【雑学】教科書には載ってない! 歴史のトリビア、逸話 日本史編 part2

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日露戦争では全国各地に凱旋門が建てられた

当時建てられた凱旋門

日清戦争も日露戦争も、戦況は終始日本優位に進み、兵士は勝った勝ったで凱旋する。それを迎える側は、各地に凱旋門を作って大歓迎した。
日露戦争の凱旋門を大観光

現存する唯一の石造凱旋門

夏目漱石の脳は、エタノール漬けにされ、東京大学医学部に保管されている

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。
夏目漱石 – Wikipedia

夏目漱石

室町幕府第5代将軍足利義量は、アルコール中毒により将軍職の2年目で死んだ。当時19歳

足利義量

応永30年(1423年)3月18日、17歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任した。
義量は疱瘡を患うなど生来から病弱であった上、大酒飲みでさらに健康を悪くしたと言われている。15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられている。
足利義量 – Wikipedia

世界で初めて覚せい剤を発明したのは日本人

戦前の覚せい剤、ヒロポン

薬学界の長老だった長井長義博士が、「麻黄」の有効成分で喘息や咳の薬として使われるエフェドリンを創製したとき、その誘導体の1つとして作られました。明治26年(1893)のことである。
ところが、1938年にドイツでメタンフェタミンが発売される(商品名は「ぺルビチン」「ベンゼドリン」など)。ドイツ軍は長時間にわたる過度の軍務を容易にし、一方では士気が高まることから、兵士への供給を開始する。それを見た日本軍もさっそく導入を決め、製薬業者に生産させ、軍用に使った(1940年にメタンフェタミンの市販開始)。
覚せい剤の歴史

松永久秀は、クリスマスを理由に停戦した

永禄11(1567)年の堺近郊で起きた織田信長と松永久秀との戦いで、クリスマス休戦を申し出る。両陣営にいた約70名の武士が、堺の教会に集い、ミサや懺悔を行い、料理を持ち合い仲良く食事もした。翌日、再び敵味方に別れて戦場に戻った。
戦国時代のクリスマス

日本で最初のカレーはカエル肉が入っていた

西洋料理指南

1874年(明治5年)発刊の「西洋料理指南」に、カエル肉の入ったカレーのレシピ記録が残っている。中国の食文化をイギリスの貿易商が取り入れ、日本に伝えられた際に、蛙肉入りのレシピとなったようだ。
ちなみに、カレーライスに限らず日本では、食用カエルのモモ肉を「田鶏」呼び、良く食べられていたようだ。
日本最古のカレーはカエル入り – Zatupedia

一時期広島が日本の首都になったことがある

広島の大本営の写真

日本(大日本帝国)では、日清戦争中の1894年に大本営が広島市に設置され(広島大本営)、これを指揮するために明治天皇が移り、帝国議会(第7回帝国議会)も広島臨時仮議事堂で開催された。このため「広島市が臨時首都の様相を呈した」といった形容が用いられる。
臨時首都 – Wikipedia

野口英世の金銭感覚は荒く、留学費用を宴会で使い果たした

野口英世

明治33年(1900)、渡米の費用にと小林家から200円、帰国したら娘さんと結婚する約束で結納金として斎藤家から300円贈られた。ところが、横浜の大料亭「神風楼」で友人たちと別離の宴を大々的に行い、この大金が残金30円になった。 ビリヤードですったとも言われる。まだ船の切符も買っていなかった。
泣き付かれた血脇さんは、あきれながらも高利貸しから300円借りて、野口に渡した。
野口英世の金銭感覚

カルピスは大正5年から販売していた

戦前のカルピスのポスター

創業者三島海雲は、内モンゴルで出会った酸乳の健康への効果に感銘を受け、日本で乳酸菌を用いた食品を作り、人々の健康に貢献したいと考えて研究を重ねた。その結果、酸乳を発酵させて砂糖を加えたクリームである「醍醐味」の開発に成功し、1916(大正5)年、生産・販売を開始した。
企業情報:1.乳酸菌の研究から「醍醐味」・「ラクトーキャラメル」の開発・発売:カルピス

1940年に東京オリンピックが開催される予定であった

東京オリンピック準備段階の記事

1940年(昭和15年)に東京市(現・東京都区部)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。
史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われるオリンピック大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。
東京オリンピック (1940年) – Wikipedia

https://matome.naver.jp/odai/2141675461592380601
2015年08月18日