1984年デビュー編 80年代アイドル動画

おたきまん
80年代のアイドル動画まとめ。1984年にデビューした方々。

【岡田有希子】

1983年(昭和58年)3月30日、『スター誕生!』の第46回決戦大会で中森明菜の『スローモーション』を歌い、チャンピオンとなった。その後、サンミュージックにスカウトされ、同プロダクションに所属が決まる。
1984年(昭和59年)4月21日、「ファースト・デイト」で歌手デビューを果たす。目標は「聖子さん、百恵さんのような日本を代表するトップスター」になることだった。
1986年4月8日、自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂。2階上のマンション住民がガス臭に気づき、管理人が110番通報した。現場から程近い北青山病院にて治療の直後、所属事務所・サンミュージックが入居しているビルの屋上から飛び降り、全身を強く打って即死した。18歳没。

【菊池桃子】

1984年3月公開の映画、『パンツの穴』でヒロインを演じ、翌4月には『青春のいじわる』でアイドル歌手デビューを果たす。(トライアングルプロダクション、VAP)
キャッチフレーズは「It’s Real Fresh 1000%」。第26回日本レコード大賞新人賞受賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞受賞。ブロマイドの年間売上が1位に。
2014年現在、高校2年生の長男と中学1年生の長女の母親であると共に、母校である戸板女子短期大学の客員教授として、雇用政策(キャリア教育)について講義を受け持っている。

【倉沢淳美】

1982年、テレビ朝日の人気番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で、『萩本家3人娘』が成長していったのをきっかけに登場するユニットわらべの「かなえ」役で芸能界にデビュー。
ソロデビュー直後の1984年4月8日午後3時45分頃、札幌市において開催されたサイン会の会場で、サイン会終了後に会場玄関にてファンの見送りと握手をしているところに、サイン会に参加していた男から突然、刃物で斬り付けられ右手首を約6cm切る傷を負った。 犯人は26歳の会社員で警察の取調べに対し「生意気だから切った」と供述した。
その後オーストラリア人男性と結婚して渡豪。専業主婦のかたわら、時折わらべの再結成でテレビ出演している。3児(長男、長女、次男)の母でもある。 2011年8月よりドバイのパーム・アイランドに在住している。

【少女隊】

1983年にオーディションでミホ、レイコ、チーコの3人が選ばれ、結成された。翌年の1984年8月28日にシングル「FOREVER〜ギンガムチェックstory〜」、アルバム『少女隊Phoon』、12インチシングル「ESCAPE」、ビデオ『少女隊Phoon』を同時にリリースしてデビューする。そのプロモーションには総額30億円(一般的には40億円)をかけたとも言われた[要出典]。キャッチコピーは「胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ」。
所属事務所は、女性アイドル中心の芸能プロダクションのボンド企画だったが、同社は少女隊への多額投資も一因となり後に倒産した。

【荻野目洋子】

小学4年生の頃、テレビ番組、『ちびっこ歌まねベストテン』(東京12チャンネル〈現テレビ東京〉)に出演し、チャンピオンになったことでスカウトされて芸能界デビューした。
1984年(昭和59年)4月3日、「未来航海-Sailing-」でビクター音楽産業よりソロデビュー。その年の新人賞レースに多数参戦し、賞を総なめした。
デビュー当初はヒット曲には恵まれなかったが、デビュー翌年の1985年11月に発売した7枚目のシングル「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」がヒット曲となった。
現在は家庭と子育てを中心にしながら、芸能活動も行っている。

【セイントフォー】

1982年「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。 デビュー当初は板谷・浜田・鈴木・岩間(立ち位置順)で構成され、後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙をするなど、アクロバティックなパフォーマンスが話題になった。
プロモーション費用に40億円をかけたといわれ話題になった。しかし、所属事務所の日芸とレコード会社リバスター音産との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを出した後、新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2か月後、本人たちの意思という形で解散した。

【長山洋子】

当初は演歌歌手としてデビューする予定であった。演歌歌手としてのボイストレーニングを重ね、デビューに向けて順調に歩み続けていた。ところが、幻のデビュー曲となった「雪国」のレコーディングの段階に入った頃、「16歳の長山にはまだ演歌は早すぎる」との見方が事務所スタッフ達の中で強まったため、路線を急遽変更。1984年4月、女性アイドル歌手として「春はSA-RA SA-RA」でデビューすることになった。その時のキャッチフレーズは「ぼくの青春(とき)をとめる、少女がいた」である。
現在は、御本人の希望通り、演歌歌手として御活躍中。

【可愛かずみ】

1982年、日活ロマンポルノ映画『セーラー服色情飼育』で芸能界入り。ポルノ映画の出演は『セーラー服色情飼育』だけだったが、デビュー作であったこともあり、世間からは『ポルノ女優』とレッテルを貼られた。可愛本人は『ポルノ女優』と呼ばれることを嫌がっていた。
1983年11月、脱ぐ仕事をしたくないという理由で、オフィス・アンからマーカスに所属事務所を移籍。
歌の方では「春感ムスメ」でシングルデビュー。
1996年12月・1997年1月とリストカットの自殺未遂を繰り返す。1997年5月9日午前中に手首を切り3度目の自殺を図る。この時のためらい傷は3箇所に及んでいたという。縫合後、食事に出されたドリアを全部食べており、周囲の者には落ち着きを取り戻したように見えたという。しかし、午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、元交際相手の川崎選手が住んでいた目黒区駒場のマンション7階から飛び降り、帰らぬ人となる。

