「巌流島」で宮本武蔵と決闘した
長刀を操る剣術家
「物干し竿」と呼ばれた非常に長い刀を使い
一撃必殺の秘剣「つばめ返し」という技で敵を倒す最強を誇った剣士だったが
慶長17年(1612)4月13日 巌流島で
宮本武蔵と1対1の決闘を行って敗れ、敗死した
遅刻してきた宮本武蔵が小次郎を挑発し
イライラして冷静さを失っている小次郎の頭を船のオールを削って作った木刀で一撃
小次郎は死んだと語られている
出身地
出身地は北九州だと言われているが、諸説あって不明
前田家の剣術指南役をも超える腕前
剣術は越前(福井県)を中心に広まっていた剣術「中条流」を学んだようで
同じ中条流の剣術家である
前田家の剣術指南役「富田重政」をも超える腕前を持っていたという
師匠は北条家の剣術指南役「鐘捲自斎」という人だったと言われている
性格に問題
豊臣家の重臣が彼を召し抱えようとしたとき
豊臣秀吉が「アイツだけはやめとけ」と言ったというエピソードもある
秀吉と小次郎が生きていた年代が微妙に合わないので真偽は不明
細川家に仕官
「巌流」という流派を創始し、細川ガラシャの夫であった「細川忠興」の細川家に仕官
巌流島の決闘の原因
宮本武蔵と決闘をするが
その原因は双方の弟子が互いの師匠のどっちが強いかで揉めたためだと言われている
巌流島の対決は小次郎暗殺の陰謀説
最近出て来た信憑性が高いと言われる資料から
小次郎暗殺の陰謀だったという説もある
細川家の中で小次郎の勢力が拡大したため
何者かがそれを嫌い
ちょうど武蔵と決闘が行われることになったのを利用して
小次郎を殺してしまったというものだ
その記録によると、武蔵と小次郎は普通に決闘を行ったが
あくまで腕比べの決闘であったためトドメは刺さず
その後に小次郎は息を吹き返したという
しかしそこに武蔵の弟子(?)らしき集団が現れて小次郎を襲撃
そのまま殺してしまった
怒った小次郎の弟子達が今度は武蔵を襲撃しようとし
武蔵は九州へ逃れたという
容姿は
吉川英治の『宮本武蔵』では
小次郎は前髪立の美青年で、物干し竿といわれるほどの長剣を背負い
「燕返し」という秘剣をつかったとされている
二天記 によると
宮本武蔵の死後120年ほどして書かれた武蔵の伝記『二天記』によれば
小次郎は越前の生まれ
同国の中条流の剣豪・富田勢源の家人となり
幼少のころから兵法の稽古に励み、勢源の打太刀をつとめるほどになった
勢源といえば小太刀の名手である
稽古でも相手に3尺以上の大太刀を持たせ、自分は小太刀で戦ったという
小次郎は大太刀を使ったが、勢源の小太刀に対してまずまずの技能を発揮した