【日本のゴーギャン】ほとんど知られていない田中一村が分かる5つのウンチク。

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「田中一村」と言う画家をご存知でしょうか?知る人ぞ知る無冠の画家。「日本のゴーギャン」と呼ばれている孤高の画人です。若くして才能を認められたにもかかわらず、いくつもの苦難に見舞われ、中央画壇とは一線を画したまま、遠い南国の地で最期を迎えます。そんな田中一村を5つのウンチクでまとめています。

孤高の画人「田中一村」は絵筆一本の放浪の旅に出た。
画壇と決別し、向かったところは奄美大島。最期まで個展も開かず奄美を描きつづけたそうです。
そんな田中一村を見るための5つのウンチクを紹介していきましょう。

田中一村
田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

01.若いときは神童と呼ばれ、さまざまな賞を授賞している。にもかかわらず画壇から評価を得られなかった。

1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
田中一村 – Wikipedia

「現下聖代の画壇に、各流派盛運を見るといえども、けだし南画をもって冠とす。これ東洋文化の精髄にして、本邦に伝わりしは徳川中期に過ぎざるも、遠くは支那の唐代におこり、連綿としてその真価は賞賛され、最近では西欧の画壇にさえその影響を与えている。しかし真の南画は、堂奥深遠にして凡者の至り得るところにあらず」
「ここに奇跡ともいわんか。天賦の鬼才田中米邨画伯は未だ弱冠十九歳にして、巨匠呉昌碩の水準に及び、その画は神通自在、天馬空を走るがごとく、卓然として峙(そばだ)ち、見る者官展審査員といえども、皆舌を巻きて驚嘆す。真に不世出の天才児なり」
田中一村の遊印

南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』

1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
田中一村 – Wikipedia

「美校を退学した米邨は、南画で身を立てる決意を固めた。中国大陸に留学して南画の勉強をしようという夢があった。しかし、借家暮らしの一家の家計では、これもかなわぬ夢であった」とのことである。
田中一村の遊印

南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』

23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
田中一村 – Wikipedia

奄美大島にいくまでの作品
1908年から1938年までの作品
白梅 牡丹図 倣蕪米 倣聾米 倣木米 倣鐡齋 農村春景 蕗の薹とメダカの図 ほか

1938年に千葉に移り、1958年奄美大島に行くまでの作品。
白い花(1947:青龍社展入選作)
花と軍鶏(1953:襖絵)
能登四十八種薬草図(1955:やわらぎの郷・聖徳太子殿天井絵)
千葉寺の春の作品シリーズ
ザクロ図
室戸岬、九里峡、由布風景、
ニンドウにオナガ(1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ)

白い花
1947:青龍社展入選作
奄美大島にいくまでの作品

ヤマボウシの白花とみずみずしい青い葉が画面一杯にひろがり、背後の霧のなかに竹藪の奥行がわかる。左下にトラツグミが背を屈めた姿勢で静止している。清新な林の香りが流れ出てくるような作品。これが一村が生前に作品を発表した唯一の機会となった。翌年には作品評価をめぐって龍子と対立し、けんか別れになってしまう。

ニンドウにオナガ
1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ

02.奄美に移住して、大島紬の染色工として働きながら絵を描き続けるが、無名のまま生涯を閉じる。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
田中一村 – Wikipedia

一村は5年間働き、1967(昭和42)年夏に60万円の郵便貯金を蓄えていた。この資金で3年間、画業三昧の生活に入る。紬工場を辞める時「3年間絵を描いたら、またここで働きます」と挨拶したという。
田中一村

『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編1995 小学館

カメラマンの田辺周一さんのホームページに在りし日の田中一村さんの写真があります。

海神の首飾り
「海神の首飾り」田辺周一写真集
LIVRE(リーブル出版)

1976年4月~1978年8月撮影

表紙写真は小笠原・父島

1977年5月、ボク達が奄美で出会った澄んだ目の老人が田中一村 だった
田辺サイト トップ

名瀬市の外れになるのだろうか、ちょっ
とした集落の突き当たり、100Mから200Mほどの山
並であろうか、その山裾に一村宅はあった。

1977年5月、当時奄美で陶工をしていた彼の誘いで、名瀬有屋の画狂老人、田中一村に三人で会いに行った。
その後私は8月にも奄美に行き、一村にあった。何とか彼を記録していきたいと思ったからである。
残念ながらこのもくろみは9月11日の一村の死で幕を閉じるのであるが、田中一村はこの時から僕たちの中に生き続けるのである。
http://www6.ocn.ne.jp/~hitotono/new.html

「田中さん、写真を撮らしていただいてよろしい
ですか」と尋ねると「どうぞ」といってにこやかな
返事が返ってきた。
そのとき改めて見た一村の目は、少年のように
澄んでいた。

田辺周一  ホームページ ・・行雲流水の日々・・
http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/

「田中一村へのオマージュではないけれど、森の中から突然現れた野生の山羊を、僕たち三人は息を押し殺し見つめている。まるで一村が描いた奄美の杜の絵のように」
http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/rurikakesu.htm

03.日本のゴーギャンと呼ばれて見直されたのは没後だった。

没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。
田中一村 – Wikipedia

2010年9月12日放送 再放送:9月19日
田中一村 奄美の陰影
田中一村 奄美の陰影|NHK 日曜美術館

NHK日曜美術館
『初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)』部分
NHK日曜美術館
一村の思い出を語る川村不昧さん
NHK日曜美術館
奄美の写真家・濱田耕作さん

出演
小林 忠さん(千葉市美術館館長)  川村不昧さん(一村の親類)
奄美で亜熱帯の植物や鳥などを描いた日本画家の田中一村(1908-77)。生前に作品を公表する機会もなく無名のまま亡くなった画家の過去最大の展覧会が始まった。
田中一村 奄美の陰影|NHK 日曜美術館

