アブドラ国王逝去、サウジアアラビアの今後はどうなる!!??

sangolow

渡部篤@watanabeatushi

サウジアラビアのアブドラ国王の死去について、欧米のメディアは葬儀の模様・サルマン新国王の即位も時間をかけて報道。日本のテレビメディアは、皇太子殿下、福田康夫元総理の弔問についても一部テレビしか報じない。ECBドラギ総裁の量的緩和、ギリシア総選挙も深みのある内容はなかった。

サウジアラビアのアブドル国王崩御が世界的なニュースになっている!!

アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード
(アラビア語: عبد الله بن عبد العزيز آل سعود, ラテン文字転写: Abdullah bin Abdulaziz Al Saud)
1924年4月1日 – 2015年1月23日 享年90歳

宮内庁によると、皇太子さまは首都リヤドでサルマン新国王やムクリン新皇太子と会い、弔意を伝えられた。皇太子さまを親友だという新国王は「日本を愛している」と応じたという。

それで、アブドラ国王ってどんな人??

1924年8月1日、イブン・サウードの第8夫人ファハダ・ビント・アル=アースィー・アッ=シュライム(シャンマル族の出身)の子としてリヤドで生まれる。ファハダはイブン・サウードに1920年に殺害されたラシード家第10代当主サウード(Saud bin ʿAbdulazīz)の未亡人。
1963年にサウジ国家警備隊長官、1982年に第一副首相に就任。
1995年にファハド国王が脳卒中で倒れて以来、王太子として事実上の摂政となり、実権を握る。
2005年ファハド国王崩御、アブドゥッラー即位。

王位に就く前は強硬な保守派とみられていたが、女性に投票権を与えたり、議会に登用したりするなど改革派の一面も。高等教育にも熱心であり、奨学金制度を整備し世界各地に10万人を超える留学生を送ったほか、国内でも大学新設を進め、2000年初めに10校足らずだった大学は、現在は30校以上にまで増えた。
アブドラ国王死去 「女性登用の改革派」アルカーイダ脅威低減も 中東調査会・村上拓哉研究員:イザ!

内政では女性の地位向上や教育の近代化を推進。産業の多角化、若年層の雇用創出にも力を注いだ。
サウジのアブドラ国王が死去 アラブ穏健派の指導者  :日本経済新聞

[2014年11月14日(Fri)] まだごく一部でしか、報道されていないのだと思うが、サウジアラビア政府はメッカにある、イスラム教の預言者ムハンマドの生家を、破壊することを決定したようだ。
その理由は、アブドッラー国王の宮殿を建てるためだというのだから、世界中のムスリムから反発が起こる、可能性があるのではないか。アブドッラー国王の新しい宮殿は、相当な規模のようで、その計画に預言者ムハンマドの生家の土地が、重なっていたのであろう。

え!?タリバンの支援者だった!!??

諸説ありますが1990年代の話です。世界中のマドラサ(イスラム神学校)に出資しているサウジアラビア王室ですが、アフガニスタンの安定化に対する期待が高かった為、パキスタンを通じて資金援助を行っていました。1978年より続くアフガニスタン紛争の中、1994年頃から台頭し始めたタリバンはマドラサの学生たちが中心に結成されています。当初は軍閥を駆逐し、治安を回復するなどの功績から住民に歓迎されていました。
アメリカも中央アジア安定化に期待してタリバンを支援していた時期があります。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件より、サウジアラビアとアラブ首長国連邦はタリバン政権の承認を取り下げました。

イスラム諸国の中では親米の筆頭、しかし微妙な関係・・・

01年の米同時テロで実行犯の大半がサウジ出身者だったこともあり、その後の米主導のテロとの戦いでは米と緊密に協力した。イスラム過激派の台頭を警戒し、昨年には「イスラム国」掃討に向けた有志連合の空爆作戦に加わった。
サウジのアブドラ国王が死去 アラブ穏健派の指導者  :日本経済新聞

2011年の民主化要求運動「アラブの春」以降は微妙な関係です。
アブドラ前国王同様に親米であったエジプトのムバラク大統領が「アラブの春」で失脚した際、米国が擁護しなかったことがきっかけと言われています。また、シリア内戦では反アサド政権で一致しながら軍事介入への躊躇、核開発を進めるイランへの懐柔姿勢に不信感を募らせていたと言われます。
現在では「イスラム国」台頭の危機から関係改善に向かっている模様です。

そもそもサウジアラビアってどんな国??

