あの有名企業の前身は中島飛行機【戦前の日本最大の航空機会社】だった

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敗戦を迎えるまで国内最大の飛行機製造会社だった中島飛行機。戦後はGHQによって解体されましたが、技術者達は各分野で活躍して戦後の工業発展を支えました。とりわけ技術者も多くが転身した自動車産業の発展は、中島飛行機の高い技術力が集約した結果といえます。

中島飛行機とは

中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1945年まで存在した日本の航空機・エンジンメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平で飛行機報国を念じ創設した。
中島飛行機 – Wikipedia

エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。
中島飛行機 – Wikipedia

日本初のジェット機 橘花(きっか)

太平洋戦争の最中、航空機用ピストンエンジンの開発は性能的な限界が見えてきました。当時の日本は、燃料となるガソリンが不足してきており、質の悪い燃料でも高性能が可能なジェットエンジンの開発が急務でした。
橘花

ジェットエンジンは海軍空技廠の種子島 時休大佐の指揮の下、研究開発され、機体は中島飛行機の松村 健一技師を中心に最優先で開発しました。そして激しい戦火の中、完成したジェット機が橘花です。
橘花

終戦間際の1945年8月7日、木更津飛行場にて約12分の試験飛行に成功
橘花

戦時中ジェット機が完成した国はドイツ・イギリス・日本の3カ国だけで、日本の航空機技術の高さを証明するものとなりました。
橘花

その高い技術力は世界的に知られており、終戦直前までは三菱重工業をも上回る実績を持っていました。いわゆるゼロ戦のうち、有名なものはほとんどが中島飛行機の製品です。
中島飛行機|国産ジェット機MRJの挑戦

しかし、軍需産業という目的で設立された航空機メーカーであることから、終戦直前の時期には戦闘機の生産拠点を破壊するために、アメリカ軍の爆撃目標にされることは当然の流れで、中島飛行機の工場はほとんどが無くなってしまいました。
中島飛行機|国産ジェット機MRJの挑戦

終戦までに計29925機の航空機を生産した。三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産している。
中島飛行機 – Wikipedia

そして終戦を迎えた

敗戦でGHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体された。技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
中島飛行機 – Wikipedia

合併や解散などを経て現在に至ります

富士重工業 (スバル)
(東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮冨士工業、宇都宮車両が合併して富士重工業が誕生)
THKリズム
富士機械
輸送機工業
マキタ沼津、マキタ
GKNドライブライントルクテクノロジー
イワフジ工業
中島飛行機 – Wikipedia

富士重工業といえば、スバル

中島飛行機がスバル製品に静かに息づいている。

THKリズム

富士機械

輸送機工業

マキタ

GKNドライブライントルクテクノロジー

イワフジ工業

https://matome.naver.jp/odai/2142243857680562901
2015年01月31日