かつてこんな凄い日本人がいた!「中村天風」さんってどんな人?【松岡修造さんも絶賛】

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中村天風さん(1876年 – 1968年)は、明治、大正、昭和という激動の時代を圧倒的に駆け抜け、戦後は自らが設立した「天風会」を通じ、政財界、スポーツ、文化の大物に影響を与え続けてきました。
天風さんの残した数多くの名言が書籍やCDにおさめられ、毎日のようにツイートされ、まとめサイトなどでも紹介されています。ここでは、中村天風さんを知らない方に、この方がどんな方だったかを簡単にまとめてみます。

中村天風さん
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 – 1968年12月1日)は日本の思想家、実業家、諜報員。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。

名言集はこちらをご覧ください
https://matome.eternalcollegest.com/post-2134896930654232001

と、これだけでは、彼がどんな人かよくわかりません。
ここだけですと、立派な方ではあるけれど、興味は湧きませんでした。
ですが、彼のエピソードひとつひとつをひもといていくと、あまりに凄すぎて、なぜ彼のような方がそんなに有名でないのか不思議でならないほどです。

では、ひとつひとつ辿ってまいりましょう。

幼少期から英語が堪能で、授業はオール英語だった!

1876年(明治9年)、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生
中村天風 – Wikipedia

王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。
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ここで福岡に行ったのがポイントだと思います。

幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能
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もう、この段階で語学は完璧です。

事件が発生!そして頭山満さんとの出会い

柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまう
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この件で正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となった。その後、1892年(明治25年)に玄洋社の頭山満のもとに預けられる
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このとき、天風さんはまだ15歳とか16歳です。
頭山満さんは37歳くらいだと思います。

天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた
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頭山満さんの深い懐のもとで、若いエネルギーを爆発する様子が目に浮かぶようです。

軍事探偵(諜報員)として活躍!

16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島に潜入し錦州城、九連城の偵察を行う
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明治三十七年(1904)日露戦争勃発。軍事探偵として目覚ましい活躍をする。この間コサック騎兵に捕えられ銃殺となる寸前、同僚の投じた手榴弾の爆発により吹き飛ばされ九死に一生を得る等、日夜死生一如の境地で過ごした。
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日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった
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ここまでで十分に映画一本は作れると思います。

不治の病に犯され、余命幾ばくも無いと宣告される

○明治三十九年(1906)或る日突然大喀血し軍医より奔馬性肺結核と宣告される。奔馬性肺結核とは、文字どうり駈ける馬のように早く、病状が進む肺結核で、当時としては、全く助かる見込みの無い病であった。この時、軍事探偵として数々の死戦を超えて、国家の為死ぬ事を誇りに思う程強いはずの自分の心が、突然死の恐怖に襲われる。
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30歳のときです。

当時結核に関する最高権威といわれた北里柴三郎博士の治療を受ける。病は好転せず、死の恐怖がますま強くなり、先生は再び元の強い心を取り戻したい一心から、心の探求に没頭し、医学、宗教、哲学、心理学の書を読みあさる。
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アメリカに密航!

その後1909年(明治42年)に作家オリソン・スウェット・マーデン(en:Orison Swett Marden)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、病気のために弱くなった心を強くする方法を求めてアメリカへ渡る決意をする。
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しかし結核患者には渡航許可が下りなかったため、親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する
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密航ですよ。すごい熱意です。しかし「孫文の親類」に成りすます、というのも凄いスケールです

アメリカに渡った天風はマーデンを訪ねたがあまり相手にされず、願いは果たせなかった
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せっかくの覚悟をもって渡米したにもかかわらず残念でした。。。が、しかし!!

コロンビア大学に入学!

華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。
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このパワフルな精神力、素晴らしいです!

そして、ヨーロッパへ渡る!

フランスに渡り、オペラ女優のサラ・ベルナール女史の紹介で、リヨン大学のリンドラー博士に会う。
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サラ・ベルナールの家に居候したそうです。

サラ・ベルナールはあのミュシャにポスターを依頼して、ミュシャがブレイクするきっかけを作った女優です。

ロンドンに渡り、H.アデントン・ブリュース博士の講座[精神活動と神経系統]に参加する。
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再びサラ女史の紹介でドイツに行き、哲学者ハンス・ドリュース博士に会う。求める答えは得られず、死期の迫るを感じ死ぬならば故国でと思い、五月、マルセイユで乗船して帰国の途につく。
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そのまま日本に帰ると思いきや、、、2年数ヶ月のヨガ修行で、難病を克服!

