ガートルード・バニシェフスキー【シルヴィア・ライケンス事件】

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ガートルード・バニシェフスキーと彼女の2人の子供、その遊び友達の2人の少年が、引き取った少女、シルヴィア・ライケンスを虐待し、死亡させた事件。

シルヴィア・ライケンス事件

ガートルード・バニシェフスキーと彼女の2人の子供、その遊び友達の2人の少年が、引き取った少女、シルヴィア・ライケンスを虐待し、死亡させた事件。
監禁事件 – 海外編 : perspective

ガートルード・バニシェフスキー【シルヴィア・ライケンス事件】

ガートルード・バニシェフスキー

ガートルード・バニシェフスキーは、1929年にガートルード・ナディーン・ヴァン・フォッサン(Gertrude Nadine van Fossan)の名でヒューとモリー夫妻の6人兄弟の3番目として生まれた。1940年に心筋梗塞による父親の急死を目撃。その5年後、16歳で学校を中退して18歳の保安官助手であったジョン・バニシェフスキーと結婚し、4人の子供をもうけた。

しかしジョン・バニシェフスキーは癇癪持ちであったため10年も経たずに離婚した。その後すぐにエドワード・ガスリーと再婚、さらに2人の子供をもうけたが1963年までに再び離婚した。

さらに、34歳のとき23歳のデニス・リー・ライトと同棲するが、ライトはドメスティック・バイオレンスに走ったうえ、息子のデニス・ジュニアが生まれた後、ライトはガートルードを捨てて失踪してしまった。
インディアナ州の新聞であるインディアナポリス・スター誌の報道によれば、事件当時のガートルード・バニシェフスキーには、『やつれて、体重が標準以下で、喘息持ち』[5]で、鬱病を患い、幾度かの結婚の失敗からのストレスがあったのだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

加害者:ガートルード・バニシェフスキー
Gertrude Nadine Baniszewski
(1929年9月19日-1990年6月16日)

シルヴィア・ライケンス

シルヴィア・ライケンス(Sylvia Marie Likens、1949年1月3日 – 1965年10月26日)は、旅芸人一座の労働者であったレスター、ベティ・ライケンス夫妻の子供として誕生した。シルヴィアは2組の二卵性双生児の間に生まれ、2歳年上のダイアナとダニエル、1歳年下のジェニーとベニーという5人兄弟の3番目であった。ライケンス夫妻の結婚生活は不安定で、一家は頻繁に引越しをしていた。シルヴィアはしばしばよその家に下宿したり、強引に親戚の家に預けられたりした。

また、シルヴィアはベビーシッターやアイロンがけのアルバイトを行っていたほか、好きなロックグループは当時の若者として一般的なビートルズであった。バニシェフスキー家に下宿入った最初の頃には、ガートルードの娘のステファニーと一緒にビートルズの歌をうたい、彼女と好意的な関係にあったという。

なお、シルヴィアは、14もの住所を転々としていた。これまでの彼女の生活では頻繁に引越しを繰り返され、両親が子供たちを連れて一緒に行くことが出来ない場合には、祖母の家に預けられたり、よその家に下宿したりすることが数多くあったためである。

1965年には、祖母が万引きで逮捕、拘留されたために、インディアナポリスで母親と一緒に生活していたが、その時期にシルヴィアの妹であるジェニーがポリオの後遺症で身体障害者となった。その頃妻と別居していたレスター・ライケンスは、娘たちの下宿先を探していたところ、知り合いであったポーラ・バニシェフスキーの母親であるガートルード・バニシェフスキーから、シルヴィアとジェニーの下宿を引き受けるとの申し出があった。実際にはバニシェフスキー家は非常に貧乏であったが、レスターは後に裁判で陳述したように家の中の様子を見せてもらえず、またガートルードの「娘を正してあげる(straighten his daughters out)」という言葉に勇気付けられた 結果、レスターは週20ドルで娘たちを下宿させてもらうことに合意したのだった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

被害者:シルヴィア・ライケンス
Sylvia Likens Case
(1949年1月3日-1965年10月26日)

シルヴィア・ライケンス事件の概要

1965年7月から、ライケンス姉妹はバニシェフスキー家へ下宿。
はじめは平和だった。
姉妹は高校に通いながらバニシェフスキー家の子供達と一緒に生活し、ガートルードと教会へ行ったりした。

二週目。20ドルの支払いが一日滞ると、虐待が始まった。

子供達にシルヴィアを殴打させ、階段から突き落とさせた。
ガートルードは、彼女の尻を叩き、「あんたは淫売」と罵倒。

この頃。
シルヴィアに、ガートルードの娘ステファニーとポーラが売春をしているという噂を流しているという虚偽の疑いをかけられる。
ステファニーの彼氏(コイ・ハバード)は激怒し、彼や近所の子どもたちも暴行に加わるようになる。
「淫売」と言葉で罵られ、煙草の火を押し付けられ、膣にコーラの瓶を挿入され、男たちの前でストリップの真似事を強要された。

