自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと願い、被爆で亡くなった永井隆の作品を、今。

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戦後70年という節目の年であり、新しく法案が決まりました。70年前、実際に原発の被害に遭いながらも、執筆した永井隆の想いに触れてみませんか。

永井隆とは

永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 – 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士であり随筆家。
『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。


『長崎の鐘』は、永井隆が執筆した随筆。1949年1月に出版され、紙不足の当時とし­ては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした歌謡曲はヒット。さらに松竹に­より映画化され、版を重ねることになった。

「この子を残して」は、木下惠介監督によって映像化もされた。
「この子を残して…この世をやがて私は去らねばならぬのか!」
永井の悲痛な叫びと哀しみ、そして深い愛情が、この作品から聞こえてくる。
昭和天皇も永井の作品を読んでいた。
「どうです、ご病気は?」
昭和天皇は、ベッドのすぐ近くまでお寄りになり永井隆博士をいたわられた。
「あなたの書物は読みました」と昭和天皇がおっしゃると、博士は『この子を残して』に登場する子どもたちを振り返って「これが本の中に出てくる子どもですよ」と紹介した。昭和天皇は、子どもたちをしばらくご覧になった後に、「しっかり勉強して立派な日本人になって下さいね」とお声をかけられた。

永井は感動にむせび泣いたという。
この時の印象を博士は後に「天皇陛下にお会いして」という手記に次のように記している。

「私はあの細やかな心遣いをして、どんな小さなものでも、いたわられる愛情と御態度こそ、今の私達日本人が、毎日の生活にまねをしなくてはならないと思う。

今日本人はお互いに分離しているが、陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が、甦って日本人が再び結びつく」

永井隆の愛
永井の子へ対する、深いふかい愛が、体をむしばむ病魔の痛みに耐えつつ、「この子を残して」「長崎の鐘」を生み出したのだ。

永井の深い愛情は『いとし子よ』へ、次世代へと紡がれていた。


私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。

永井は『いとし子よ』の中で日本国憲法についてふれ、自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと書いている。

この願いは戦後の長崎に希望の光を照らし、人々を勇気づけたのです。

このまとめをきっかけに、永井隆の作品や、想いと愛にふれていただけたら、と思います。

https://matome.naver.jp/odai/2144332408799975801
2015年09月27日