スエズ運河が、イタリア砲艦座礁の為通行不能となり、一時上陸したエジプトのカイロで、インド・ヨーガ哲学の聖者カリアッパ師とめぐり合う。
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師に導かれてヒマラヤ第三の高峰カンチンジャンガの山麓ゴークの里に入り、ヨーガ哲学の行の指導を受ける。
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二年数ヵ月の修行で難病は治り、悟りを得て、カリアッパ師より帰国の許しを得る。
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辛亥革命に参加!「中華民国最高顧問」となる

1913年にインドを立ち日本へ向かうが、その途上で孫文の起こした第2次辛亥革命に巻き込まれ、そのまま「中華民国最高顧問」として協力。
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革命は挫折したものの、その謝礼として財産を得た。
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帰国後はビジネスマン。そして銀行頭取へ!

帰国後は時事新報の記者を務め、実業界に転身すると東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍
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そのほか、いくつかの企業で役員をつとめたそうです。

突如、社会的地位を捨て「統一哲医学会」を創設

1919年(大正8年)5月末のある日、頭山に代わって公演を行っている最中に突然感じるところがあり、頭山に相談した上で一週間の間に一切の社会的身分、財産を処分して6月8日に「統一哲医学会」を創設。
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43歳のころです。

毎日芝公園、上野公園の路傍に立ち、大衆に呼び掛けては、心身統一法の弘布を始める。
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実業界で活躍していた人が、毎日ストリートで講演活動をはじめたわけです。

その後統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するようになった
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1968年(昭和43年)12月1日に天風は92歳でこの世を去った。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある
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中村天風さんの門弟や影響を受けた人たち

中村天風さんの熱意と教義の真価は、広く各界に認められ、次第に門弟の数を増し、各地に支部もつくられるようになり、門弟には錚々たる有名な人も多く、皇族、芸術家、科学者、実業家から学生まで、あらゆる階層、あらゆる思想の人にわたっています。

東郷平八郎
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) – 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末のから明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位・大勲位・功一級・侯爵。
稲盛和夫
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年1月21日[2] – )は、日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人 稲盛財団理事長。日本航空名誉会長。
松下幸之助
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 – 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者である。異名は経営の神様。
自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。
尾崎行雄
尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年[注釈 1]11月20日(1858年12月24日) – 昭和29年(1954年)10月6日)は、日本の政治家。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。
双葉山定次
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 – 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現・宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。
宇野千代
宇野 千代(うの ちよ、1897年(明治30年)11月28日 – 1996年(平成8年)6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。
堀越二郎
堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年6月22日 – 1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零戦の設計者として有名。
新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。

宮崎駿監督の「風立ちぬ」のモデル。

大佛次郎
大佛 次郞(おさらぎ じろう、新字体:大仏 次郎、1897年(明治30年)10月9日 – 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の作家・小説家。本名:野尻 清彦(のじり きよひこ)。
『鞍馬天狗』シリーズの作者として有名で、現代小説、歴史小説、ノンフィクション、さらには新歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。
原敬
原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) – 大正10年(1921年)11月4日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。
杉浦重剛
杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。
ロックフェラー三世
山本五十六
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 – 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)
多田宏
多田 宏(ただ ひろし、1929年12月14日 – )は、東京府(現・東京都)出身の日本の武道(合気道)家。合気会九段。
松岡修造
知人からいただいて読まずにいた。
負け続きで引退を考えていた。
もともとの自分は「超」がつくくらい消極的。
そんな時にこの本を読んで、心が前向きになった。
この言葉がということではなくて、「先生の教え」
三遊亭圓生 (6代目)
6代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1900年〈明治33年〉9月3日 – 1979年〈昭和54年〉9月3日)は、大阪市西区出身で東京の落語家、舞台俳優。本名、山﨑 松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。出囃子は『つくま祭』、のち『正札付』。
5代目三遊亭圓生は継父、5代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。
https://matome.naver.jp/odai/2142434878627053701
2015年02月24日