南部 信直(なんぶ のぶなお)
南部 晴政(なんぶ はるまさ)
南部家24代当主 南部 晴政
男の子が、生まれなかったことで、”信直”を養子として迎え入れた。
その後、晴政に男の子が誕生したため、後継問題で家中が分裂してしまう。
南部 晴継(なんぶ はるつぐ)
南部晴政の実の子。
南部晴政が死去したことにより、南部家の25代当主となる。
しかし、同年に何者かによって暗殺されてしまう。
石川 高信(いしかわ たかのぶ)
南部信直の実の父。
津軽家との戦いで討たれてしまう。津軽家とは、仇敵の関係となった。
津軽 為信(つがる ためのぶ)
信直にとっては、実の父を殺された因縁の敵。しかし、秀吉によって私闘が禁じられる。
秀吉の命令で、小田原征伐や九戸政実の乱で、津軽家とは共闘することがあった。
北 信愛(きた のぶちか)
問題が発生すると、南部信直の擁立に尽力す
る。以後は信直の重臣として、内政・外交両
面で信直を支えた。信心深く、合戦の際には
髷に観音像を忍ばせていたといわれる。
「ひるむな!
俺らにゃあ仏さんがついてんだ!」
家中騒動で南部家の養子を辞退した”信直”を保護し、南部晴政と対立。
晴継が殺されて家督相続問題が発生すると、信直の擁立に尽力した。その後は信直の側近となり、内政や外交面で南部氏を取り仕切った。
八戸 政栄(はちのへ まさよし)
晴継が急死して家督争いが起こると、南部信直の擁立に尽力した。以後は信直の右腕として活躍した。眼疾患で盲目だったという。
九戸 政実(くのへ まさざね)
南部家の後継者争いでは、弟の”実親”を推すが、後継者には選ばれなかった。
”晴継”を暗殺したのは、”信直”らではないかという説があり、信直が継いだことに大きな不満を抱いた。
九戸 実親(くのへ さねちか)
南部晴政は次女を、南部一族の中で有力者である九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせる。
その後、南部宗家の家督をめぐって争うが敗れる。
九戸政実の乱
後継者争いに敗れた後、九戸実親こそが南部家の当主であると自称し、5,000人の兵力をもって挙兵した。
南部一族の精鋭であった九戸勢は強く、南部信直は苦戦した。自力での九戸討伐を諦めて、秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請する。
秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回る。
討伐軍は政実・実親の籠る九戸城を包囲。善戦した政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、出家姿で討伐軍に降伏した。
秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。
そして女子供を含む九戸一族も斬殺され九戸氏は滅亡したが、政実の実弟・中野康実の子孫が、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
斯波 詮直(しば あきなお)
当主となった信直は、敵対関係だった斯波 詮直(しば あきなお)を攻撃。
斯波詮直の家来の裏切りによって、斯波氏の軍は崩壊した。
前田 利家(まえだ としいえ)
北信愛を名代にして加賀国の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示した。
南部 利直(なんぶ としなお)
を積極的に支持した。慶長出羽合戦では東軍
に属して、最上領への援軍として出陣する。
しかし、領土拡大を密かに謀った伊達政宗に
より、南部家領内に一揆を起こされて、その
鎮圧に奔走した。
「民の幸せを思うのであれば
ただ愚直に、己の任務をこなせ!」
第26代当主・南部信直の長男。
江戸に向かう際に花巻城に立ち寄り食事を所望したところ、出された物は椀に盛られた一口大のそばだった。
殿様に対して市民と同じ丼で差し上げる事は失礼と思い、山海の幸と共に漆器のお椀に一口だけのそばを試しに出したのであったが、利直はこれを「うまい」と何度もお代わりをした。
これが、盛岡名物のわんこそば。「わんこ(お椀)」で食べる
石川高信の嫡男で、南部晴政の妻を娶った。
南部家当主・晴継の死により後継者争いが起
こると、北信愛らに支持を受け、当主を継承
することになった。この決定を不服とした津
軽為信らと戦うが、豊臣秀吉に臣従したこと
で所領を安堵された。
「勇敢なる南部武士よ、俺に続け!」