リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア),1945年4月14日 – )は、イギリス出身のギタリスト。アメリカ合衆国在住。ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記されることも多いが、誤りである。身長179cm。
ディープ・パープルの元メンバーとして有名。その後、別のロックバンド・レインボーを率いた。現在はフォーク・ロック・プロジェクト、ブラックモアズ・ナイトで活動している。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第55位、2011年の改訂版では第50位。
概要
1970年代はブルース・ロック全盛期にありながらロック・ギターにクラシック音楽のフレーズを導入。ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」、「スピード・キング」など多くの演奏を録音。
また、ストラトキャスターの多用、ステージの最後でのギター破壊など、彼のステージパフォーマンスは、ハードロック、ヘヴィメタルにおけるギターヒーロー像として現在にも受け継がれている。
幼少時代
イングランド西部の保養地、サマセット州ウェストン=スーパー=メアで生まれ、ロンドン近郊ミドルセックス州ヘストンで育つ。
11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドのスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)。
14歳の時、初めてエレクトリックギターのカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンに師事し、ギターの腕前を向上させていった。
下積み時代
1960年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業した彼はロンドンのヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズやザ・サフォナイツ、ザ・デトネイターズ、マイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていた[1]。
その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、スター・クラブ (Star-Club) でスクリーミング・ロード・サッチ と出会い、セッションを行った。さらに後日、リッチーを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドであるロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり[1]、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったリッチー・ブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した[2]。ロード・サッチとのセッションと平行して、テルスター (Telstar) のヒットで知られるトーネイドーズ (The Tornados) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。
1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手ハインツ・バート (Heinz) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ビンセント (Gene Vincent)の伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックやジミー・ペイジと短期間セッションを行ったのもこの頃である。
1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。
ディープ・パープル時代
1967年、当時サーチャーズでドラムスとボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがリッチー・ブラックモアとフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック演奏を務めていたキーボード・プレイヤーのジョン・ロードである。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトというバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルにロッド・エヴァンスが加入、さらに、その時に付いて来たイアン・ペイスがボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、テトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「ディープ・パープル」を参照)。
リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。1975年6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的嗜好の食い違いなどから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた(その後はスティーヴ・モーズが加入している)。
レインボー時代
レインボー時代のリッチー。Live in Norway, 1977
1975年、ボーカルのロニー・ジェイムス・ディオ及びエルフを吸収する形でレインボー(当初はRitchie Blackmore’s Rainbow)を結成。当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。セカンド・アルバムでボーカル以外のメンバーを入れ替え(特にドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ)、最初の黄金時代を迎えるが、その後もメンバー交代が次々に行われた(以降のバンド自体の概要/活動歴は「レインボー」を参照)。合意形成型のディープ・パープルと違って、実質リッチーのワンマン・バンドだった。1984年に活動を休止。
1995年にはリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバム『孤高のストレンジャー』をリリースしているが、以前のメンバーはほとんど含まれなかった(ツアー・メンバーとして元メンバーのドラマーであるチャック・バーギが参加したのみ)。1997年にレインボーは活動を停止。
ブラックモアズ・ナイト 〜 現在
1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成(その後結婚。リッチーにとっては4度目の結婚となる。下記参照)。 イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽である。
リリースしたアルバムのいくつかがロシア、ドイツ、チェコでゴールドディスクを獲得している。アメリカ・イギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門のベストボーカル賞などを獲得している。日本ではファーストアルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数はリリースする毎に激減した。
現在までライブ録音を含め9枚のアルバムを発表している。
2015年7月、音楽媒体のインタビューで「来年の6月に、Rock(HR/HM)の欧州公演を企画している。それはレインボーとディープ・パープルになる」と明かした。70歳になり、まだ体が動ける時期の考慮と、ノスタルジアな気持ちになったのが大きな理由だと述べている。本人の公式Facebookページでは、ツアーのポスター画像が公開され、ここではリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore’s Rainbow)名義で表記されている。そして、現在ではツアーメンバーが発表されメインボーカルはロニーロメロに決定している 現段階では、ドイツで2公演モンスターズ・オブ・ロック イギリスで1公演が決定している。
音楽性
それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナーを取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。 作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の多くを中心となって作ったとされている。
プロとしてプレイし始めた頃からDeep Purple第一期にかけては、ジムサリバンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ~クリームでのエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィヴラートを自らのプレイに取り入れている(ハンドヴィヴラートはリッチー本人がクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている)。こうしてイン・ロック以降のスタイルを確立した。
使用機材
ハード・ロック演奏時の使用楽器はラージヘッドのフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する、ピックアップのワイアリングを換えるなどの改造が施されていた。
ディープ・パープル初期は、ギブソン・ES-335を平行して使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、全面的にストラトキャスターを使用している。ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームはほとんど使用していない。95年のYOUNG GUITAR誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はアームを使うプレーヤーがあまり居なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。
エフェクターは1970年頃、イギリス製ホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes) のトレブル・ブースターを入手、第2期終盤まで使用。ダラス・アービターのファズフェイスを1969年から1971年頃まで使用していた。1973年頃からアイワのオープンリール・テープデッキTP-1011を、改造しエコーマシンとして、1977年からモーグのベースペダル・タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)を使用している。アンプはマーシャルの200Wアンプを好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGLのハイゲインアンプも気に入り、多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」と呼ばれる物を長年愛用している。
ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏している。
結婚歴
1960年代前半、ドイツのハンブルクでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、一時期アイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストであったユルゲン・リヒャルト・ブラックモア。ユルゲンは現在、元レインボーのジョー・リン・ターナーなどと結成した新バンド「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動している。
2度目の結婚は1969年9月で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー(本名はバーベル)。
3度目の結婚は1981年5月で、エイミー・ロスマンという女性と結婚した。
ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしているキャンディス・ナイトとは1989年から付き合い始め、1991年から同棲していたが、1994年に婚約し、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した。この26歳も年下の相手との間に、2010年生まれた娘がオータム・エスメラルダ・ブラックモア。