首都リヤド、イスラム教の聖地メッカとメディナを擁する。
人口約2920万人(2012年)、国民意識は希薄で、部族対立、地方対立、宗教対立、階級対立が内在。
法律上飲酒は禁止だが一般人の飲酒は珍しくない。

世界一の原油埋蔵量を持ち、OPEC(石油輸出国機構)の盟主として国際原油市場に強い影響力。
一方で財政収入の8割を石油に依存している。

サウジアラビアは「サウード家によるアラビアの王国」の意味。
サウード家を国王に戴く絶対君主制国家で、首相は国王が兼任、重要ポストは王族が占める。
アラブ・イスラム諸国との結束強化、並びに欧米諸国との協力強化を基本とする穏健な外交方針。

サウジアラビアと言えばこんな方が有名になりましたね。

『タイム』誌によって「アラブのウォーレン・バフェット」と名づけられた。

YENZO@YENZOU

CNBCでサウジのアルワリード王子が、現有は100ドルに戻ることはないといっているが本心かな
#kawase #fx

サウジアラビアの歴史を簡単にまとめると・・・??

1744年に第一次サウード王国がディルイーヤに建国。別名ワッハーブ王国、国王はワッハーブ派イマーム(指導者)を兼任。
1818年にオスマン帝国とエジプトによって第一次サウード王国が滅ぼされる。
1824年、王族トゥルキー・ビン・アブドゥッラーがリヤドに移って建国、第一次王国同様にワッハーブ派イマームが国王兼任。内紛激しく、ナジュド北部のラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国に次第に実権を奪われる。
1891年、最後の王アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウードがラシード家からの実権回復に失敗してリヤドを追われ、滅亡。
1902年、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードがラシード家よりリヤド奪還、ナジュドで第三サウード王国建国。近隣諸国を次々に征服・併合し、1932年にサウジアラビア王国成立。

1933年にサウジアラムコ設立、1938年ダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」発見、最貧国サウジアラビアが次第にに経済的繁栄と国際的発言力を獲得する。
1953年、同国王崩御、次男サウード即位。
1964年サウード退位、異母弟のファイサル即位。
1973年、第4次中東戦争において石油戦略を用い、石油危機を引き起こす。これ以後サウジアラビアを初めとした石油輸出国機構 (OPEC) が国際的に大きな影響力を持つ。
1975年、ファイサル国王が甥により暗殺、異母弟のハーリドが継承。(1979年:イラン革命)
1982年、ハーリド崩御、異母弟ファハド即位。(1991年、湾岸戦争)
2005年、ファハド崩御、異母弟アブドゥッラー即位。
2015年、アブドゥッラー崩御、前国王ファハドの同母弟(スデイリ・セブン)サルマーン即位。

アブドラ国王逝去の影響と今後の展望

NY原油が47ドル程度に上昇 減産に消極的なサウジ国王死去で
NY原油が47ドル程度に上昇 減産に消極的なサウジ国王死去で:イザ!

アブドラ国王は減産について否定的な姿勢で知られていただけに今後の減産合意などについて期待感が広がったようです。
アブドラ国王の死去とサルマン新国王の即位は原油市場に大きな影響を与えるか | ダックビル為替研究所 | Klugクルーク – FX投資家向けの為替ニュース・相場コラム・経済指標カレンダー

絶対君主制の下、国王が首相を兼ねるサウジアラビアでは国王の意見は絶対であるとみられるだけに新国王の姿勢が今後の注目となります。
とはいえ、後退して直ぐに変更に動くとは少し考えにくいです。
当面は現状維持と見られます。

成毛 眞@makoto_naruke

サウジの新国王になったサルマン皇太子は79歳。亡くなったアブドラ前国王ともども眉毛も髭も真っ黒の家系だ。いや、感想はそれだけである。新皇太子のムクリン王子は69歳。そこそこ白髪っぽい。 fb.me/7Ii7Z6hl6

しかしながら、サルマン新国王が抱える課題は大きい。北で国境を接するイラクではスンニ派過激組織「イスラム国」が猛威を振るい、南のイエメンでは反体制勢力によって中央政府が崩壊の危機にひんしている。サウジ自らが主導する石油価格の下落は、サウジの国家経済にも打撃を与えている。そして何より、地域の最大のライバルであるイランの動向にも注意を払わねばならず、今後も難しいかじ取りを要求されよう。
アブドラ国王死去 「女性登用の改革派」アルカーイダ脅威低減も 中東調査会・村上拓哉研究員:イザ!

派閥抗争の火種を残したまま、という見解もある。

古山 雅之@fururunn

【中東】アブドゥラ前国王の崩御、サルマン新国王の即位の陰であまり注目されていないが外相を務めるサウード・ビン・ファイサル王子がアメリカで手術を受けたとのこと。約30年外相を務めているサウジ外交の顔であり、中東情勢のキーパーソン。 arabnews.com/node/694526#.V…
https://matome.naver.jp/odai/2142209943564757201
2015年05月20日