◆千利休(せんりきゅう)縁の場所ご紹介◆
①侘び茶の大成
「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めた。
千利休の生涯
わび茶(わびちゃ、侘茶、侘び茶)は、狭義には茶の湯の一様式。書院における豪華な茶の湯に対し、村田珠光以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた茶の湯で、簡素簡略の境地すなわち「わび」の精神を重んじたもの。また広義には、千利休系統の茶道全体を指す。
わび茶 – Wikipedia
“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。
千利休の生涯
②千利休が追い求めた美学
現在国内には国宝の茶室が三棟あります。待庵、犬山の如庵、大徳寺の密庵であり、利休の作として伝えられる確かなものは待庵のみとなっていて、にじり口が設けられた小間の茶室であり、数寄屋造りの原型となっています。
国宝茶室 待庵
茶室への入り口。
■比較 : 秀吉の追い求めた茶室
豪華絢爛な黄金の茶室。
利休との価値観の違い、天下人への物怖じしない
その態度が秀吉の逆鱗に触れ切腹へと追いやれれて
いきます。
③千利休(せんりきゅう)の生涯
和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。
千利休 – Wikipedia
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。
④千利休ゆかりの物
画像からもわかるとおり、真正面に
ひび割れを箇所をわざと使用したの
でしょう。どこかしら、奥ゆかしさを
感じさせます。
大河ドラマ軍師官兵衛では、この
花いれを傲慢に投げ捨てる秀吉、
その傍らに座る千利休のコントラ
ストが印象的でした。
⑤千利休(せんりきゅう)切腹へ
⑥秀吉から切腹を命ぜられた理由は未だ定かではない
■考えられる理由
・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)
・安価の茶器類を高額で売り渡した(売僧(まいす)の行い)
・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
・秀吉と茶道に対する考え方で対立した。
・秀吉が利休の娘を妻にと願ったが「娘のおかげで出世していると思われたくない。」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。
・高麗文化を敬愛するあまり秀吉の朝鮮出征に反対した。
豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた理由は何ですか?豊臣秀吉が千利休に切腹を命… – Yahoo!知恵袋
●妙喜庵(みょうきあん)という寺院内に存在。
場所は京都府乙訓郡大山崎町にあります。
●住所
〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町竜光56