描き出す生命の賛歌 ピエール=オーギュスト・ルノワールとは?

oreyoriyowaiyatuiruk
フランスの印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールとその作品ついてまとめました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
(Pierre-Auguste Renoir、1841年2月25日 – 1919年12月3日)

ピエール・オーギュスト・ルノワール はフランスの印象派の画家であり、その作品は日本でも広く知られている。

楽しく絵を描く青年

ルノワールがまだ画学生だった頃、師のグレールにこう皮肉を言われた。「君はただ自分を楽しませるために、絵を描いているようだね」と。ルノワールは、「もちろんですとも。もし絵が私を楽しませてくれなかったら、私は絶対に、ここでこんなことなんかしていませんよ」ときっぱり答えたという。
http://kugabi.fc2web.com/kan6-10.html

1864年サロン入選 その後入選と落選を繰り返す

ロメーヌ・ラコー嬢の肖像
1864年

たすき@japaaan3

うわロメーヌ・ラコー嬢天使やんけルノワールさんまじ天才っす
日傘のリーズ
1867年

1867年の夏にパリ近郊シャイイ=アン=ビエールの森の中で日傘を差す女性像を描いた本作は、翌年のサロンに出品、画家としては二年ぶりの入選作品となった。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/renoir_lise.html

1870年、普仏戦争 友人の死

フレデリック・バジール
フランスの初期の印象派の中で特に重要な画家のひとりである。故郷南仏のような強く輝く陽光と、その中に潜む、冷謐で繊細な陰影が織成す様々な色彩の特徴や効果を、独自の表現様式で捉え表現する。その類稀な画家の才能はクロード・モネに「あなたは非常に恵まれた才能を持つ、あらゆる条件を満たした画家であり、であるからこそ素晴らしいものを作らなければならない」と言わしめるほどであった。初期のバジールは、外光要因を強く意識した印象主義的表現が主体であったものの、20代後半から晩年期にはアカデミックな表現へと変化していった。

1870年~71年までルノワールは普仏戦争に徴兵され、創作活動は一時中断される。この戦争で友人バジールは、命を落とした。
ルノワール

バジール『ルノワールの肖像』 pic.twitter.com/CtLP0F2MPm

印象主義の時代へ

普仏戦争で友人のバジールを失ってからモネといっそう親密になった。二人は肩を並べアルジャントイユで風景を描いた。
http://www.artmuseum.jpn.org/mu_impressiontop.html

クロード・モネ

チェルヴィ@0527YKM

モネとルノワールが仲良しっていうのが好き///
重要視するものは違うのに、色使いが似ているのがうぁああ!ってなる(*´w`*)

梅澤亜季@ume_chan0621

ルノワールがモネの奥さんと息子を描いていたり、モリゾの絵の背景にドガからもらった日本の扇子が描かれていたりと印象派の画家たちの仲良しエピソードが好き。ストーリーが絵の向こう側にうっすら見えるのがいいですね

2つの風車(Moulin)に挟まれた納屋を改造して造られた場所で、 作品のタイトルにもなっている「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」は、カフェの名称でもありました。作品制作にあたって、ルノワールは友人達をモデルにしました。

音楽が流れ、人々は踊り、笑い、歌う。
カフェの喧噪が想像できます 。
確かにルノワールの言葉通り、見る者を自然と笑顔にする絵だと思います。
ルノワール「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」_メルシーパリ.ネット

陽光を浴びる裸婦
1876年

「習作」と題して第2回印象派展に出品した作品であるが、批評家の嘲笑を浴び、フィガロ紙も「緑色や紫色がかった斑点だらけの肉体」と酷評した。庭の樹間から洩れてくる日の光が女性の肌にわずかにかかり、その体はほとんど、茂みにこぼれ落ちる光のさまざまな影に包まれている。緑や紫がかった色合いは樹葉に反射した光を映し、柔らかな肌色を美しく際立たせる。モデルはマネの作品にもしばしば登場する愛称アンナという女性。

舟遊びをする人々の昼食
1880 – 81年

第7回印象派展に出品された本作は、一方で印象主義時代との決別を告げた作品でもあり、自身の重大な転換期における集大成的な最後の作品としても特に重要視されている。

せな@midorinka1988

人間って本当に美しいものを見た時って自然と涙出ちゃうんだなあ…。ルノワール「舟遊びをする人々の昼食」を実際に見た時も涙でたし…
ルノワールの『舟遊びの昼食』について発表したら、今まで話したこともあまりない女の子が別の授業の時にわざわざ「今日の発表良かったよ!」と言いに来てくれた。感動と感謝で死ねる。

変化 脱印象派

ルノワールは、1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。

この時期、特に1883年頃からの作品には、新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。
ルノワール 有名な作品・代表作の解説

ブージヴァルのダンス
1883年

けろぴろり@keropirori

@redizumi 印象派展いかはったんですね♪『ブージヴァルのダンス』当時17歳のヴァラドン(ユトリロのオカン)が美しすぎる〜(42歳のおっさん)ルノワールが心を奪われたのもわかる気がします。

1890年代以降 本来の暖かい色調が戻りヌードを数多く描いた

ピアノに寄る少女たち
1892年

Hulot@pieta_beatrice

ルノワールの描く肌を見るのは本当に心地よい。オランジュリーの『ピアノに寄る少女たち』は、リボンの青みが衣服と少女の肌の白みにほんのり混じって指先まで伸びてゆく感じにたまらなく悶えてしまう。 pic.twitter.com/QTFmGChg
眠る浴女
1897年
水浴の女たち
1910年頃

レ・コレットと呼ばれる広大な地所を購入し、この地で死を迎えた

artmall@artmall2

#美術トリビア 】イケメン画家 #ルノワール は歌声までもが美しく、聖歌隊に所属していたこともあったとか。晩年は、戦争に心を痛めたためか、家に引きこもって女性の裸ばかりを描いていました。
数年前にルノワールの晩年の映画まで作られてて子供のことでも色々大変だったんだなと思う

BUTCHER@建御雷@swingbutchers

ルノワールの晩年のエピソードは結構好き

chibita@Chibita7132

勝手にそう名付けられて、こんなに時間を経ていますが、印象派画家達は別に印象を描こうとした訳じゃ無いんです。

…さて、では 何を描こうとしていたでしょう?

ジャン・ルノワールのお父さんは、絵を描きながら目を酷使しし過ぎて、晩年はほぼ失明していたそうです。

https://matome.naver.jp/odai/2145256915441459201
2016年01月12日