古(いにしえ)よりの民?現在も残る鬼の子孫の家系

suiren2015
昔話、民話、伝説、伝承・・・鬼の伝説は日本各地に残ります。その鬼の子孫だと名乗る方々の情報をまとめました。

鬼とは・・・?

鬼(おに)は、日本の妖怪。民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在である。
鬼 – Wikipedia

読みは隠(おん)から来たと言われる。
その姿は日本各地で違うが、基本的には人型、頭に角を生やし、虎から作られた毛皮を腰に巻いて、さらに怪力で狂暴な性格というイメージが強い。色は基本的には赤色。
妖怪の代表とも言うべき存在であり、ヒーローの対の悪として退治される役、また恨み憎しみが極まった人間として、古来からの民話の敵役として語られてきた。
鬼とは (オニとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

日本には「鬼」を先祖に持つ人たちがいます

▼前鬼・後鬼

鬼神童子ZENKI
前鬼・後鬼を下敷きにして作られたアニメ

役行者には「前鬼(ぜんき)」 またの名を
「義覚(ぎかく)」と、「後鬼(ごき)」
またの名を「義賢(ぎけん)」という
弟子夫婦がおりました。
この夫婦はもともと
生駒山(いこまさん)の暗峠(くらがりとうげ)で
人の子をさらって食べる鬼でしたが、
役行者が夫婦の子供を隠して二人の鬼をおびき出し説教。
「悔い改めるならば人間に変えてやる」と言われ、
それに従った二匹の鬼は
人間の姿に変わって役行者の従者となりました。
下北山村 | 世界遺産1 前鬼の里

この夫婦と五鬼助(ごきじょ)、五鬼継(ごきつぐ)、
五鬼上(ごきじょう)、五鬼童(ごきどう)、
五鬼熊(ごきくま)の5人の子供たちが住んだのが、
「前鬼」という集落です。
明治の半ばまで彼らの子孫による五つの宿坊があり、
田畑を耕しながら「大峯奥駈道」を行く修行者たちを支えてきました。
下北山村 | 世界遺産1 前鬼の里

今は61代目当主である五鬼助義之さんが
「小仲坊(おなかぼう)」を守っています。
下北山村 | 世界遺産1 前鬼の里

61代目当主 五鬼助義之氏

前鬼・後鬼夫婦の子孫についてはこちらに詳しく書きました

▼八瀬童子

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。
八瀬童子 – Wikipedia

京都府京都市左京区八瀬

平安時代の初期には、比叡山の延暦寺で天台宗の開祖である最澄が雑役のために使っていた鬼の子孫が、八瀬に住む人々=「八瀬童子」だと言われています。
なぜ「童子」と呼ばれるかというと、童子名というのは大人の人間になる前の子供や普通の人とは違う存在であることを表していて、酒呑童子など鬼の名前にも使われています。実際に八瀬童子の人たちは髷を結わずに総髪・ざんばら髪の童子姿であったそうです。これは八瀬童子が、古い山の民の一族であったことを示しているとも言われています。
八瀬童子は、比叡山では天台宗の座主の輿(こし)を担ぐ役割も担っていました。建武の新成の時の1336年、京の都を出て比叡山に逃れた後醍醐天皇の輿を八瀬童子の13戸の戸主が担ぎ、また弓矢を取ってこれを守った功績から地租課役が永代免除となり、特に選ばれた者たちが駕輿丁(かよちょう)として朝廷に出仕して、天皇や上皇の行幸や葬送のときに輿を担ぐこととなりました。
八瀬童子…明治と大正の表舞台に登場した鬼の子孫たちとは? – 不思議なチカラ

八瀬童子たち

八瀬童子の最も重要な仕事は、代々の天皇が崩御した際、その棺を載せた葱華輦(そうかれん)という輿を担ぐことでした。しかしその役割も江戸時代には断絶してしまいますが、明治維新も終わり天皇が江戸に行幸したときには、100名の八瀬童子が付き従ったといいます。
やがて明治天皇が崩御すると、その棺を乗せた輿を陸海軍のどちらが担ぐかで紛糾しますが、その解決策として八瀬童子が輿丁として復活することになりました。その後、大正天皇の崩御においても八瀬童子が葱華輦を担いでいます。
昭和天皇が崩御したときにも輿丁の役割を任せるよう八瀬童子は要請しましたが、棺は自動車で運ばれるということと式場内での移送も警備上の理由から却下され、八瀬童子の役割の歴史は途絶えてしまいました。なおこの葬送のときには、八瀬童子はオブザーバーとして代表者6名が付き従ったということです。
八瀬童子…明治と大正の表舞台に登場した鬼の子孫たちとは? – 不思議なチカラ

http://www.youtube.com/watch?v=ngTs2XAHBsI

▼浄鬼・浄満

滋賀県大津市葛川坊村

“相応和尚は山々を修行で巡るうちに、この葛川の地が霊気に満ちていると感じ、この場所で修行をしたいと思いました。そこで和尚は、この土地神である「思古淵神(しこぶちしん)」という水神にかけあい、修行地を与えられます。
思古淵神は眷属(神の使者、家来)である「浄鬼」と「浄満」のふたりをつかわし、相応和尚はそのふたりの導きで比良山中の三の滝に行き、七日間の断食修行を行いました。そして満願の日、相応和尚は不動明王の存在を感じ、三の滝に飛び込みます。不動明王と感得した姿は桂の古木であり、相応和尚はその古木から千手観音像を刻み安置して葛川明王院としました。
このとき相応和尚を先導した「浄鬼(常喜)」と「浄満(常満)」が水神の家来の鬼と言われていて、その子孫が葛野常喜家と葛野常満家という二家の信徒総代として現在にも続いており、平安時代から現代に至るまで回峰行者の葛川参籠を先導する役割を果たしています”
日本の鬼伝説の中心地「大江山」と比叡山の鬼の子孫のお話 – 不思議なチカラ

浄鬼の家系である葛野氏

【1000年以上血を絶やしていない二家】
常満・常喜の二家は、代々、絶える事がないよう、
お互いに、養子を出し合ったりして支えています。

「そうでないと、1000年以上も、血を絶やさずに来る事は出来ません」
平安時代から続く、浄鬼・浄満の二家 〜 天台密教の修行場・明王院 〜|名古屋&京都を行き来する歴女編集者です〜取材・編集・デザイン・印刷・PV動画

http://www.youtube.com/watch?v=B_45-yG4nXw
https://matome.naver.jp/odai/2145553515878771001
2016年12月27日