけれ。ゆるゆると久しく行くは、いとわろし。

網代(あじろ・屋形に竹やヒノキの網代を張った牛車)の車は、スピードを出してるの(が、素敵)。門前を通りかかってるのを、確認するヒマもなく過ぎ去って、お供の従者が走ってる(姿だけが見える)のを、いったい誰の車なのかしらと思うのが、素敵なのよ。のろのろ時間をかけて進むなんて、すごくダサい。

説経(せきょう)の講師は顔よき

説経(せきょう)の講師は顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊さも覚ゆれ。

ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。

このことは、とどむべし。

少し齢(とし)などのよろしきほどは、かやうの罪得がたのことは、かき出でけめ。

今は罪いと恐ろし。

説経の講師はイケメン(に限る)。講師の顔に、じっと見つめ続けていればこそ、その教えの尊さも分かるというもの。

よそ見していると、教えをすぐに忘れちゃって、不細工なのは、(教えをちゃんとおぼえられずに)罪を作ってしまう気になる。

こんなことは、書いちゃダメなんでしょうけど。

もう少し年が若い頃は、こんな罪作りなことでも、平気で書いただろうけど。

(年を重ねて死も意識してくる)今は、仏法に背く罪はすごく恐ろしいわ。

また、尊きこと、道心多かりとて、説経すといふ所ごとに、最初に行きゐるこそ、なほ、この罪の心には、いとさしもあらで、と見ゆれ。

また、説法はありがたいものだ。しかし、自分は信仰心が強いのだといって説法をする所に最初に急いで出かけていって座っているような人は、やはり罪深い私のような者の気持ちからすると、そこまでしなくても良いのではないかと思ってしまうのである。

蔵人(くろうど)など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは内裏(うち)わたりなどには、影も見えざりける。

今はさしもあらざめる。蔵人の五位とて、それをしもぞ、忙しう使へど、なほ、名残つれづれにて、心一つは暇(いとま)ある心地すべかめれば、さやうの所にぞ、一度二度も聞きそめつれば、常にまでまほしうなりて、夏などのいと暑きにも、帷子(かたびら)いとあざやかにて、薄二藍(うすふたあい)、青鈍(あをにび)の指貫(さしぬき)など、踏み散らしてゐためり。

蔵人(くろうど・天皇の秘書的役人)は、昔はもう行幸の先駆けなどもせずに、退官したその年には見栄えが悪いといって、宮中には影も形も見せないものだった。

今はそうでもないらしい。蔵人の五位といえば、むしろ忙しく召し使われるのだけど、それでも、昔の激務を思えばヒマだと感じちゃうみたいで、説経をしている所に、1度2度と通い始めると、いつもそこに行きたくなって、夏みたいにすごく暑い時でも、帷子(かたびら・夏用の麻の着衣)がすごく鮮やかで、薄二藍(うすふたあい)や青鈍(あおにび)の指貫(さしぬき)なんかを、派手にはいて座っているわね。

烏帽子(えぼし)に物忌付けたるは、さるべき日なれど、功徳(くどく)のかたには障らずと見えむ、とにや。

その事する聖(ひじり)と物語し、車立つることなどをさへぞ見入れ、ことについたるけしきなる。

烏帽子(えぼし)に物忌のお札を付けているのは、物忌みの日(災いを避けるために不浄を排除して家内に籠る日)なのに、功徳のために説法を聞きに来たのだから問題ないって主張してるのかしら。

説経する僧侶と世間話をしたり、聴聞客が庭に牛車を停めることなんかにまで口出ししたり、我が物顔。

久しう会はざりつる人のまうで逢ひたる、珍しがりて近うゐより、物言ひうなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、よく装束したる数珠かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講(はっこう)、経供養(きょうくよう)せしこと、とありしこと、かかりしこと、言ひくらべゐたるほどに、この説経の事は聞きも入れず。

なにかは、常に聞くことなれば、耳馴れて、珍しうもあらぬにこそは。

長く会っていなかった人と再会すると、珍しがって座り込んで話し、話しては頷き、面白い話などをし始めて、扇を広くひろげて口に当てて笑い、立派に装飾してある数珠を手でもてあそび、手繰って、あちらこちらを見回して、牛車の良し悪しをほめたりけなしたり、誰それが主宰した八講(はっこう・法華経8巻を朝夕2座講じて4日間で完了する法会)や経供養(きょうくよう・写経を仏前に供えて行う法会)のことを話しては、あんなことがあった、こんなこともあったと言い合っているから、この説法を聞いてもいない。

毎度聞いている説法だから、聞き慣れてしまって、新鮮さもないのかしら。

さはあらで、講師いてしばしあるほどに、前駆(さき)すこし追はする車とどめておるる人、蝉の羽よりも軽げなる直衣(なほし)、指貫、生絹(すずし)のひとへなど著たるも、狩衣(かりぎぬ)の姿なるもさやうにて、若う細やかなる、三、四人ばかり、侍の者またさばかりして入れば、はじめ居たる人々も、少しうち身じろきくつろい、高座のもと近き柱もとに据ゑつれば、かすかに数珠押しもみなどして聞きゐたるを、講師もはえばえしく思ゆる(おぼゆる)なるべし、いかで語り伝ふばかりと説き出でたなり。

聴聞(ちょうもん)すなど倒れ騒ぎ、額(ぬか)づくほどにもなくて、よきほどに立ち出づとて、車どもの方など見おこせて、我どち言ふ事も、何事ならむと覚ゆ。見知りたる人は、をかしと思ふ、見知らぬは、誰ならん、それにやなど思ひやり、目をつけて見送らるるこそ、をかしけれ。

「そこに説経しつ、八講しけり」など、人の言ひ伝ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など、定まりて言はれたる、あまりなり。などかは、無下にさしのぞかではあらむ。あやしからむ女だに、いみじう聞くめるものを。さればとて、はじめつ方は、徒歩(かち)ありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などして、なまめき化粧じてこそは、あめりしか。それも、物詣で(ものもうで)などをぞせし。説経などには、殊に多く聞えざりき。この頃、その折さし出でけむ人、命長くて見ましかば、いかばかり、そしり誹謗せまし。

菩提といふ寺に

菩提といふ寺に、結縁(けちえん)の八講せしに詣でたるに、人のもとより「疾く帰り給ひね(とくかえりたまいね)。いとさうざうし」と言ひたれば、蓮の葉のうらに、

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