【松永】 弘前大学教授夫人殺人事件 【那須】

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1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件、あるいは冤罪被害者の名を取って那須事件とも呼ばれる。(Wikipedia)

1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件、あるいは冤罪被害者の名を取って那須事件とも呼ばれる。
弘前大学教授夫人殺人事件とは – Weblio辞書

1949年8月6日 深夜

弘前医科大学教授 松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。
弘前大学教授夫人殺人事件 – Wikipedia

昭和24年8月6日夜、青森県弘前市で松永藤雄・弘前大学医学部教授の妻すず子さんがノドを刃物でつかれ殺害された。事件当日、松永教授は勤務のため不在で妻のすず子さんは幼い子供と就寝中。実母は隣の部屋で就寝していた。犯人は、薄暗い部屋に侵入しすず子さんだけを殺害した。

すず子さんは、近所で評判の美人であった。このため、怨恨か性犯罪癖の者による犯行と思われた。そこで、弘前警察署は教授やすず子さんの人間関係を調べたが夫婦関係は良好で問題は無かった。次に通常であれば、付近で性的犯行歴のある者の割り出しとアリバイ捜査を行うのであるが、何故か警察は、この関係の捜査をしなかった。

現場検証では、すず子さんが殺害された部屋から廊下にかけて血痕が発見された。捜査官は、この血痕を頼りに捜索を始めた。すると血痕は、玄関から道路に出て所々に散見された。やがて一軒の家前にある垣根の葉っぱに付着していた血痕を最後に、その先どこにも血痕は見当たらなかった。
弘前事件(事件史探求)

血痕が途切れた所にある家の住人の男を逮捕

弘前市警は近隣住民の無職の男、那須隆を逮捕。

勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定(フランス語版)でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。
弘前大学教授夫人殺人事件 – Wikipedia

1951(昭和26)年1月12日、1審の弘前地裁は那須に無罪を言い渡した。これに対して検察側は控訴。

2審の仙台高裁は一転して、東大法医学の権威である古畑教授が「那須の白開襟シャツに付着していた血痕は98.5パーセント被害者の血痕である」という鑑定結果を重視して那須に懲役15年を言い渡した。

那須は上告したが、1953(昭和28)年2月19日、最高裁は2審を支持して那須に懲役15年が確定した。

那須は、無罪を主張しながら服役。
弘前事件

22年後、真犯人が名乗り出た

昭和38年,11年間の服役を終え仮出所した那須隆さんは,周囲の差別に耐えながら真犯人探しを続けることになる.そして8年 後,殺人の時効が成立した後に事件当時容疑者の一人だった滝谷福松が,自分が真犯人であると名乗り出たのである.滝谷福松は那須隆さんの幼友達で容疑者の 一人だったが,ウソのアリバイを証言してくれた者がいて罪を免れていた.滝谷福松が真犯人と名乗り出たのは.三島由紀夫の割腹自殺にショックを受け,男ら しい死を考えたからであった.事件の再審判決公判が,昭和52年仙台高裁で開かれ,那須隆さんは27年ぶりに無罪となった.「開襟シャツに付いていた血痕は捏造によるもの」とされた.真犯人が名乗り出たのだから,那須隆さんは完全な冤罪の犠牲者であった.
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ちなみに滝谷と那須は幼友達の間柄で家も近所であった。

福松は、美人のすず子さんを強姦しようと侵入。殺害後に死姦しようと思ったが噴き出る血に怖じ気ついて逃走。その逃走経路は那須宅と隣家の間にあった生垣を通って自宅に逃げ帰ったことが判明した。
弘前事件

開襟シャツの血痕

仙台高裁の控訴審において有罪の決め手となったのは開襟シャツに付着してい たとされる血痕だった。事件現場の畳表に付着した被害者の血痕と、那須さんの 部屋から押収された開襟シャツに付着していたとされる血痕が同一のものである と判定されたのである。

再審判決により真犯人が断定されており、那須さんが無実である以上、双方の 血痕が一致するはずがないのは明らかなのであるが、何故その様な鑑定がなされ てしまったのであろうか。

この「物証」は複数の鑑定人の手により検査されており、その色合いや斑痕数 が徐々に変化していった事が記録されている。最初の鑑定人は「灰暗色」、次は 「褐色」、さらに「赤褐色」と変化していき、斑痕数も増えていったのだった。

血痕であるという認定をしなかった最初の鑑定人は、自分が検査した後に誰か が血痕を付着させたのだろうという見方をしている。
那須さんの”無実”は確定したが、鑑定に関する”重大な疑惑”については未 決着である。
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一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。
弘前大学教授夫人殺人事件 – Wikipedia

那須隆は仙台高裁に再審請求を出した。

当然、再審開始と世間は思ったが、高裁は再審請求を却下した。

裁判官や検察も弁護士も、なぜ再審請求が却下になったのかに納得する説明をしなかった。

2年後、那須隆は二度目の再審請求を出した。

今度は、あっさり受理され、決め手だった血痕鑑定は間違いだった、あなたは無罪だという判決が出た。
冤罪: まほろばの郷

なぜ2年前は却下されたのか。

それは東大教授の古畑種基がその鑑定をやったからだった。

彼は科警研所長も務め、文化勲章も受章した人だ。

真犯人の登場で彼の鑑定がいんちきとばれた。

古畑は再審法廷に引き出され、無実の者を罪に落とした学者として世間の晒しものになる。

それで無名の一市民の汚名は雪げても、東大の名声も、司法、文化勲章の権威も傷付く。

代価が高すぎる。再審請求は蹴ってしまえが真相だった。

では今回はなぜOKだったのか。幸いというかその間に古畑が鬼籍に入った。

もう喚問もできない。本人がいなければいんちき鑑定は警察の捏造かなんかにすればいい。
小泉を吊るせ 変見自在 連載—381 高山正之 – 超芸術と摩損

那須隆 氏が死去

弘前大教授夫人殺し事件で犯人とされ、その後、再審無罪となった那須隆氏が1月24日午前0時12分に青森県の病院で死去していたことが5日、分かった。84歳だった。青森県出身。自宅は青森県つがる市稲垣町千年亀菊5ノ4。葬儀は近親者で済ませた。
那須隆氏が死去 殺人冤罪事件の元服役囚 – 47NEWS(よんななニュース)

2008年1月24日

https://matome.naver.jp/odai/2141411817420361601
2014年10月30日