シルヴィアが失禁をすると、地下室に閉じ込められた。
ろくに食物は与えられず、自身の糞便を食べることを強要される。

1965年10月21日。
針でお腹に焼印を刻まれる。
「私は淫売で、そのことを誇りに思う(I’m a prostitute and proud of it)」

翌日、ガートルードはシルヴィアに、両親へ自分が家出したことを告げる手紙を書かせる。
シルヴィアは脱走を試みるが、失敗し、再び地下室に監禁される。

1965年10月24日。
激しい折檻によって、シルヴィア・ライケンスは息を引き取る。
16歳だった。

彼女は小児麻痺の妹ジェニーを守る為に自らが犠牲になったと考えられる。

http://blog.livedoor.jp/junkoakaishi/archives/35566231.html

逮捕とその後

警察に通報したのは、例の文字を刻むのを手伝わされたリチャード・ホッブスだった。彼はガートルードの使いっ走りのような役割を担っていたようで、その日も彼女に頼まれて通報したのだ。
ガートルードは遺体を確認した警官に1通の手紙を差し出した。それはシルヴィアが死ぬ直前に書いたという両親に宛てた手紙だった。ガートルードが強制的に書かせたものであることは云うまでもない。

「パパとママへ。
この2週間、私が何をして来たか書こうと思います。
私は学校のロッカーから体操着を盗みました。
公園の販売機からコーラを盗もうとしました。
ロニーとドニー・シンプソンとセックスしました。ダニーとジェニーはそのことを知っています。
私はカリフォルニアでマイク・エルソンと一緒に人目を避けて暮らしていました。ジェニーとベニーはマイクのズボンが下ろされるのを見ています。
私は自分と同じようにジェニーをトラブルに巻き込もうとしました。
ママのことでマーティンおばさんに嘘をつきました。
私は3歳の子供の顔を殴り、お尻を叩きました。ポスト・ロードの屋外便所でやりました。
カリフォルニアで生活していた時に盗みを働きました。
ポスト・ロードの仕事をクビになったのは、私が子供の顔を殴ったからなのです。
トラブルばかり起しました。
私はママとパパが離婚してくれたらいいと思っています。そうすればママと一緒に暮らせるからです。
私は結婚している男とコンバーチブルに乗ってドライブしました。
ガートルードから10ドル盗みました。
ジミー・Bを落として、背中から地面にぶつけました。
理由なくシャーリー・Bをぶちました。
以上のことはすべて真実です。
ジェニーは行儀よくしてます。
シルヴィア・ライケンス」

つまり、これほどに悪い娘なのですよ、だから折檻したのですよ、ということをアピールしたわけだが、だからといって殺していいわけがない。
また、ガートルードはシルヴィアにこのような手紙も書かせている。

「ライケンス夫妻へ。
私は夜中に少年たちと出掛けました。彼らは私が『いいこと』をしてあげたらお金をくれると誘ってきました。だから私は車に乗ったのです。彼らはやりたい放題やって事が終わると、私をさんざん殴りました。顔や体中に傷あとが残りました。
さらに、彼らは私のおなかに『私は売春婦、そして、それを誇りに思う』と書きました。
ガーティ(ガートルードのこと)の頭をおかしくして、財産を使い果たさせるためだけに、私はあらゆることをして来たのです。新しいマットレスを引き裂き、その上におしっこをしました。ガーティを神経衰弱にして、彼女が払えないような金額の医療費を払わせもしました。台所のいすも壊しました。私はずっとガーティや彼女の子供たちを神経衰弱にして来たのです。入院費が1日につき35ドルかかりました。それでも私はやめなかったのです。ガーティたちの迷惑になることなら、常識を外れていようと何でもやりました」

この上、更に損害賠償金でもせしめようとしていたのだろうか? 誠に恐ろしい限りである。
これらの嘘はすぐに露見した。実況見分を終えた警官たちが立ち去ろうとしたその時、妹のジェニーが涙ながらに駆け寄って、こう叫んだのだ。
「ここから出して! みんな話すから!」
(Get me out of here and I’ll tell you everything !)

裁判において、ガートルードは精神異常を理由に無罪を主張した。しかし、その主張は通らず、第一級殺人で有罪となり、終身刑が云い渡された。
娘のポーラと、息子のジョン、リチャード・ホッブス、コイ・ハバードの4名は、ガートルードに支配されていたことが斟酌されて、 故殺で有罪になるに留まり、2年から21年の不定期刑が云い渡された。彼らは2年後に釈放されている。
なお、ポーラが裁判中に産み落とした娘は、母親に因んでガートルードと名付けられたという。その名前ではイジメられるので、やめた方がいいと思う。

ガートルードは1985年、大衆の抗議にも拘らず仮釈放された。ナディーン・ヴァン・フォッセンと名を変えてアイオワ州に移り住み、そこで1990年6月16日、肺癌のために死亡した。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text3/baniszewski.html

ガートルード・バニシェフスキー(公判中: 逮捕直後と違って意識明瞭)
ガートルード・バニシェフスキー【シルヴィア・ライケンス事件】
ジェニー・ライケンスと姉たち(公判廷)
ガートルード・バニシェフスキー【シルヴィア・ライケンス事件】

映画化

アメリカン・クライム
『JUNO/ジュノ』のエレン・ペイジ主演、65年にアメリカで実際に起きた事件を元に描いた衝撃のドラマ。シングルマザーのガートルードに預けられたシルビアとジェニーの姉妹が、ガートルードやその子供たちなどに恐ろしい虐待を受ける様子を鮮烈に描く。
隣の家の少女
ジャック・ケッチャムによる1989年発売の小説。インディアナポリスで実際に起こった殺人事件をベースとしている。
https://matome.naver.jp/odai/2142500018939238701
2015年03月09日