【田中久美】

1983年8月 第8回ホリプロタレントスカウトキャラバン優勝。
1984年3月3日 – シングル『スリリング』で歌手デビュー。キャッチフレーズは、彼女の特徴である大きな目にちなんで「きらめきEyeteen」。
1986年4月福岡県の実家に戻り、郷里の有名デパート・井筒屋に就職。職場結婚し(のち離婚)。一男二女の母で、孫(長女の子供)がいる。
北九州市小倉を中心にライブ活動などを行う。堀越高等学校の同級生で親友である岡村有希子(現:渡辺かえ)の影響で、ラジオパーソナリティとして活動。

【渡辺桂子】

スター誕生!にてテレビに出ているところを、芸能事務所・ゴールデンミュージックプロモーションの社長にスカウトされ芸能界入り。
1984年3月21日「お友達にしてくれませんか?」のキャッチフレーズでテイチクレコードより「H-i-r-o-s-h-i」で正統派アイドル歌手としてデビュー。同曲でザ・ベストテンのスポットライト、ザ・トップテンの話題曲など多くのテレビ番組に出演し、鳴り物入りのデビューであった。
1986年4月に出演番組で知り合った日系二世の男性と逃避行気味に渡米・結婚し、突然引退。 しかし離婚して翌87年秋に本名の「渡部桂子」で芸能界に復帰。といっても男性誌(GORO・週刊プレイボーイ・平凡パンチなど)に写真集の宣伝としてヌードを披露した程度に留まる。同時期にビデオ3本を出した以外はこれといった芸能活動をせずに事実上の再引退、大阪に戻り再婚・出産したと言われている。

【宇沙美ゆかり】

地元沖縄で開催されたタレントオーディションで芸能事務所スカイコーポレーションにスカウトされ、芸能界入り。1984年3月21日にはキャニオンレコードより「蒼い多感期」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ときめきタイフーン」。
1985年、フジテレビ系ドラマ『スケバン刑事』の主演に選ばれるが、同時期に松竹の奥山和由プロデューサーからの強いオファーにより映画『V.マドンナ大戦争』で主演を務める。一方、『スケバン刑事』は映画と撮影時期が重なり降板することとなる。
上述映画公開後に突然沖縄に帰郷。地元でラジオDJとして活動していたとされるものの、そのまま事実上の引退となる。「引退」に関しては当時さまざまな憶測が流れそのひとつに妊娠説もあったが、これについては本人が公式に代理人を通し「事実無根」と否定しており、いまだに真相は不明のままとなっている。

【加藤香子】

1983年、東京都立羽田高等学校卒業。同年ミスマガジンに応募し、見事優勝。ワンステップミュージック、ワーナーパイオニアと契約し、芸能界入り。1983年DELUXEマガジンの表紙グラビアにビキニ姿で初登場し、その巨乳のスタイルとうらはらな童顔で話題を集めた。
翌年、ワーナーパイオニアから「偽名」で歌手デビュー。デビュー曲「偽名」はリゾートでのひと夏の経験がテーマになった。
1986年、写真集野村誠一撮影「あれから」でいきなりヌードを披露した。その後出演した映画「まんだら屋の良太」でもヌードを披露し、その後引退した。

【青田浩子】

野球評論家の青田昇の五女。1983年8月、「ミス・ミスター映画コンテスト」でグランプリを受賞し、芸能界入り。翌年、映画『月の夜 星の朝』のヒロイン役でデビュー。また、同時に歌手デビューも果たす。1985年9月から、テレビ東京『おはようスタジオ』の司会を務めたほか、数々の映画・ドラマにも出演したが、現在は芸能活動を休止している。

【山本ゆかり】

1984年にトーラスレコード、研音主催「九州歌謡選手権ヤングフレッシュ・グランプリ」というオーディションで優勝し、芸能界入りする。研音のアイドル歌手として、約半年後急スピードで、1984年6月21日「私 MAILUWA」でアイドル歌手としてデビューする。
1985年、今までの正統派アイドル路線から、中森明菜のようなツッパリ路線に変更し、「ギンギラ御嬢」を発売。またパイナップルヘアーという髪型にし、この髪型もトレードマークで、売り出された。その後、ツッパリ路線第2弾として、マドンナのカバー曲「GAMBLER」を発売。今度は売春がテーマになった曲で話題を浴びた。
2002年、yarah-nooのベース担当の坂本竜太と結婚。現在もラジオDJ、イベントの司会業、ほかにボイストレーナーとしても活動している。

https://matome.naver.jp/odai/2140962205029532101
2015年05月26日