二条城は東に3度傾いている!
二条城といえば、修学旅行先の定番ですね。
世界遺産に登録されている、とっても美しいお城です。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、
江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあります。
二条城 – Wikipedia
そんな二条城ですが、地図で見てみると、何やら傾いてみえる?
(原因は、)
宣教師によって日本にもたらされた
方位磁石を普請(ふしん)の際に用いたためのとの説がある
二条城 – Wikipedia
…という説があるそうです。
とはいえ、今の京都での磁北は西に7度傾いているんですね。
なぜ東に3度なんでしょう?
実は時代によって方位磁針が指す北(磁北)は移動しているんですね。
現在は北から7度西ですが、
伊能忠敬が地図を作製した200年前は
ほぼ北を向いていました。
350年ほど前に来朝したオランダ船の記録は、
約8度東だったことを示しています。
このことから日本付近の偏角は、この350年で
東から西へ15度ほどずれてきたことがわかります。
このような地磁気が数十年から数百年という
長い間に変化することは世界中でよく知られており、
これを地磁気の永年変化とよんでいます。
1600年からの図ですが、当時は東へ4度傾いています。
今(2000年)は西へ7度ほど。
二条城が築城したのは1603年。当時は約4度東へ傾いていたようです。
地磁気の話(続き)二条城は周辺の地割りに比べ南北軸が約3度東に傾いています。その理由は平安京の造営時には北極星を目印に方位を決めていたのがこの城の建築では西洋人が持ち込んだ磁石を使った測量を行ったため方位にずれが生じたとする説が有力。 pic.twitter.com/OSVB4TFQHa
— 国土地理院地理地殻活動研究センター (@GSI_Research) May 19, 2014
この江戸時代初期に建造された建物の中には、
二条城以外にも真北からずれた建物があったそうです。
江戸時代初期に建造された大規模建築には、
方向が地理的南北あるいは東西から明らかにずれているものが。
京都大学大学院理学研究科付属地磁気世界資料解析センター(pdfファイル)
二条城の築城に際しては方位磁石(コンパス)を用いて
南北を決めたからであろうと言われています。
(「建築技師史の謎を解く」西和夫著1986年彰国社)
京都大学大学院理学研究科付属地磁気世界資料解析センター(pdfファイル)
北極星で方位を決めてたそうで、
そのため、碁盤の目は
おおよそ真北を向いているそうです。
二条城のお堀はコンパスで決めたから、
当時の磁北を向いているのだそうですよ。
金閣寺の金ってどれくらいの重さになる?
flickr Kinkaku-ji 金閣寺_13 by ajari
金ぴかで美しい姿は誰しも魅了されます。
こちらも世界遺産です。
金閣寺は鹿苑寺(ろくおんじ)という名前で、
室町幕府3代将軍足利義満が創設者。
鹿苑寺 – Wikipedia
3階建で1階には金箔はありません。
2階と3階だけ金箔が貼られています。
初層は金箔を張らず素木仕上げとし、
二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。
三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。
鹿苑寺 – Wikipedia
昔の金箔量はわからないのですが、
昭和の大改修の記録は残っているようです。
金閣寺の金箔張り替えは
1986年2月から始まり、1987年9月10日に完成した。
10.8センチ四方の金箔約20万枚(約20キロの金)を使用。
金閣寺の金箔はどのくらいの量が使われているのか。 | レファレンス協同データベース
張り替え前の10倍の量で、金箔の厚さは5倍でそれを二重に貼った。
総工費は7億4千万円。
flickr Kinkaku-ji 金閣寺_01 by ajari
金の総量は約20㎏です。
薄い金箔でも、
これだけ使うと、
約20㎏までになるんですねぇ。
清水寺の清水の舞台はどうやって修理しているの?
清水寺の創建は778年。
清水寺 – Wikipedia
平安京は794年なので、それよりも古いんですね。
なんて表現があるくらい有名な場所ですね。
江戸時代には実際に234人が飛び降りたとか。
「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け :日本経済新聞
生存率は85.4パーセントだったそう。
清水寺 – Wikipedia
明治5年(1872年)に政府が飛び降り禁止令を出し、
柵を張るなど対策を施した
重要なのが飛び降りの動機。
「観音様に命を預けて飛び降りれば、
命は助かり願いがかなうという民間信仰からです」と坂井さん。
「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け :日本経済新聞
無茶な飛び降りは、実は願掛けだったそうです。
清水寺は創建後、記録に残るだけで9回焼失
清水寺 – Wikipedia
最後の焼失になった近世の寛永6年(1629年)の焼失後、
寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建された。
現在の清水の舞台は1633年に完成しているのですが、
修理はどうやって行ってきたのでしょうか。
実は、最近の2013年に修理されてたんですね。
1633年再建の本堂の舞台部分は、
計78本のケヤキの柱で支えている。
【京都・清水寺】あの清水の舞台の木の柱はどうやって修理しているの? – NAVER まとめ
今回の修理対象は、傷みがひどい9本の柱
(高さ10~14メートル、最大直径約80センチ)で、
損傷部分を切り、根元部分に新たな部材の柱を入れる
「根継(ねつぎ)」の工事をする。
傷んだ根元部分を30~90センチ切り取り、
新しい木材を継ぎ足す「根継ぎ」という伝統的な工法を使う。
京都・清水の舞台、修理公開 9月中に終了予定 – 47NEWS(よんななニュース)
根継(ねつぎ)とは
木造建築で、柱や土台などの腐った部分を取り除き、
新しい材料で継ぎ足すこと。
根継ぎ(ネツギ)とは – コトバンク
京都の昔の地名って?
京の都、平安京と呼ばれる前の地名です。
flickr 京都一望 by eiko_eiko
和気清麻呂は天皇を将軍塚にお誘いし、
京都盆地を見下ろしながら、
都の場所にふさわしい旨を進言したそうです。
792年9月と11月に桓武天皇は
山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら)を
遊猟にことよせて視察
都市史02 長岡京
平安京と呼ばれる前は
山背国葛野郡宇太村(やましろこく・かどのぐん・うたむら)だったんですね。
修学旅行で定番の名所は洛中洛外図屏風にも載っている場所!?
昔に描かれた京都の風景の屏風絵である洛中洛外図屏風。
この中で、1565年に完成した上杉本と呼ばれる屏風があるのですが、
二条城を除くいろんな名所が載っています。
上杉本が完成したのは、永禄8年(1565年)9月3日、
織田信長から上杉謙信に贈られたのは天正2年(1574年)3月
洛中洛外図 – Wikipedia
二条城築城は1603年で、この屏風は1565年に出来ているので、
二条城は載っていません。
金閣寺、北野天満宮、
嵐山の渡月橋などが載っています。
清水の舞台、八坂神社、四条大橋、
京都御所などが載っています。
昔々の人と同じ光景を見ていると思うと、ちょっと感慨深いですね。
ちょっと東に傾いているように見えますね。