シベリア出兵から満州国の建国、盧溝橋事件の勃発、日中戦争の開始までの歴史

misukiru
1918年から1922年までの「シベリア出兵」から、満州国建国、日中戦争の開始までをまとめました。

シベリア出兵に伴う日本の財政悪化

シベリア出兵の地図
当時は、かなり適当な地図で出兵していた事が分かります。国民が知らないうちに国民の金が使われて、国家の財政はどこかに流用されていました。

日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退
シベリア出兵 – Wikipedia

1918年における日本の占領地域
日本は、当時からかなりの戦力を北方に投入していた事が分かります。これで財閥は儲かったんですけど、庶民の生活は悲惨なものでした。

4年間のシベリア出兵での戦争は、三菱、三井、住友、大倉、鈴木などの、財閥が利益を出しただけで、多くの人が亡くなり、結果、領土も、お金も、資源も、何も残らなかったのでした。
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日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵など、5年おき程度に戦争をしていった結果
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1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍
強大であったロシア帝国は、内部から弱まろうとしており、列強と呼ばれた国々によって、東方のシベリアから干渉されていくことになります。

歴史に残る大虐殺の「尼港事件」が発生

シベリア撤兵の遅れへ
ロシアの「ニコライエフスク」となっている街で起こった日本人に対する虐殺事件です。

共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。
尼港(ニコライエフスク)事件

「大正九年五月二十四日午後十二時 忘ルナ」と書かれています。

1930年代の昭和恐慌で農村が困窮

救助団体によって救われた身売りされた子供たち
1930年代に身売りされた子供たちが救助された時に撮影された様子です。

世界恐慌(1929年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増
<娘身売りの時代>  昭和初期・東北地方 染川瀝青

娘を売るのが罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持できないのである。
山下文男著「昭和東北大凶作」 – 弁理士の日々

中国国内でのクーデターにより紫禁城を追われた溥儀は北京の日本大使館に匿われ、翌年に天津の日本租界に移ります。
愛新覚羅 溥儀

満州国の建国

溥儀
在位:1932年3月9日 – 1934年2月28日(執政)
1934年3月1日 – 1945年8月18日(皇帝)
戴冠:1932年3月9日、道台衙門(執政)
1934年3月1日、於杏花村順天広場(告天礼)・帝宮勤民楼(即位式)
別号:浩然 (号)、ヘンリー(英名)
全名:愛新覚羅溥儀

清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝と称した。
愛新覚羅溥儀 – Wikipedia

トップが清の皇帝といっても、その政府は日本の関東軍の命令に従う人達で固められていたのでこの満州国は殆ど日本の操り人形状態。
日中戦争の原因と流れ

大連ヤマトホテル
満州では、日本の財閥の資金の下で、多くの建物が建設されました。ヤマトホテルもそのひとつで、チェーン化された欧州のホテルに模した高級ホテルとして運営されました。日本の高級官僚であったり、現地の金持ちが利用していました。

1931年の満州事変

1931年の満州事変から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの日本の戦争を、一連の戦争とみなす十五年戦争という概念もある。
日中戦争 – Wikipedia

第三期には中国権益を保持するために干渉する英米への依存打破をめざし、ワシントン体制に挑戦し、米英との全面戦争に至る
日中戦争 – Wikipedia

盧溝橋事件の経過図

中国では一般的に七七事変と呼ばれる。この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。
盧溝橋事件 – Wikipedia

満州国から中国大陸への進出
満州国から南下して北京に攻めて入る日本軍ですが、北京・上海などを落せば、中国政府が降伏すると思い込んでいましたが、そうなりませんでした。
日本の最大勢力範囲
日本は、北京、上海の主要都市などを占拠していましたが、中国の広大な土地を占領できるはずもなく、中国政府も奥地に逃げて降伏する見込みもありませんでした。既に目的が分からない戦争となっていました。

日中戦争における日本兵の残虐性

中国兵士を殺す様子
日中戦争の当時は、捕虜を殺すのが当たり前に行われていました。拳銃に付属している銃剣で刺し殺すという事が一般的でした。

戦場に来たばかりの新兵などがその役割に当てられました。もちろん、人を殺したい人など存在しませんが、命令とあれば仕方がなかった事でしょう。

斬首を公開し,戦友・同僚に誇示したいと感じた日本兵もいたであろう。戦場における勇ましさを尊ぶ心理が,ゆがんだ形で具現した。
捕虜POW:連合軍捕虜と日本軍捕虜の運命 鳥飼行博研究室

刺殺を命じられ,拒否すれば差別待遇をされたり,私的制裁(リンチ)を受けることを覚悟しなくてはならない。
捕虜POW:連合軍捕虜と日本軍捕虜の運命 鳥飼行博研究室

中国人の男性を虐殺する日本兵
多くの日本兵が見守るなかで、中国人の男性を虐殺が頻繁に行われました。
中国兵士を殺害する日本兵
頭をすっぱり切り落とす事は、当時は敵に対する情けぐらいに思われていたようです。

◆関連リンク

https://matome.naver.jp/odai/2143236911501703601
2018年09月05日