一村は奄美で何を見て、何を描こうとしたのか。ハンセン病患者との交流や、遺品に秘められた謎、新発見のスケッチや関係者の証言も交え、知られざる一村の素顔に迫る。没後33年を経て明らかになる田中一村の真実とは?
田中一村 奄美の陰影|NHK 日曜美術館

生前はまったくの無名でありながら、死後十年足らずでこのように爆発的な人気を得た画家もめずらしい。日本画の伝統を超越してしまったような南国の動植物が織りなす幻想的な美と、貧に徹して己れの芸術に殉じた求道者ともいえる激しい生き方が、強く人々の心をとらえるからだろう。」
田中一村の遊印

湯原かの子著『絵のなかの魂 評伝・田中一村』

「一村に魅せられたじつに多くの人びと、それをひそかに一村病といっているのだが、その一村病にとりつかれた人々と変わらぬ付き合いを重ねてきたし、今もつづいている。田中一村ほど、各々が『自分のよく知っている画家である』とか、『自分の田中一村』と思っている画家はいないのではないか。例えば横山大観について、東山魁夷について、人びとがこれほど熱く語り合うことがあるだろうか。自分の身近な画家という捉え方こそ、一村の不思議な魅力であり、一村病なのであろう。」
田中一村の遊印

大矢鞆音著書『画家たちの夏』(

奄美の田中一村・1977年5月8月    25ページ

04.これは百万円でも売れません。 これは私の命を削つた絵で閻魔大王えの土産品なのでございますから

現在確認されている作品数は下絵やスケッチを除いて約600点弱。そのうち160点余は田中一村記念美術館に所蔵され、寄託品も含めると450点を収蔵している。
田中一村 – Wikipedia

1958年奄美大島に移った後1977年没までの作品

素描シリーズ
花と鳥
ダチュラとアカショウビン
「奄美の杜(もり)」シリーズ
アダンの海辺
高倉のある春景
花と蝶、花と蛾、ほか

田中一村作品集
2001年に出版された『田中一村作品集[新版]』の増補改訂版。
異端の画家・田中一村は、特定の画壇に属さず師につかず、その学びの姿勢は克己と挑戦であった。日本の南画にとどまらず、本場中国美術をも自分のものにし、西洋絵画においてはピカソまで視野に入れていた。

独学の果てに選んだテーマは「墨画の近代化」。亜熱帯の植物をモチーフに「奄美12か月」を完成させた。228点におよぶ収載作品から、その生涯と軌跡を新たにたどる。

「これは百万円でも売れません。
これは私の命を削つた絵で閻魔大王えの土産品なのでございますから」 中央画壇に背を向け、奄美の極貧の生活の中で、独自のスタイルの絵を描き続け、一人死んでいった日本画家の生涯。
加藤邦彦

1997年/三一書房

「不喰芋と蘇鉄」
中でも、昭和40年代に描かれた「不喰芋と蘇鉄」(くわずいもとそてつ)は奄美作品の集大成ともいわれ、一村自らも自分の命を削って描いたもので閻魔(えんま)大王への土産品だと語っている。

田中一村 奄美の陰影|NHK 日曜美術館

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0912/

『アダンの画帖 田中一村伝』
南日本新聞社編
『アダンの画帖 田中一村伝』
1995年に小学館から再刊

05.田中一村のあまり知られていないこと。

田中一村の生涯を描く映画『アダン』が企画された。2006年5月20日公開。
製作:映画「アダン」を作る会、DHC
エグゼグティブプロデューサー:水野清
監督:五十嵐匠、脚本:松山善三、原案:中野惇夫、音楽:安川午朗
配給:東京テアトル
出演:
田中一村:榎木孝明
アダン:木村文乃(公募により本作でデビュー)
田中喜美子:古手川祐子
荒木泰雲:村田雄浩
住友先生:加藤剛
山上北斗:中村嘉葎雄
田中一村 – Wikipedia

アダン ADAN [DVD] 榎木孝明 (出演), 古手川祐子 (出演)
『地雷を踏んだらサヨウナラ』の五十嵐匠監督が、孤高の日本画家・田中一村の生涯を描いた伝記ドラマ。貧しい生活の中、一心不乱に絵に打ち込む一村。だが彼の絵はなかなか認められず、ついには公募展の主宰者・山上北斗に激しく詰め寄り…。

鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。
田中一村 – Wikipedia

田中一村記念美術館
中一村記念美術館は,鹿児島県奄美パーク内にあります。
<お問い合わせ>
鹿児島県奄美パーク・田中一村記念美術館
〒894-0504 鹿児島県奄美市笠利町節田1834
TEL:0997-55-2635
FAX:0997-55-2613
鹿児島県奄美パーク
日本, 奄美パーク(バス)(鹿児島)
田中一村終焉の家
昭和33年、50歳のときに画家として生涯最後の作品に取り組む決意をみなぎらせ奄美に移り住んだ一村は、奄美の自然に魅せられ、亜熱帯の植物や魚を精密な写生と大胆な構成で描き続けました。長年住んだ借家からこの家に移った一村は、ここを御殿のようだといってとても喜び、新たな創作意欲を燃やしていたといいます。昭和52年9月11日、69歳で人知れず息を引き取るまで奄美を描き続けました。毎年、命日にはこの場所で地元有志による一村忌が行われます。
鹿児島県奄美市名瀬有屋38番地3、4
日本, 〒894-0062 鹿児島県奄美市名瀬有屋町38
https://matome.naver.jp/odai/2143247085786601001
2015年05月31日